見えない誇り

@raputarou

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第一章 最初の一歩


午前五時。まだ薄暗い街に、私は一人立っていた。


私の名前は山田ユミ。二十八歳。清掃会社「クリーンアップ東京」に勤める清掃員だ。


大学を卒業後、何社か転職を繰り返し、半年前にこの仕事に就いた。正直に言えば、消去法で選んだ仕事だった。


「おはよう、山田さん」


声をかけてきたのは、先輩の佐々木トモコさん。五十代の、この道二十年のベテランだ。


「おはようございます」


私は、少し緊張しながら答えた。


今日は、私にとって単独での清掃業務初日だった。


「大丈夫、山田さんなら問題ないわ。研修で一番真面目だったもの」


佐々木さんが励ましてくれた。


私たちの担当は、都内の大手オフィスビル「スカイタワー」。地上三十階建ての高層ビルだ。


「では、それぞれの担当フロアに。何かあったら、すぐに連絡して」


現場責任者の田中課長が指示を出した。田中課長は四十代の男性で、厳しいが部下思いの人だ。


私の担当は、十五階。IT企業のオフィスフロアだった。


エレベーターで十五階に上がると、まだ誰もいないオフィスが広がっていた。


清掃カートを押しながら、私はチェックリストを確認した。


ゴミ箱の回収、デスク周りの拭き掃除、床のモップがけ、トイレ清掃——


一つ一つ、丁寧に作業を進めた。


研修で教わった通り、効率的に、そして「見えない」ように。


「清掃は、存在を消すことが大事。完璧な仕事は、誰にも気づかれない」


佐々木さんの言葉を思い出した。


作業を始めて一時間。


ふと、あるデスクに目が留まった。


そこには、大量の書類とコーヒーカップが散乱していた。灰皿には、吸い殻が山盛りになっている。


「これは......ひどいな」


私は、ゴミを集め始めた。


だが、その時。


書類の下から、一枚の写真が落ちた。


若い男性が、笑顔で写っている。


裏には、「頑張れ、俺」と書かれていた。


私は、写真をデスクに戻した。


きっと、この人も頑張っているんだろう。


清掃を終え、八時にビルを出た。


ちょうど、出勤してくるサラリーマンたちとすれ違った。


誰も、私を見ない。


当然だ。私たちは、「見えない」存在なのだから。


帰り道、コンビニで朝食を買った。


レジの店員が、私の制服を見て言った。


「お疲れ様です」


その言葉が、少し嬉しかった。


家に帰り、シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込んだ。


体は疲れていたが、悪い気分ではなかった。


初めて、「仕事を終えた」という実感があった。


その夜、スマホにメッセージが来た。


佐々木さんからだった。


『お疲れ様。初日、よく頑張ったわね。明日も、よろしくね』


私は、少し微笑んだ。


翌日、また五時に出勤した。


だが、十五階に上がると、異様な光景が広がっていた。


オフィスが、荒らされていた。




第二章 プロの仕事


デスクが倒され、書類が散乱し、壁には落書きがされていた。


「何これ......」


私は、すぐに田中課長に連絡した。


「課長、十五階が荒らされています」


『何だと!? すぐに行く!』


十分後、田中課長と佐々木さんが到着した。


「これは......ひどいな」


田中課長が、眉をひそめた。


「警察に連絡しますか?」


「いや、まずビルの管理会社に報告だ。佐々木さん、連絡を」


「はい」


佐々木さんが電話をかけ始めた。


私は、現場を見回した。


荒らし方が、やけに雑だった。まるで、怒りに任せて破壊したような。


「山田さん、これ、見て」


田中課長が、あるデスクを指差した。


そこには、「もう限界だ」と書かれた紙が置かれていた。


「これ......昨日、私が清掃したデスクです」


あの写真があった場所だ。


写真は、破られて床に落ちていた。


「もしかして......」


田中課長が何か言いかけた時、エレベーターが開いた。


出てきたのは、スーツを着た三十代の男性だった。


「何があったんですか!?」


男性は、オフィスの惨状を見て、青ざめた。


「あなたは?」


「この会社の総務部長、高橋です」


高橋部長は、私たちに事情を聞いた。


「恐らく、昨夜の間に荒らされたと思われます」


田中課長が説明した。


高橋部長は、深く息を吐いた。


「実は......昨日、社員の一人が退職届を出して、そのまま帰ってしまったんです」


「まさか......」


「おそらく、その社員の仕業でしょう。警察に連絡します」


高橋部長が去った後、田中課長が言った。


「さあ、仕事だ。警察が来る前に、現場を保存しつつ、他のエリアを清掃しよう」


私たちは、荒らされていないエリアから清掃を始めた。


だが、私の心は落ち着かなかった。


あの写真の男性が、こんなことを......


午後、警察の調査が終わり、清掃の許可が出た。


「では、復旧作業を始めます」


田中課長の指示で、私たちは荒らされたオフィスの清掃を開始した。


倒れたデスクを起こし、散乱した書類を拾い、壁の落書きを消す。


単なる清掃ではなく、「元の状態に戻す」作業だった。


「山田さん、こっちを手伝って」


佐々木さんが、大きなゴミ袋を運んでいた。


私も一緒に運んだ。


「佐々木さん、こういうこと、よくあるんですか?」


「いや、珍しいわ。でも、たまにある。人間の感情が、こういう形で現れることが」


佐々木さんは、悲しそうな表情だった。


「私たち清掃員は、そういう『後始末』もするの。表に出ない部分だけど」


「そうなんですか......」


「でもね、だからこそ大事なのよ。私たちが綺麗にすることで、次の日、また人々が働ける。そういう仕事なの」


佐々木さんの言葉が、胸に響いた。


夕方、ようやく清掃が終わった。


オフィスは、元通り綺麗になった。


高橋部長が、感謝の言葉をかけてくれた。


「ありがとうございます。本当に、助かりました」


「いえ、これが私たちの仕事ですから」


田中課長が答えた。


帰り道、私は佐々木さんに尋ねた。


「佐々木さん、この仕事、やりがいありますか?」


佐々木さんは、少し考えてから答えた。


「あるわ。見えないけど、確かにある」


その言葉の意味を、私はまだ理解していなかった。




第三章 見えない価値


それから一ヶ月が経った。


私は、毎日同じ時間に出勤し、同じフロアを清掃した。


徐々に、仕事に慣れてきた。


効率的な動き方、汚れの種類と落とし方、そして「気配を消す」技術。


ある日、十五階のトイレを清掃していた時のことだ。


個室から、泣き声が聞こえた。


「......」


私は、作業を止めて、そっと声をかけた。


「大丈夫ですか?」


「......すみません、すぐ出ます」


若い女性の声だった。


数分後、個室から出てきたのは、二十代の女性社員だった。


目が赤く腫れていた。


「あの......お疲れのようですね」


私は、優しく声をかけた。


女性は、少し驚いた表情を浮かべた。


「あ、清掃の方......すみません、お見苦しいところを」


「いえ、気にしないでください。お仕事、大変ですか?」


女性は、少し躊躇したが、やがて話し始めた。


「実は、ミスをしてしまって。上司に怒られて......」


「そうなんですね」


「もう、辞めたいって思ってます」


私は、少し考えてから言った。


「私も、この仕事を始める前、何度も転職しました。でも、逃げてばかりでした」


「......」


「今は、この仕事が好きです。見えないけど、誰かの役に立ってるって、実感できるから」


女性は、私を見つめた。


「見えない......でも、役に立ってる?」


「はい。私たちが清掃するから、あなたたちが気持ちよく働ける。それが、私たちの誇りです」


女性の目から、また涙が流れた。だが、今度は違う涙だった。


「ありがとうございます。少し、元気が出ました」


「頑張ってください」


女性は、笑顔で立ち去った。


私は、清掃を再開した。


この仕事は、見えない。


だが、確かに誰かを支えている。


そう、実感した瞬間だった。


その日の午後、田中課長が全員を集めた。


「来月、ビルのオーナーが変わる。新しいオーナーは、清掃業務の見直しを検討しているらしい」


「見直し......ですか?」


佐々木さんが尋ねた。


「ああ。コスト削減のため、外部委託から自社清掃に切り替えるかもしれない」


その言葉に、全員が固まった。


「つまり、私たちは......」


「クビになる可能性がある」


田中課長の言葉に、沈黙が広がった。


「ただし、まだ決定ではない。新オーナーとの交渉次第だ」


「どうすれば......」


「私たちの仕事の価値を、証明するしかない」


田中課長は、真剣な表情だった。


「今まで以上に、完璧な清掃を。そして、私たちにしかできないサービスを提供する」


全員が頷いた。


だが、その「私たちにしかできないサービス」とは何なのか、私には分からなかった。




第四章 プロフェッショナルの誇り


翌日、私は佐々木さんに相談した。


「佐々木さん、私たちにしかできないサービスって、何ですか?」


佐々木さんは、少し考えてから答えた。


「それはね、『気づき』よ」


「気づき?」


「そう。私たちは、毎日同じ場所を清掃する。だから、小さな変化に気づける」


「変化......」


「例えば、いつもと違う場所にゴミが落ちてる。デスクの配置が変わってる。そういう小さなことから、問題を察知できるの」


佐々木さんは、続けた。


「清掃は、ただ綺麗にするだけじゃない。その場所を『守る』仕事なのよ」


その言葉に、私は目から鱗が落ちた。


「分かりました。私も、もっと注意深く見ます」


翌週、私は十五階を清掃していた時、あることに気づいた。


トイレの個室の一つが、何日も使われていない。


普通なら、気にも留めないことだ。


だが、佐々木さんの言葉を思い出し、私はドアをノックした。


「清掃です。入ってもいいですか?」


返事はない。


私は、ゆっくりとドアを開けた。


そこには——


床に、大量の書類が隠されていた。


「これは......」


私は、すぐに田中課長に報告した。


「課長、トイレに書類が隠されています」


『何!? すぐに行く!』


田中課長と高橋部長が来て、書類を確認した。


「これ......機密文書だ!」


高橋部長が、青ざめた。


「誰が、なぜこんなところに......」


調査の結果、ある社員が不正を隠蔽するために、書類を隠していたことが判明した。


「山田さんのおかげで、大問題を未然に防げました」


高橋部長が、深く頭を下げた。


「いえ、私はただ清掃を......」


「あなたの『気づき』が、会社を救ったんです。ありがとうございます」


その出来事が、新オーナーの耳にも入った。


数日後、新オーナーが直接、清掃チームに会いに来た。


「私は、新オーナーの西村です」


西村氏は、五十代の落ち着いた男性だった。


「清掃業務の見直しを検討していましたが、先日の件で考えが変わりました」


「と、言いますと?」


田中課長が尋ねた。


「あなたたちの仕事は、単なる清掃ではない。ビルの『守り人』だと気づきました」


西村氏は、私たちを見渡した。


「だから、契約を更新します。さらに、待遇も改善します」


全員が、安堵の表情を浮かべた。


「ありがとうございます!」


田中課長が、深く頭を下げた。


その夜、チーム全員で打ち上げをした。


「山田さん、よくやったわ」


佐々木さんが、私の肩を叩いた。


「佐々木さんのおかげです。『気づき』の大切さを教えてくれて」


「いいえ、それを実践したのはあなたよ」


田中課長も言った。


「山田さん、君は立派な清掃員だ」


その言葉が、嬉しかった。


初めて、この仕事に誇りを感じた。


だが、この仕事の本当の価値を知るのは、もう少し先のことだった。




第五章 見えない誇り


それから半年が経った。


私は、今やチームのリーダー候補として、新人の教育を任されていた。


「では、山田さん、新人の鈴木さんをお願いします」


田中課長が、二十三歳の新人、鈴木ミキを紹介した。


「よろしくお願いします!」


鈴木さんは、元気で明るい女性だった。


「よろしくね。まず、基本から教えるわ」


私は、半年前の自分を思い出しながら、丁寧に教えた。


清掃の技術だけでなく、「気づき」の大切さも。


ある日、鈴木さんが尋ねた。


「山田さん、この仕事、楽しいですか?」


「うん、楽しいよ」


「でも、誰も見てくれないし、感謝もされないですよね」


その言葉に、私は少し考えてから答えた。


「確かに、見えないかもしれない。でも、私たちの仕事があるから、みんなが気持ちよく働ける」


「......」


「それに、時々、感謝されることもあるのよ」


そう言った矢先、エレベーターから一人の女性が降りてきた。


以前、トイレで泣いていた女性だった。


「あ、清掃の方!」


女性は、私を見つけると駆け寄ってきた。


「あの時は、ありがとうございました。あなたの言葉で、頑張れました」


「え......覚えてくれてたんですか?」


「もちろんです! 実は、プロジェクトが成功して、昇進したんです!」


女性は、嬉しそうに報告してくれた。


「おめでとうございます」


「本当に、ありがとうございました!」


女性は、深く頭を下げて去っていった。


鈴木さんが、目を輝かせて言った。


「すごい! 山田さん、感謝されてる!」


「たまたまよ」


私は、照れくさそうに答えた。


だが、心の中では、温かいものが広がっていた。


見えない仕事だけど、確かに誰かを支えている。


それが、私たちの誇りだ。




一年後


私は、田中課長の後を継いで、現場責任者になっていた。


毎朝五時、チームを率いてビルに入る。


新人たちに、清掃の技術だけでなく、プロとしての心構えを教えている。


「清掃は、見えない仕事です。でも、だからこそ誇りを持ちましょう」


新人たちが、真剣な表情で聞いている。


「私たちは、このビルの『守り人』です。小さな変化に気づき、問題を未然に防ぐ。それが、私たちのプロフェッショナルな仕事です」


朝礼を終えて、各フロアに散っていく仲間たち。


私も、自分の担当フロアに向かった。


十五階。


一年前、初めて単独で清掃したフロア。


今では、目を閉じても作業ができるくらい、慣れ親しんだ場所だ。


清掃カートを押しながら、私は窓の外を見た。


朝日が、東京の街を照らし始めていた。


これから、無数の人々が働き始める。


その人々が気持ちよく働けるように、私たちは今日も見えない場所で働く。


それが、私の誇りだ。


見えない誇り。だが、確かにそこにある誇り。

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