ショートストーリー クマと眠る ~共に過ごした冬の日々

ピーター・モリソン

クマと眠る




 クマと眠る




 クマといえば、動物園での姿を思い浮かべるだろう。


 あるいは、かわいらしいチャームやぬいぐるみ、または、ときおり報じられるクマ被害での凶暴な振る舞い、その程度かもしれない。


 けれど、わたしには忘れられないクマとの出会いがある。


 そのクマは今も、わたしの胸の奥で静かに眠っている。




 会社で最初に倒れたのは、もう半年以上も前のことになる。


 仕事中に突然動悸を感じ、わけもわからないまま、意識の糸がぷつりと切れた。


 病院で検査を受けた結果、神経性の発作的失神だと告げられた。強いストレスがかかると、動悸や息苦しさに襲われ、血圧が急激に変動して意識を失うらしい。


 仕事に戻ったものの、また動悸が押し寄せ、わたしは再び意識を失った。二度、三度、それを繰り返すと、上司から休職を勧められた。


 入社してからの十年間、この職場で働き続けてきたが、他の誰よりも仕事を的確にこなしているという自負はあった。自分がいなくなったら、きっと職場は途端に回らなくなる。そう信じていたが、実際にはなにも変わらなかった。


 早く復帰したいという焦りから、医者を問い詰めたこともあった。処方される薬はどれもぐったりするだけで、気休めにもならない。とにかくゆっくりして休んでください。医者の言葉を信じて安静にするものの、不安はどこからともなく溢れてきて、激しい動悸を連れてきた。


 結局、休職期間を過ぎても、症状は改善しなかった。


 ある日、会社から連絡があり、呆気なく解雇を告げられた。言葉少なに電話を切り、なにもかもが終わった気がして、わたしはさめざめと泣いた。


 汚れた食器、畳まれない衣服、閉じたままのカーテン。それらすべてが、自分そのもののように思えてきて、やるせなかった。


 眠りは浅く、目覚めれば底知れない不安に包まれた。


 居たたまれなくなり、ベッドから立ち上がるが、不意の眩暈に膝から崩れ、そのまま床に突っ伏した。身勝手な心臓が収縮と膨張を繰り返している。

 もう立ち上がる気力もない。徐々に頭の中が白くかすんでいくのがわかった。途切れそうになる意識の中で、霞の向こうから響いてくる妙な耳鳴りを聴いていた。


 それは彼方で吹き荒れる、風の音に似ていた。


 ここではないどこかへと運ばれていく、そんな予兆を、わたしは感じていた。



   *



 どれくらい気を失っていただろう。


 強い風を肌に感じて目を覚ますと、あたり一面は銀世界だった。


 わたしはどこにいるのか。冷たい雪に手をつき、よろよろと身体を起こす。ここは深い森の中のようだった。


 夢を見ている? 頭の片隅には、寝室で倒れたところまでの記憶が残っている。それから……。その先が白い霞の中に途切れている。もちろん、みずからこんなところに来た覚えはなかった。


 木々に溜まった雪が風にあおられて、ときおりどさりと地面に落ちる。凍てつくほどの寒さだった。巻き上がる吹雪に、視界は白く閉ざされていく。


 身体は冷え切り、指先は自分のものではないかのようで、じんとした痛みを伝えている。身に着けているのはスエットの上下だけ。厳しい寒さに追い立てられるように腰を上げ、わたしは白い世界をあてもなくさまよい始めた。


 深い雪の上を歩くたび、体力が失われていくのがわかった。ぎゅっ、ぎゅっと踏みしめる音を聞く。目を凝らして周囲を見渡すが、身を隠す場所はどこにもない。あてもなく歩いたものの、わたしは力尽きるようにその場へへたりこんだ。


 少しずつ体温が奪われていくのがわかる。吐く息が凍って頬に貼りついてくる。景色も、意識も、霞んでいった。もう、どうにもならないのか。


 そんなふうに諦めかけていると、舞い上がる雪の向こうに、わずかな動きを見た。白い大きな塊がゆっくりと動いている。一瞬、雪雲が途切れ、差し込んだ陽の光が、その輪郭を浮かび上がらせた。


 それは、白いクマのようだった。大きな身体で吹雪の中を歩いている。振り返ったその顔に、目と鼻が、記号のようにそうあった。


 クマも、わたしの存在に気づいたのか、進路を変え、赤い目を揺らしつつ、こちらに向かってやってくる。


 咄嗟に身の危険を感じたが、不思議と逃げようという気にはなれなかった。その姿に妙な懐かしささえ憶えた。


 物珍しそうにこちらを見つめたあと、クマは座り込んだわたしの肩口に鼻先をつけた。ひくひくと匂いを嗅いでいるのだろうか、そのままわたしの周囲をうろうろとした。


 わたしは身をすくませた。


 クマは足を止め、しばらくわたしの顔を覗き込んでいたが、急にきびすを返し、立ち去ろうと背を向けた。もうわたしには興味がなくなったのかと思ったが、ときどき足を止め、こちらを振り向き、名残惜しそうに少しずつ遠ざかっていく。


 そのクマの様子に、なにか救いのようなものを、わたしは感じ取っていた。どうせここで凍え死ぬのならと奮起し、クマを追うことにした。


 森の奥へ分け入ると、大木が生えた斜面があり、その一角に雪で埋もれかけた穴が一つあった。あれがねぐらなのだろうか。予想通り、クマはその穴に頭を差し入れ、するりと姿を消した。


 わたしも、穴に近づき、中を覗いてみる。暗くてよく見えないが、ここよりはずっと暖かそうに思えた。しばらく様子をうかがっていたが、意を決し、中へ入ってみることにした。


 入り口は狭いが、その穴は思いのほか広かった。


 直立こそできないものの、奥行きが十二分にある。丸く削られた壁には、木の根が網目のように絡んでいる。すぐそばにある大樹の根が、この空間を抱きかかえるようにして、しっかりと支えているのだろう。


 穴の中は湿り気があって、やはりほのかに暖かい。ここなら寒さを十分しのげそうだった。


 出入り口から差し込む光が、内部の三分の一ほどを淡く照らしていた。その薄闇の奥に、さっきのクマが横たわっていた。


 もうすっかり眠り込んでしまったのか、わたしが入ってきても、まるで気づく気配がない。その体長は二メートルをゆうに超える。体毛は白いが、ホッキョクグマとも違う、アルビノのクマのようだった。どこか雪の白さを連想させた。


 警戒しながら、さらに近づいてみる。


 枯れ草や落ち葉、細い枝、クマの毛が敷き詰められた寝床の上で、目を閉じている。寝息が、かすかに聞こえる。起きる気配は今のところなさそうだった。かなり深い眠りに落ちているように、わたしには見えていた。


 穴の中には、クマの匂いが濃く満ちていた。獣の匂いといえばそうかもしれないが、不快さはない。どこか果実が熟すときのような、ほんのり甘い香りが混じっている。もしかすると、このクマは雌なのかもしれない。


 そっと、クマのもものあたりに触れてみた。指を広げ、手の重みをそこに預けると、毛並みにふわりと沈み込む。手のひらからクマの温かみが伝わってきた。そのままゆっくりでてみる。それだけで穏やかな気持ちになれた。


 クマにしがみつくことができたなら、その温もりを余すことなく受け取れることができるだろう。この冷え切った身体が、それを強く欲していた。


 わたしは息を整えながら、少しずつ、クマに身をよせていった。


 もしクマが目を覚ましたなら、その鋭いかぎ爪や牙で、わたしの無防備な身体など一瞬でぼろ肉のようにされてしまうかもしれない。けれど、温まりたいという衝動にはあらがえそうにもなかった。


 わたしは怯えながらもクマの背中に掴まり、そのまま身を横たえた。クマの温かみがじんわり伝わってきて、心地がいい。しっかりしがみつき、その熱気を味わった。頬をよせ、安堵の息を吐く。ちょうどいい体温で、身体も心もほぐれていくのがわかる。


 耳を押しあてると、クマの体内を巡る鈍い音が響いてくる。


 その絶え間ない循環に耳を澄ませているうちに、いつしか欠伸が漏れ、わたしは深い眠りに落ちていた。



   *



 かなりぐっすりと寝ていたようで、目覚めても、まだ身体の芯が静まり返っていた。


 土で囲まれた空間に目を凝らす。しっとりとした湿り気を帯びた壁に囲まれていた。ここは? 途切れ途切れの記憶が一つに繋がっていく。……そうだった。


 すぐ隣では、クマがまだ眠り続けていた。わたしはクマから少し身体を離し、暗い天井を見つめた。


 いったいこれはなんなのだろうと、そう思う。


 夢なら、とっくに醒めてもおかしくない。寝て起きてもまだ続いている。仮にこれが明晰夢だとしても、すべてが鮮明過ぎた。まるで現実の断片のように思えてならなかった。


 それにしても……。あれこれ思い巡らしているうちに、わたしは空腹を感じ始めていた。こんな状況でもお腹は減るのだと、鳩尾みぞおちに手をあててみる。思い返せばここに来て、なに一つ口にしていなかった。


 ここに食べ物なんてあるだろうか。素朴な疑問が湧く。


 穴の中をあちこち探してみたが、どんぐり一つ落ちていない(そもそも、あったところでどうやって食べればいいのか、わからないけれど)。外に出たとしても銀世界が続くだけで、口にできるものなどないだろう。


 そんなことを考えながら風の音に耳を傾けていると、ふと、鼻の奥に甘い香りが広がるのを感じた。呼吸するたび、その香りが際立ち、空腹をさらに煽っていく。なんの匂いだろう。先ほどまで感じていたクマの匂いより濃く、甘美に漂っている。


 その源を確かめようと、匂いを辿っていくと、わたしの鼻先はクマのお腹のあたりに行きついた。毛並みの下がわずかに湿っている。指先で毛をかきわけたその下に、濡れた乳首が四つ並んでいた。


 その先端から、白い乳が滲み出し、ぽたりと滴った。


 その光景に、胃袋のあたりがぎゅっと強く締めつけられるのを感じた。飲んでみたい。……けど、そんなことをしてもいいのだろうか。


 指先でその滴をすくい取り、匂いを確かめてから口に運んでみる。甘く、懐かしさのようなものが口の中に広がる。空腹がいっそう加速し、いても立ってもいられない。 


 何度も躊躇ったものの、尖らせた口を近づけ、乳首をそっと含んでみた。クマが目を覚ますかもしれない。そう思うと、唇がかすかに震えた。

 じゅっ。

 ほんの少し吸っただけなのに、クマの乳は豊かに溢れ出た。



   *



 こんな夢のような世界にいても、病との繋がりは切れていないようだった。

 真夜中、強い風の音に目を覚ますと、不安が胸の奥で膨らむことがある。


 動悸の兆しは、何度もあった。


 会社も、生活も、そんなものはここにはないのに、心臓だけがなにかを思い出したように、急に暴れ出そうとする。


 そんなときはクマに身をよせ、枯れることのない乳を口にした。さらに毛並みの底に耳をあて、穏やかな心音を聴いた。まるで、クマの乳がわたしを生かし、その鼓動がわたしを癒すためにあるように思えた。


 穴の外で陽が昇り、また沈む。雪は白く光を反射し、風は同じような音で吹きすさんだ。


 ゆったりとした時間を味わい、退屈をなんとか飼い慣らし、眠ったままのクマと共に暮らした。時間の区切りが失われ、昨日、今日、明日という概念もあやふやになる。いつしか、わたしは深く考えることを止めてしまった。存在の意味とか、目標とか、効率とか……。かつて自分を駆り立てていた言葉の数々が、いつの間にか遠のいていく。


 そんなぼんやりとした生活に馴染んだある日、わたしはとある異変を感じ取った。


 久しぶりに穴の床に足をつけ、ぐっと立ち上がると、なんなく身体を伸ばせた。天井につかえていたはずの頭の先に、わずかな余裕すらある。そういえば、着ていたスエットがやけにぶかぶかなっていることに、今更ながら気がついた。


 わたしはスエットを脱ぎ、出入り口の光に自分の身体をかざし、あらためて細かく観察してみた。手も、足も、肩も、腹も、すべてが確かに小さくなっている。痩せたのではなく、明らかに縮んでいるようだった。


 身体は、日増しに小さくなっているようだった。天井はさらに遠くなり、ひらひらとなるスエットの袖を何度か折り込んだ。自分の時間だけが逆に回っているのだろうか。ここに来てからの時間を計算に入れると、その変化のスピードはかなりものになるのかもしれない。


 何気なく頬に触れてみる。そこには、もちもちとした弾力が戻っていた。鏡で見ることはできないが、きっとわたしは幼い顔をしている、そんな予感があった。


 これからどうなってしまうのか。その怖さはもちろんあった。これは自己否定が引き起こした現象なのではという疑いもよぎる。現実から逃避しようとした報いなのかもと……。


 けれど、このままなくなってしまうのも、それもいいかもしれない。


 成長するたびに背負わされた荷物を一つずつ下ろしていると思えば、ほっとするような気持ちにもなる。自然へと戻っていく、その感覚は妙な安らぎを連れてくる。そこで寝ているクマのような、自然と深く繋がった存在になれるのではないか、そんな淡い期待を抱いてみた。


 丸みを帯び始めた指先を、わたしは無邪気にしゃぶった。その仕草が、赤ん坊のそれに近いことを、どこか他人事のように思っていた。


 ときどき手持ち無沙汰に、壁を這う根に触れてみることがある。すると、妙な一体感がえられる……。根を通して、穴の外のことが感覚的にわかるようだった。風の音が弱まり、寒さが和らいできている。陽を浴びた土の匂いも、地下を流れる雪解け水も、小動物の目覚めの気配も。そんな季節の変化を、密やかにわたしは感じることができた。


 その変化はクマにも現れていた。呼吸が少し浅くなったようだった。今まではしなかった、わずかな寝返りを何度も打つようになっていた。


 大きな転機の予感に、久しぶりに不安を感じた。そろそろ潮時かもしれない、そんな漠然とした想いが心を揺らしていた。わたしは変化の兆しにただ怯えながらも、穴の底を這い回り、だあだあと声を上げつつ、クマの温もり奥深くへ潜り込んでいった。



   *



 クマが起きた。


 さすがにびっくりした。ずっと動かなかったものが、今、目の前で動いているからだ。その重量感に気圧される。


 起き上がったクマを見たのは、最初に出会って以来だった。そのことが随分昔のように感じられる。


 クマはどこか不機嫌そうだった。長いこと寝ていたのだ、仕方がないのかもしれない。首を荒々しく振り、息巻いた。壁に頭をぶつけたり、敷き詰めてあった枯れ葉をまき散らしたりもした。


 わたしは身の危険を感じ、なるべくクマから離れようとしたが、すぐに見つかってしまった。


 クマは小さく吠えた。喉をぐるぐると詰まらせ、手を振り上げ、威嚇した。寝てはいたものの、今までわたしを守護してくれていたのでは……? そんな勝手な思い込みが、わたしの中でぐらぐらと揺れ始める。


 あの大きな手で殴られたら、小さなわたしはひとたまりもないだろう。


 逃げようにも、穴の中に身を隠せるところはなかった。


 赤い瞳を硬くし、クマはこちらを睨んでいたが、急になにかを悟ったか、静かに手を下ろした。同じ穴で冬を共に越したもの同士だと気づいたのか、それとも、わたしの身体に染みついている乳の匂いを嗅いだのか。その仕草の端々から警戒心が解かれていくのがわかった。


 まるで詫びるかのように、クマはわたしの頬のあたりを何度も舐めた。そのたびに、踏ん張りの効かないわたしの幼い身体は、波のように揺れた。


 クマは拗ねたような鳴き声を響かせていたが、なにを思ったのか、急にわたしの脇腹に鼻先をぐっとあてて、ずるずると押し始めた。


 なにをするつもりなのか。呆気にとられたわたしは、そのまま地面を横に滑らされていく。あらがおうにも、あらがえないほどの力によって……。


 どうやらクマは、わたしを外へ追いやろうとしているようだった。鼻先には容赦のない力が込められている。やはり、わたしの存在が疎ましく思えてきたのだろうか、横目でその表情をうかがってみる。


 けれど、そこに嫌悪の色はなく、憂いのようなものが混ざっていた。どこか母親を感じさせる、そんなまなざしをしていた。


 もしかしたら、わたしを本来いるべきところへ帰そうとしているのかもしれない。そんな考えがよぎると、途端に、わたしの心に寂しさが溢れかえった。


 まだ、ここにいたいのに……。


 わたしの気持ちをよそに、とうとう、わたしは穴から押し出されてしまった。


 そのまま緩い傾斜を転がり、やわらかい地面に受け止められ、息をついた。外の世界はまばゆい光で満ちていた。澄み渡った空気に鳥肌を立て、途方もなく広い空に畏怖を覚える。雪はところどころに残るだけで、地面には短い草が生えそろっていた。


 わたしを追いやったあと、クマは穴へ引っ込んだが、すぐさまわたしのスエットをくわえて戻ってきて、身体の上にかけてくれた。


 もうクマはわたしを守ってくれない。


 穴に戻っていくクマを見つめながら、わたしは一人泣き出した。


 激しく泣けば泣くほどに、赤ん坊だったわたしの身体はみるみる大きくなっていった。手足が伸び、歯が生えそろい、髪が頭を覆っていった。


 穴の中にいたかった。自分が消えてなくなるまで、クマと一緒に暮らしたかった。けれど、身体が記憶を取り戻し、わたしはわたしに帰っていく。


 泣き終えたわたしは、おずおずとスエットを身につけた。


 涙を拭い、滲んだ太陽から逃れるように目を閉じると、周囲の気配がすうっと薄まっていくように感じられた。


 ついには掴んでいた草の感触も失われ、冷たく硬いものに変わっていく。吹いていた風は淀み、広がっていた世界はするすると呆気なく萎んでいった。



   *



 夢、だったのか。


 それはもう、すっかり終わってしまっていたが、なかなか目を開けることができなかった。


 わたしは戸惑いつつ、溜息をついた。


 ここはもうあの森ではなく、クマもいない。薄暗い、いつもの自分の部屋だった。


 そのことを実感し、同時に落胆した。


 身体を起こし、冷え切った背中で壁にもたれかかる。乾いた唇に指を添えながら、壁の時計を眺めた。


 わずか数時間、もちろん日付も変わっていない。そんな短い間の中に、クマと過ごした冬がすべて収まるとは、とても信じがたかった。あの穴で積み重ねられた時間は、確かな手応えとして、まだこの身体に残っている。とても、数多あまたある夢の一つだとは思えなかった。


 わたしは手のひらを見つめ、その手を胸にあてた。そこに自分の心音が伝ってくる。その音は、やっぱりどこか不安定で微妙に震えていて、今にも暴れ出しそうな危うさがあった。


 まだ、なにも変わっていないように思えた。けれど……。


 わたしは目を閉じて、クマのことを想った。その温もりと、甘い乳の味を。その寝息と、体内のたゆたう音を。五感を澄ませ、それらを手元に引き寄せようとする。


 どく、どく、どくと。


 そうしているうちに、耳の奥でクマの鼓動が小さく立ち上がってくるようだった。しだいに大きくなり、その音は力強く、伸びやかで、規則正しく、急ぎも遅れもせず、揺るぎもしない。それはやがてわたしのか弱い心音と重なり、同じリズムを刻み始める。まるで互いを支えあうように、寄り添い、共鳴する。


 クマは夢じゃなく、わたしに備わった自然の力、その象徴なのかもしれない。


 そんな気がした。


 この胸の奥に、あの森の穴があって、そこにクマが静かに眠っている、その実感があった。


 冬はいずれ春を迎える。


 わたしは夜の中で目を開き、自分の内側に耳を澄ませ、クマの温もりを感じていた。



〈了 クマと眠る〉



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