【短編小説】名前のない、とある透明な旅人の寓話

藍埜佑(あいのたすく)

序章 名前を持たない朝

 目を開けた。


 どこかで水の滴る音がしている。規則正しく、けれど一定ではない間隔で、ぽたり、ぽたり、と。天井は見えない。あるいは、見えているのかもしれないが、それが天井なのかどうかを判断する基準がない。白とも灰色ともつかない色彩が、視界の上半分を覆っている。


 身体を起こそうとする。腕がある。脚がある。胴体がある。それらは確かに動く。けれど、この身体が「自分のもの」であるという確信が、どこにも見当たらない。


 ぬるい。


 空気の温度だろうか。肌に触れる何かの温度だろうか。それとも、自分自身の体温だろうか。境界がない。溶けている。自分と世界の間に、明確な輪郭線がない。


 立ち上がる。足の裏に、滑らかで冷たい感触。床だ。床がある。ということは、ここは部屋なのだ。部屋には壁があり、天井があり、そして出口があるはずだ。


 歩く。


 壁に手を触れる。指先が、ざらついた表面をなぞる。砂の粒が、爪の間に入り込む。壁は砂でできている。押せば崩れそうなのに、崩れない。矛盾している。けれどその矛盾を、身体は受け入れている。


 どこかで、オルゴールが鳴っている。


 いや、鳴っていない。鳴っていたのかもしれない。あるいは、これから鳴るのかもしれない。時間の感覚が、水に落とした墨のように滲んでいる。


 足元に、何かが転がっている。


 屈む。拾い上げる。手のひらに収まるほどの大きさの、錆びた金属の箱。蓋を開けると、小さな円筒が見える。オルゴールだ。壊れているのか、ゼンマイを巻いても音は出ない。けれど、指先に伝わる微かな振動。何かが、動こうとしている。聴こえない音楽が、そこにある。


 このオルゴールを、持っていこう。


 なぜそう思ったのか、分からない。分からないまま、手は箱を握りしめている。


 壁の一部が、崩れた。


 砂が足元に流れ落ち、その向こうに、光が見える。黄金色の、濃密な光。砂塵を含んで、きらきらと揺れている。


 外だ。


 外に、世界がある。


 一歩を踏み出す。砂を踏む音がする。さくり、と。その音が、自分が存在していることの、唯一の証拠のように思えた。

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