タナトス・メイカー
暇崎ルア
タナトス・メイカー
俺の目の前に女がいる。艶やかな黒髪をした、なかなか美人な女だ。
「あなたは己の欲望を解き放った」
微かに吹いている風に髪をなびかせながら、女は俺に言う。
「その欲望は人間が抱える根源的な欲望だ。男であれど女であれど、子供であれど老人であれど、全ての人間が持っている」
何を言っているんだ、こいつは。女の言っていることが俺には全く理解できず、聞いていられなくなる。
「しかし本来であれば満たしてはいけない欲望だ。一度でも満たせば罰を受けるであろう。己が野卑なる欲望を満たしたことにふさわしい罰を」
もうやめろ、変な話をするのはやめろ。
俺は大声で叫んだ。
〇月×日
変な夢を見た気がする。中身は覚えていないが。
あの変な夢は、俺の身に降りかかることへの予兆だったのだろう。もちろん悪い方だ。
クローゼットを開けた途端、直立した女が俺の方に倒れかかってきたので、すんでのところでかわす。艶のある黒髪と、細い腰つきを強調するタイトなワンピース。そしてそこらの女優顔負けの綺麗美貌を持った若い女が顔をゆがませ死んでいる。
言うまでもなく俺の頭はパニックになる。なぜ俺の部屋のクローゼットで死んでいやがるんだ。まさか俺が殺したのだろうか?
フローリングに細い四肢を伸ばして横たわる女。恐る恐る顔に触ってみると、ひんやりと冷たい。死んでるんだから当然か。人間は死後数日経つと腐るというが、今見ている分にはそれほどでもない。死んだのは昨晩のうちなのかもしれない。
こいつは誰なのだろう。俺の知りあいにこんな女がいた記憶はない。もし、知りもしない他人だったとしたらどこで関わったのだろうか。そういや、俺は昨日の夜どこで何をしていた? 朝から夕方まで仕事に出たことは覚えている。しかし、仕事中にこの女と関わったことはないというのは確かだ。
……いかん、何も思い出せない。どれほど頭をひねっても。なぜ夕方以降の記憶が飛んでいる? 仕事帰りに俺を恨む人間にヤバい薬でも盛られたのかもしれないが、全く思い出せない以上推測の域を出ない。しかし、ここまで記憶が蘇らないことなどあるのか。俺は脳の病気にでもなっちまったのだろうか。
これ以上思い出そうとする前に、この女の処理を考えるほうが先決かもしれない。どうしたものか。
俺の住むアパートの裏には、魑魅魍魎が出るとかで昼間でも地元の人間が近づかない森がある。なぜそんな言いぐさがついたのかは見当もつかない。怪しげなスポットなどどこもそんなものだろう。
これから車でもひとっ走りさせて森のちょっと入ったところに埋めるとするか。死臭とかが車につかないか心配だが、背に腹は代えられねえ。あとで消臭剤でも買って置いとけば何とかなるだろう。
〇月△日
朝、強烈な頭痛で目が覚める。今日が休みだったのが幸いした。
どことなく胸焼けもするところを見ると二日酔いのようだ。昨晩どれだけ飲んだんだか。シャワーでも浴びてアルコールを抜くことにしたが間に合わず、お湯を出す前に胃の中身を全てぶちまけてしまった。シャワーはついぞ出したものを下水へ送るのに役立った。
いくらか気分がすっきりして、散歩に出ると知らない男に呼び止められた。俺よりも三周り以上は年のいったおっさんだった。
おっさんは妙に人懐こい笑顔と茶色い歯を向けて、俺に近寄ってきた。洗濯でも香水でも取れないであろうヤニの匂いがした。
「おお、昨日のにいちゃんじゃないか」
誰だ。お前は昨日の誰だ。
「なんだ、忘れちまったのかよ。飲み屋でちょいと話したじゃねえか」
ああ、ようやく思い出した。
夕べ、仕事帰りに一杯と一人しけた飲み屋に入ったのだ。そこのカウンター席で隣にいたのが、このおっさんだ。競馬と政治情勢の話でもしたかもしれない。
「そんで、あの子とはうまくいったのかよ」
おっさんは下卑たにやつきを見せる。また知らないやつが出てきた。
「おいおうい、気に入った女の子のことも覚えてないのかよ。後からあんたの隣に来た女の子といい雰囲気になってたじゃねえか——へっへっへ、若えもんは羨ましいなあ」
待てよ、それって。髪が黒くて艶やかな女のことか?
「そうそう、そうだよ。あれからどうなった?」
頭が痛い。あの浴室の女は。
「やっぱりよ、いいとこまで行ったんだよなあ? ちょっとぐらい、教えてくれよお」
どうにもむしゃくしゃする。これを止めねえと。
〇月◇日
これで二度目だ。クローゼットの次は浴室と来やがった。
今度の奴は頭が寂しくなったおっさんだった。首のところが赤くなっているのは絞められた跡なのか。指紋でも取れれば誰がやったのかわかるかもしれないが、そんなことのできるわけがない。やはり俺が手をかけたのか。
それともこの家が呪われていて、きのこが生えるように死人が生えるのか。あるいはどこかで人が死ぬと俺の部屋に自動的に転送されるのか。だが、そんな話は安っぽいナンセンス文学で十分だ。
真面目に考えればこの二日酔いと関連があるんだろうな。昨日どこかで飲んだ帰りに、何かのきっかけで、酔いに任せてやってしまったのかもしれない。前回のあの女もそうだったんだろうな。悔やんでも悔やみきれないが、俺が殺したという証拠はどこにもないというのも事実である。騒ぎを起こさなければそれでいいだろう。
あとでまたあの森にお世話になりに行くか。そしてこれを機に酒はやめることにしよう。酒を断てば節約にもなって一石二鳥だ。
しかし、本当に何なんだ。
昨日も今日もアルコールは一滴も口にしていない。外へも一歩も出ていない。だというのにこのザマはなんだ。自分の家が死霊の通り道だったなんて話があるが、死人の溜まり場だったなんて話は聞いたことがない。実体がない分、幽霊の方が何倍もマシだ。こいつらは放っておけば俺の部屋に居座ったまま腐っていく。クローゼットの中の女の件が始まって以来、何か嫌なものがこの部屋に溜まっていっているように感じる。除霊師でも呼んでお祓いとか何とかしてもらった方が良いのか。
携帯で「お祓い 依頼」と検索したら受け付けてくれる除霊師がいた。藁をも掴む想いで依頼のダイレクトメールを送る。まさか「死人が勝手に出てくる部屋だ」などとは言えないので、「自分の家の中で幽霊を見た。お祓いをしてほしい」とお願いした。これで充分だろう。
まさか除霊師にこんなことを頼む日が来るとは思わなかったが、もうどうにでもなれだ。
〇月△日
依頼した除霊師がやってきた。着物を着て、数珠をじゃらじゃらつけた除霊師がくるという勝手な偏見があったが、やってきたのはジャケットに黒いパンツを履いた普通のおばさんだった。
「あらあら、ここは良くないですねえ」
除霊師のおばさんは、俺の部屋を見るなりすぐさまそう言った。「うわ、こんなひどい部屋が世の中にはあるのね」と言いたげに口元を歪ませて。
「悪い気が溜まっています。今すぐに綺麗にしないと大変なことになりますよ」
「ここにずっと住んでいたら死んでしまいますか」
「死ぬだけならまだいい方です。もっと大変なことになります」
除霊師は血のように赤い唇をにいっと引き上げて笑った。
わけがわからない、死よりも大変なこととは何だ。死は救済ということか。なんてことを言うんだ、このおばさんは。
「私はおばさんではありません、お姉さまとお呼びなさい——そんなことはともかく、あなたがさっき言ったことは正しい。人はみな現世という地獄で生きています。だから今この瞬間もどこかで誰かが死んでいる」
何? この世は地獄だと?
「あなたが欲しているのは安らぎでしょう」
なんてこった、このお姉さまの言う通りだ。俺は疲れている、生きることに疲れている。
「あなたの欲している欲望がこの部屋に溜まっているのです。強い欲望は具現化され、どこかで
死んだ誰かが死人としてここにやってくる。ああ、恐ろしい」
ようやく気付く。あんたは何を言っているんだ。なぜ俺の考えていることが手に取るようにわかる?
「それぐらい簡単にわかりますよ、あなたは単純ですからね」
わかったぞ、このおばさんは除霊師なんかじゃない。悪魔なんだ。許さねえ、こうしてやる。
○月□日
ああ、ああ、本当に俺はどうなっていくんだ。クローゼット、風呂の次はトイレで中年の女が洋式トイレに寄りかかり、天井を仰ぐ状態で死んでいた。赤い口紅をべったりと塗ったおばさんだった。唇だけじゃなくて、後頭部まで真っ赤になっていた。今からこのおばさんのことを「クリムゾンおばさん」と呼ぼう。死人らしく青ざめた顔の上に、下卑た笑いが張り付いているのにうすら寒いものを感じる。
笑いながら死んだのか、あんたは最後に何を見ながら絶命したんだ。自分を殺す相手が滑稽で仕方なかったのか。そんな風に笑うなよ。嘲笑ってくれるなよ。
今日は一歩も外に出ねえぞ。人のいるところに行くのはおろか、アパートの向かいにある自動販売機にも行かなければ、この部屋にいるのは俺だけのままでいられるだろう。それができるだけの食料はあるんだからな。
玄関のドアも鍵をかけた上に、さらにチェーンをかけた。宅配便だろうが宗教勧誘だろうが何だろうがインターホンを鳴らしても金輪際玄関は開けるものか。
夜だって眠らなきゃ良い。俺の意識の隙をついて誰かが死人をうちに放り込んでるとしたらそれを防げるってわけだ。ざまあみろ。大体ここは俺の部屋なんだ。俺の平穏を邪魔する奴は何人だろうと許さねえ。
ちくしょう、本当に俺の人生は何なのだ。昨日除霊師にお祓いをしてもらったばかりなのに。
いや、本当にしてもらったのか? どことなく部屋の空気の重さは変わっていない気がする。
〇月〇〇日
ふと、思った。ここ最近ずっと調子がおかしいのは俺の記憶がないからなのではないか、と。むしろこの可能性に今まで思い当たらなかったことの方が不思議なくらいだ。
調べてみると、失った記憶を取り戻すために催眠術を使う療法というものがあるらしい。ネット検索で調べると、今からでも対応してくれる催眠療法士とやらの診療所があったから行くしかない。
診療所はなんと家から歩いてすぐのビルにあった。「灯台下暗し」というやつだ。興味がなかったから今まで存在に気がつかなかったのだろう。
「お越しくださりありがとうございます。本日担当させていただく……」
催眠療法士の男は俺と同い年のようだったが、名乗られた名前は憶えていない。そもそも俺は人の名前を覚えるのが得意ではないのだ。
「さて、お悩み事はなんですか」
療法士はコーヒーカップに砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜながら言った。かき混ぜ方がどこかキザで癪に障った。
「ええと、そうですね」
何を言うべきか少し悩んだ。「部屋の中に死人がある気がするのだが、記憶がない。俺のせいだろうか」と正直には言えまい。
「秘密は厳守いたします、どんなことでも仰ってください」
キザったらしに言った療法士は、コーヒーに角砂糖を四個入れた。いくら何でも入れすぎだろう。
「昨日大切なことがあったはずなのに、思い出せないのです。何とか思い出せることはできないでしょうか」
自分でも何を言っているかわからないが、俺の口からはこう出ていた。
「なるほど、それはお辛かったでしょう。では、昨日の深層記憶を思い出す暗示をかけましょうか」
すらすらと言った療法士はコーヒーを一口すすった。そのコーヒーは本当にコーヒーの味がするのか?
くだらないことを考えていると、「ここ横になって、目をつぶってください」とベッドを指さされる。催眠とやらが始まるらしい。
言われた通りにすると、療法士は「さあ、あなたは眠くなる」と言い始めた。
「どんどん眠くなって、昨日に戻る。昨日の自分の部屋に立っている」
暗いトンネルを通ると、いつの間にか自分の部屋の中にいる。
そこは過去だ。棚の上のデジタルカレンダーが示す日付は昨日のものになっている。
「あなたは部屋で一人ですか」
いや、俺は一人ではなかった。
「そうですか。では、誰が一緒にいるのでしょう?」
女だ。中年の女が一人いる。あの霊媒師だ。俺の横に立っている。
「また、会えましたね」
なんてこった。俺を見つけて話しかけてきやがった。
除霊師は両手を広げた。皺だらけの掌を俺へ見せつけるようにして。
「走り出した馬はもう止まることができません。ただ、走り続けなさい」
うるさい、うるさい。訳のわからないことを言うな。
「終わりは確かにあります。無限のものなど存在しないのです。いつ訪れるかわからない終焉に向かって走り続けなさい。あなたにはそれができるのだから」
何なんだ。お前たちは俺にどうしろと言うんだ。
「うわあっ、やめてください!」
近くで男が悲痛そうに叫んでいる。パリーン、と硬いものが割れた音がした。何だろうか。このもの言われぬ快感は?
(日付判読不能)
俺は、狂っている。それ以外に、何がある、というのかどこから俺の人生の歯車はおかしくなっていったのか。
四人目だ。こういう風に書くと「しにん」に見えてくるな、ははは。冗談だよ、「よにん」目だ。 死人が俺の部屋にあるのは。
目が覚めたら、俺のベッドの隣の床に男が仰向けに死んでいた。見覚えがあるぞ。こいつはキザったらしな催眠療法士だ。頭に殴られた跡が残っているからそれで死んだのだろう。恐ろしいことに死人を見つけたときのショックがそれほど大きくなくなってきている。
俺には事の真相がつかめたような気がしてきている。俺の体はきっと衝動的に人を殺してしまうようにできているんだ。この男も昨日療法士の事務所で殺して、家に連れ帰ってきたということなんだろう。
テレビをつけるとニュースをやっている。生真面目そうな女のアナウンサーが殺人事件のあったことを伝えている。
「東京都内の催眠療法クリニック院長、八王子康之さんが昨日から行方不明になっています。職場であるクリニックには血痕など、八王子さんが何らかの事件に巻き込まれた痕も残されており……」
長ったらしい説明に続いて「重要参考人」の男の顔写真が表示される。それはまごうことなく俺の顔である。パズルのピースを全てつなげた気分になった。だが良い気分ではない。完成させてはいけなかったパズルを完成させてしまった。
俺は罪深い。何が原因かは知らないが、そういう性分になってしまっているのかもしれない。そして、殺した後の俺の都合の良い記憶回路は凶行前後の記憶をすべて消してしまうのに違いない。そうとしか考えられねえ。俺はつくづく呪われた人間だったのだ。人間なんて呼ぶのもおこがましいかもしれないな。人間以下の屑だ。
だが、俺はそれでも動かなければならない。生きるためにこの男の動かない身体を森に運ばねばなるまい。さっそく車を走らせようじゃないか。警察やら何やらが俺を見つける前に。
「塵も積もれば山となる」とはこのことを言うのだろう。
俺が死人埋めに通っていた土はもうキャパオーバーなのか、頭やら手やら足やらがいくつも飛び出している。あははははっ。これじゃ埋められてねえじゃねえか。ただの悪趣味なオブジェだ。
ならば俺はこのオブジェを作ることに専念しよう。車の後部座席に寝かせて来た四人目のやつも仲間に入れてやろう。
土の中がもごもごと動き出したのはそのときだった。どどどど、と地震かと思うぐらいに地面が揺れる。
動かなかった死者たちが、腐敗臭を放ちながら起き上がった。映画ではない、現実のゾンビだ。
「あああああっ」
「おおおおおおっ」
「うがああああっ」
わああっ、やめろっ、やめろっ。間抜けな悲鳴をあげながら逃げようとするも腰が抜けてしまい、すぐに捕まってしまう。俺は元から弱い人間だということがようやくわかる。だから、こんなことになっている。
ゾンビたちの身体をぼろぼろなのに馬鹿みたいに力が強い。療法士とおっさんが俺の身体をがっしりと捕まえ、除霊師と居酒屋の女が土のついた腕をふりかざしながら俺の頭を、顔をこれでもかとぶちのめす。
「欲望を満たした者には罰を」
「いつかは終わりが来ます」
「あなたは走り続けた」
「無限はありません」
そうだ、そうだ。お前らは正しかった。
意識と感覚はもうほとんど残っていない。ただ土の匂いをかろうじて感じられるだけだ。
五体目の死人は出来上がろうとしている。
了
タナトス・メイカー 暇崎ルア @kashiwagi612
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