記憶の中の名づけられなかった感情
ほとり
プロローグ
彼女を最後に見たのは、三月だった。
季節外れの雪が降っていて、
バス停にある小さな時計塔は、十九時を少し回ったところを指していた。
たまたま、同じバスだった。
混んでもいなくて、空いてもいない、
話しかけようと思えばできた距離。
けれど、何もしなかった。
バスが停まり、彼女が先に降りる。
数秒遅れて、俺も降りる。
同じバス停。
街灯は少なく、雪に反射した光だけがやけに明るかった。
神社の前を通る道で、
彼女は少し先を歩き、俺は十メートルほど後ろを歩いた。
追いつくことも、声をかけることもできたはずなのに、足は自然と、その距離を保っていた。
雪を踏む音だけが、静かに続く。
何も話さないまま、
彼女は角を曲がり、その背中を横目に、自宅へ続く反対側の道を進む。
追いかけなかったわけでも、
避けたわけでもない。
ただ、帰る場所が違った。
それだけで、
彼女はあっけなく、視界の外へと消えていった。
告白も、別れの言葉もない。
特別な出来事は、ひとつもない。
それなのに、なぜかその夜だけが、妙に記憶に残っている。
しんしんと降る雪と、白く浮かぶ息の冷たさ、街灯の色、そして何も言わなかったという事実だけが。
——それが、最後だったと知るのは、
もう少し先の話になる。
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