恋愛リテラシー

きのこスープ

第1話

「道生くんって、私の事本当に好きじゃないでしょ」

栗色の長い髪をふわふわと揺らしながら一歩先をゆっくり歩く彼女は、足を止めることなく進んで行く。


―――好き。


俺は美優のことは好きだ。それは間違っていない。


「何言ってんだよ。俺は美優のこと好きだよ」

「嘘」


急に立ち止まり振り返った彼女の目には、涙があふれていて、

零れ落ちた雫が一つ、彼女の頬を濡らした。

そんな彼女をみても、不思議と心は平静なままだ。


「道生くんの私への好きは、友達の好きだよ。」




恋愛リテラシー 

第一話 






遠くから聞こえてくる規則的な電子音がこれは夢なのだと告げる。

ゆっくりと瞼を開くと、カーテンの隙間から明るい光が差し込んでいた。

目をこすりながらサイドテーブルに置いてあった目覚まし時計のスイッチを切る。


「まだ引きずってんのか俺」


重い体を無理に起こして立ち上がり、カーテンを勢いよく開けると一瞬で部屋が明るくなる。空は雲一つない晴天だ。


「よし……今日も仕事だ。」








株式会社イエローバード。

ビジネス街の中でもひときわ高いそのビルを見上げるたび、俺は自然と背を伸ばしてしまう。

『人生を変える一杯を働く現場に』

入社当時は少し気恥ずかしかったそのミッションも、今ではすっかり見慣れた言葉になった。

法人向けにコーヒー豆を卸し、オフィスや病院、研究施設にマシンを設置する。

豆の選定からカスタマイズ、保守管理まで全部まとめて請け負うのが売りだ。

正直、外から聞くとややこしいが、要は「仕事場にコーヒーを届ける会社」だ。

売り上げもかなりあるらしい。

細かい数字はよく覚えていないが、ひとつの契約で億単位が動くことも珍しくないと聞いた。

そんな会社の中で、営業一部第一課は花形部署だ。

そして、その中心にいるのが——





「春日くーん」


声のした方向を向くと、ロビーの休憩室でコーヒーを飲んでいる男が柔らかな笑顔で手招いている。近くにいた女性社員達は微笑む彼をみてわっと声を上げた。


三笠耕平。32歳。営業一部 第一課主任。寝癖のないセットされた髪に、きっちり折り目のついているシャツは、彼が几帳面な性格だということがわかる。俺はその笑顔につられて微笑み、三笠の所へ移動した。


「おはようございます!三笠主任!」

「おはよう春日君。君はいつも元気がいいね。見ていて気持ちがいいよ」

「ありがとうございます!今朝は優雅にコーヒータイムですか?」

「そんな素敵なものじゃないよ。実は寝坊してしまってね、バタバタしててコーヒーを飲めなかったからここで頂いているんだよ」


今がクールビズの期間でよかったよ、と少し照れたように言う。

この容姿でこういうことをサラッと言えちゃうところが、女性社員に人気の理由なんだろうな なんて納得しつつ俺も自販機の前に立った。

社員は無料で自社ブランドのコーヒーを飲める。ありがたい制度だ。


「隣、失礼します」


三笠は「どうぞ」と柔らかく微笑んだ。


「君、うちの課に来て二か月になるけど、どうだい?慣れてきたかい?」

「はい。林先輩と主任のわかりやすいご指導のおかげです」

「はは。そんなに持ち上げても何も出ないよ」

「そんなつもりでは…」

「ふふ。わかってる。それでね」


そう言って体を少しだけこちらに向ける。


「昨日、林君が休んでいただろう?」

「はい」

「椎間板ヘルニアらしくてね、しばらく入院するそうなんだ。だから、代わりに今日から僕が君と組むことになった。よろしくね」


三笠は、営業一部で常にトップの成績を出している人だ。数億規模の案件を任される、いわば実務のエース。課長や部長も一目置いている存在で、正直、どんな営業をするのか気になっていた。

これは―――チャンスだ。


「はい!よろしくお願いします!」

「ふふ。じゃあそろそろ上がろうか。」


立ち上がる三笠に反射的に手を伸ばす。


「あ、ゴミ捨てます」

「ありがとう」


飲み終えたコップを二つ、ゴミ箱に放り込む。

期待を抑えながら、俺は三笠の隣を歩いた。







日も沈み、静まり返ったオフィスで俺は、デスクに広げた数枚の書類と睨めっこをしていた。何度も何度も読み直し、ミスがないか確認する。時計の針は午後八時を指していた。


「……出来た」


 両手を挙げて背筋を伸ばすと無意識にあくびが出てしまった。


「ふふ、お疲れ様。はいコーヒー。零さないでね」

「あっありがとうございます!」


 給湯室から出てきた三笠は、マグカップを手渡し、隣の椅子に座った。俺は出来た書類を三笠に手渡す。


「ど、どうでしょうか」


 あまりの真剣な顔に不安になって聞くと、三笠はにっこり笑って書類を返した。


「内容は大丈夫だけど、押印を忘れているよ。ここ」

「ああ、本当だ!すみません!」

「こことても大事だから次から気を付けて」

「はいっ!」


きっちりハンコを押した隣に三笠もハンコを押し、書類を仕舞う。

俺はフーッと息を吐いて深く腰を掛け、コーヒーに口を付けた。


「まさか先方さんとのアポが二時間もずれ込んじゃうなんてね。」

「でも主任、すごいですね。あの空気、一瞬で変えてましたよね。おまけに契約まで漕ぎ着けて」

「それは君が好意的に相手の話を相槌打って聞いていたからだよ。誠意って伝わるから、君の手柄でもある」


思いがけない返しに、照れてしまう。


「そんな!俺なんてなにも」

「ふふ。もっと自分に自信をもって」

「ありがとうございます」


 急にデスクの上のスマホが震えた。三笠は表示されてる名前を確認すると、そのままポケットに仕舞ってしまった。静かなオフィスに鈍いバイブ音が響く。


「出ないんですか?」

「うん。あとで掛けるよ。そうそう、仕事終わったなら先に帰ってもいいよ。僕はまだかかるから」


自分の席に戻って止めていた作業を再開する三笠。


「あの、なにか手伝えることはありませんか?」

「うーん」


少し視線を宙に泳がせて、にっこりとほほ笑む


「ないかな。ありがとう」

「わかりました!ではお先に失礼しますね。お疲れ様でした!」

「お疲れ様、よい週末を」

「主任も!」


飲みほしたマグカップを片づけて、ロッカールームへ向かう。明日が休日とあってか、その足取りは軽い。ロッカールームについて、隣の林の名前を見た時、思い出した。


「林先輩の入院先、聞いてなかったな。」


しばらく考え込み、荷物を持って踵を返した。


「お見舞い、早い方がいいもんな」


来た道を戻ると、少し空いた扉の向こうから三笠の話し声が聞こえる。俺は邪魔をしないように扉の外で待つことにした。



「そうか。よかったね。おめでとう。僕も嬉しいよ。式はいつ?」

「はははだよね。決まったら教えて。うん。わかった。じゃあね」


 少しの沈黙が続く。電話を切ったのだと確信し、扉を開けた。


「すみません主任、俺、林先輩の入院先を聞いてなか…」


 驚いて固まった三笠の目は赤く潤み、瞬きと同時に零れ落れた雫が、今朝夢でみた美優の姿と重なった。



―――何で今あんな夢を。



「すみません俺!出直して―――」

「あ、待って」


 慌てて出て行こうとすると呼び止られる。


「病院の住所、すぐ用意するから」

「あっ…ありがとうございます」


 三笠は涙を袖で拭きながら鞄から手帳を出して、メモ帳に書き写している。

事故とはいえ、上司の泣いているところを見てしまった気まずさでどうしていいのかわからない。

そんな俺の気持ちを悟ってか、三笠はいつもの調子で口を開いた。


「驚かせてごめんね。びっくりしたよね。30過ぎたおじさんが泣いてたんだから」


なにか返さなければと口を開く。


「いえ、あのっ、さっきの電話の彼女の事、好きだったんですね」

「え?」

「あ、さっきの電話で……」


そこまで口に出してしまって気づく。これでは会話を聞いていましたと言っているようなものだ。よく考えずに声に出してしまったことに後悔した。


「……すみません」


一瞬の沈黙の後、三笠は悲しそうに笑って言った


「そうだよ」


泣くほど好きという気持ちは、どんな気持ちなんだろう。


俺は、美優も三笠も、自分とは違う世界を生きてるみたいで、なんだか羨ましく感じた。

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2026年1月14日 20:00
2026年1月16日 20:00
2026年1月18日 20:00

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