第7話 解除③
結界の中心。ベッドの上に松川が静かに横たわっていた。
繋がれた医療機器が規則的にリズムを刻み、その音だけが病室に淡く残っている。
意識は戻らない。だが――どこかへ連れていかれたわけでもない。
まるで一本の細い糸で、辛うじて現世に繋がれているようだった。
松川の皮膚の下を、黒い糸のようなものが這い回っている。
血管ではない。呪詛の痕だ。
枕元に置いた黒曜石の護符は邪気を吸い続け、表面に細かな亀裂を走らせていた。このままでは、そう長くはもたない。
「羽生君……あまり時間がなさそうなので、外へ出ていてください」
東地が低く告げると、羽生は一度だけ頷いた。
「ああ。点野が来たら外で待機でいいんだな?」
「ええ。点野君なら中の様子が視えます。二人がかりになった時は――
お願いします」
短いやり取りののち、羽生は病室を出ていった。
静かに閉じられたドアの音を背に、東地は深く息を整える。
そして松川の枕元に立ち、そっと声を落とした。
「松川さん……もう少し、持ちこたえてくださいね」
黒曜石の長い数珠を両手で掲げ、経を唱えはじめる。
――刹那。
松川の口と鼻から、どす黒い瘴気が呻き声とともに溢れ出した。
空気が腐るような匂い。湿った冷気。
目に見えないはずの“重さ”が結界の内側を満たしていく。
「……嫌な瘴気ですね。毎度のことながら、但馬君……手の込んだことを」
低く呟き、東地は数珠をさらに握り込む。
呪いは暴れる。
まるで生き物のように天井へ這い上がり、結界の縁を叩く。
東地はそれを逃がさない。
経を重ね、結界の内側へ押し戻す。
押し戻すたび、視界の端が白く滲み、汗が顎先から落ちた。
「持っていかれるな……正気を……繋ぎ止めろ……」
足裏に力を込める。
祈りではない。これは、削り合いだ。
呪いと命が、互いの“残り”を奪い合う戦い。
外に出ていた羽生は、廊下にまで響く声に背筋を凍らせていた。
祈祷ではない。
――戦闘だ。
◆
松川神社に到着した私は、社長と並んで社務所へ向かった。
掃き掃除をしていた柏原さんがこちらに気づき、驚いたように目を見開く。
「おはようさん」
「おはようございます。朝からお揃いで……驚いたわ」
社長の軽い挨拶に、柏原さんはふっと安堵の笑みを返した。
「今日は仕事にならなそうだし、柏原さんが心配で来ちゃいました」
「……良かった。実はね、どうにも落ち着かなくて」
「皆、同じですね。お茶を淹れるわ。中に入って」
箒を片付け、私たちを招き入れる。
「少しは眠れたか?」
「それが……あまりね」
柏原さんの目は赤く充血していた。
無理もない。
私だって、東地先生から“成功”の言葉を聞くまでは
胸のざわつきが収まらない。
「私、お参りしてきますね」
二人を残し、本殿へ向かう。
鈴を鳴らし、手を合わせた。
――宮司さんと先生が、無事でありますように。
――皆の不安が、少しでも晴れますように。
願いを込め、深く頭を垂れる。
そのあと御神木の前に立ち、そよぐ風を胸いっぱいに吸い込んだ。
枝葉の揺れる音が、ほんの少し心を落ち着かせてくれる。
その時だった。
背後で草を踏む音がして、振り返る。
「……但馬さん?」
そこには、こちらを見据える但馬が立っていた。
口角を上げ、まるで世間話でもするように言う。
「よぉ。朝からサボりか?」
胸がざわつく。
なぜ、この人がここに。
問い詰めたい衝動が喉までせり上がる。
けれど、言ったところで響かない。
――関わらないのが一番だ。
私は何も言わず、通り過ぎようとした。
「お祓い屋、呼んだんだってな」
低く落とされた声に、思わず足が止まる。
「依頼したの、浅葱ってやつだろ? ほんと邪魔なんだよな」
「……邪魔? 宮司さんが助かるように解除してくれてるんですよ」
「解除なんて面倒なことしないでさぁ。呪い主に返せば簡単じゃん」
「簡単って……人の命が関わるんですよ?」
「関わるからこそ……だろ?」
但馬の目は、ぞっとするほど冷ややかだった。
血の気を失ったみたいな瞳。
それなのに口元だけが笑みを形作る――
顔の部品が別々に動いているようで、不自然さに息を呑む。
次の瞬間。
袖口から赤黒い染みが広がり、滴が土を濡らした。
鉄錆の匂いが、風に乗って鼻を刺す。
「……解除、終わったみたいだな」
「ちょ、血が……! 大丈夫なんですか!」
駆け寄ろうとした足が、不意に止まる。
滲み出す血が――まるで意思を持つように、腕を這い、
脈打ちながら動いていたのだ。
だが但馬本人は、痛みを一切感じていない顔で淡々と告げる。
「人の命を扱えば、こっちにだって返ってくる。俺も例外じゃねえ」
その声は、血が滴る音さえ呼吸の一部みたいに自然だった。
まるで彼自身が、“人”の形をした呪具みたいで――ぞっとする。
震える手でハンカチを取り出し、血を押さえる。
但馬は薄く笑った。
「別に放っておいても止まるのにな」
「……見てるだけじゃ、痛々しいから」
呟くと、彼は一瞬だけ目を細める。
その意味を読み取る前に、ポケットのスマホが震えた。
画面に映る名前は――東地先生。
「解除の報告だろ。じゃあな」
但馬は背を向け、ゆっくり歩き去った。
血の跡を残しながらも、その足取りは不思議なほど揺るがない。
震える指で通話ボタンを押す。
『……解除、成功しましたよ。宮司さんも大丈夫です』
安堵の声に、胸の奥がじわりと熱を帯びた。
「……先生。本当に、お疲れさまでした」
頬を伝う涙を拭う間もなく、社務所の方から社長の声が飛ぶ。
「おーい、古川ー!」
どうやら社長にも連絡が入ったらしい。
私は踵を返し、駆け足で社務所へ戻った。
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