第8話 領域②
「はい。先生、どうしました?」
受話口から、柔らかく穏やかな声が届く。
数日ぶりに聞くその声は、懐かしさを伴って胸の奥をじんわり温めた。
『古川さんの声が聞きたくて……つい電話してしまいました』
「先生……お疲れですか?」
『そうですね。認めざるを得ないかもしれません。
少し忙しくしていましたから』
その言葉だけで、目の奥に浮かぶ先生の顔が少しだけ陰る。
本業に加えて副業。無理をしていないはずがない。
「なるほど。では――エナジー古川、出動要請ですね?」
冗談めかして返すと、先生はフフフと小さく笑った。
その笑いが戻っただけで、こっちの肩まで軽くなるから不思議だ。
「先生、土曜日の午後から、ご飯作りに伺いましょうか?」
『え……本当に?』
「先生お疲れですし、エナジー古川が参上します。
何か食べたいもの、リクエストしてくださいね」
『……はい。では明後日、お願いします』
少しだけ明るさを取り戻した声に、胸がほっとする。
私は「おやすみなさい」を返し、通話を切った。
――土曜日は久しぶりに先生と過ごせそうだ。
さっきまで開いていた検索画面が、ふいに頭をよぎる。
あの名前、あの記事。
どきりとしたが、今回の電話は無関係らしい。
そう思い込むように、私はスマホを伏せた。
◆
今日は神社への配達日。
社長の車の助手席に座り、すっかり助手として動くのも板についてきた。
昨夜の調べ物――あの事件。
神社関係に詳しい社長なら、何か聞いているかもしれない。
胸の中で迷って、迷って、それでも言葉がこぼれた。
「社長……何年か前に、呪術師の女性が殺された事件があったって聞いたんですけど」
「ああ、あったな。酷い状態で見つかったそうだ。確か、まだ未解決だ」
やっぱり知っている。
私はハンドルを握る横顔を盗み見て、もう一歩だけ踏み込んだ。
「怨恨だって噂も聞きましたが……」
「そうだな。客とのトラブル説、ストーカー説……
あと、宗教が絡んでるって話もあった」
「宗教……?」
「“カルト”ってほど確かな話じゃねぇ。噂だ。
ただ、その女は霊感が強かったらしくてな。
変な連中に利用されて、表に出された――
なんて筋書きも聞いたことがある。
警察が踏み込みにくい領域、ってやつだ」
噂、噂。
それでも喉の奥がひやりと冷える。
「……闇が深いですね」
「で?」
社長が、わざとらしく間を置く。
口元が、にやりと歪んだ。
「お前、何を調べてる?」
「……気になっただけですよ。私には何もできませんから」
そう答えると、社長は「ふーん」とだけ笑った。
その笑いが、妙に意味深で、余計に胸に残る。
◆
配達を終え、最後は松川神社。
段ボールを抱えて社務所へ入ると、柏原さんが笑顔で迎えてくれた。
「お疲れ様。お茶、飲んでいって」
「はーい」
湯呑みに手を添えたとき、祈祷殿の方から祝詞が響いてくる。
一定の抑揚、澄んだ声、紙垂の揺れる気配。
静かなのに、胸の奥のざわめきが整っていく。
「なんだ、またお祓いか?」
社長の問いに、柏原さんが首を振った。
「あの一件以来、この時間になると祝詞をあげるようになったの
。……自分への戒めだって」
「なるほどな。あいつなりの落とし前か」
社長は茶をすすり、私へ目を向けた。
「古川、邪魔しないように聞いてきたらどうだ」
「えっ、いいんですか?」
「構わんさ。ゆっくりしてるから」
「はい!」
促されるように祈祷殿へ向かう。
扉の前で一度息を整え、そっと中を覗く。
祝詞をあげる宮司さんの背は、以前よりずっと静かだった。
言葉の一つ一つが、祈りというより――自分を縛る綱のように見える。
やがて声が止み、宮司さんが振り返った。
「やぁ、いらっしゃい」
微笑む顔に、私は礼を返す。
「お体は、もう大丈夫ですか?」
「ああ。もうすっかり。色々と世話になったね」
「私は何も……他の方々のおかげです」
苦笑する私に、宮司さんは穏やかな目を向けた。
「……聞きたいことがあるのかな?」
胸が跳ねた。
見透かされた、というより――待っていた、に近い声音だった。
「羽生さんとの約束を破ることになりますけど」
「なるほど。じゃあ僕も一緒に怒られるかな」
冗談めかして笑ってくれる。その笑顔に甘えて、私は核心を問う。
「但馬さんの体を蝕んでいる呪詛……あれを祓うことは、不可能なんですか?」
宮司さんの表情が、少しだけ翳った。
祈祷殿の空気が一段冷える。
「あの子が呪物を集め、呪いの依頼を受け始めたのは……五年前からだ」
「五年前……それは、但馬香奈枝さんと関係が?」
その名を出した瞬間、宮司さんは目を見開き――ゆっくり息を吐いた。
「やはり……調べたんだね。香奈枝は涼太郎のお姉さんだ」
「……やっぱり」
言葉が、喉の奥で乾く。
答え合わせをしたいわけじゃないのに、確かめずにはいられなかった。
宮司さんは、しばらく黙った。
沈黙の中に、祝詞の余韻だけが残っている。
「涼太郎はね……亡き姉を救うために呪術師になった。魂を解放するために」
「……魂を?」
肉体はもうない。なのに、魂が――?
私の疑問を受け止めるように、宮司さんは静かに続けた。
「彼女の魂は捕らわれ、今も苦しんでいる。
涼太郎は、その身代わりとして、自分の魂と入れ替えようとしているんだ。
それが君の見た呪詛だよ」
胸の奥が、きゅっと締まった。
理解できたようで、理解したくない。
「どうして……身代わりでしか……」
強い言葉が、勝手にこぼれる。
宮司さんは首を横に振った。
「どうにもならないことが、この世界にはある。
神職であっても、不条理は拭えない。悲しいことだが……」
悔しさが、熱い塊になって喉元に詰まる。
一番苦しいのは、涼太郎本人で。
そして捕らわれた姉で――。
「残念ながら、僕では力不足だ」
宮司さんの声が、少しだけ低くなる。
「……古川さん、これ以上は関わらないで。君に何かあれば、悲しむ人がいる」
穏やかな微笑みに、静かな警告が宿っていた。
「……わかりました。教えてくださり、ありがとうございました」
深く一礼して祈祷殿を後にする。
最近は但馬さんと顔を合わせることもない。これも縁切りの効果なのだろう。
――このまま会わなければ、心の執着も、いずれ消えるのかもしれない。
――でも。
ただ、彼に助かってほしい。
その思いだけは、まだ胸の奥で、消えずにくすぶり続けていた。
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