犬笛
わたねべ
第1話:笛の音は聞こえない
犬笛を知っているだろうか。
その名前の通り、犬に向けて鳴らす笛だ。
どれだけ強く吹いても、その音は人間には聞こえない。そんな風にできている。必死になって、顔を赤くしながら吹いたって誰にも聞こえない。それでも鳴らし続けるやつがいるのならば、その様子は滑稽だ。
昔の僕はそうだった。
僕の声は、どれだけ必死に張り上げても、犬笛のように人間の耳には届かない。だけど、その助けの声は人間じゃないあいつらには聞こえるんだ。
「チクるなって言ったよな」
先生も、クラスのみんなも、両親でさえも聞こえない僕の声。それが、あいつらにだけは届くのが、悔しくて、みじめで、死にたくなった。
先生は「あいつらいいやつだけどなあ。俺の方から話してみるよ」と、村人Aのように繰り返す。
クラスの奴らは苦笑いを向けるだけ。
両親は「思春期なんてそんなもの」「男なら自分で何とかしろ」、そんなことを言う。
こうして考えてみると「声」は届いていたのかもしれない。
でも、その中にある僕の「思い」は届いていない。
とにかく僕の声は、彼らを動かすことができなかったのだ。
今思い出しても、あの頃の記憶が鮮明によみがえる。というよりは、毎日見続けているから色あせない。
その耐えがたい現実は、高校を卒業してからも、毎日。毎日、毎日毎日毎日……、目をつむるたびに現れる。
これは僕にとって、昨日のことのような話であっても、世の中からすれば、もう三年も前の話だ。でも僕は、今、この話をしている。
なぜなら、僕が鳴らしたあの笛の音が、ようやく誰かに届いたからだ。
突如SNSで公開された一本の動画。
そこにはモザイクもなく、無様に泣きじゃくる僕の姿が映っていた。
見た瞬間は、とうとう現実との境目がわからなくなったのかと思い、何年たっても僕を痛めつけるやつらを殺したくなった。
しかしその動画は、現実に拡散されているもので、バイト先でも話題になっていた。僕に顔が似ていることや、地元の学校であることから、いろいろと察した様子で、ひそひそ話と好奇の視線が日を追うごとに増えた。
耐えかねた僕は、「もうどうでもいい」という思いから、その動画をはじめに投稿したアカウントの持ち主に、メッセージを送った。
それは、世直しをうたい、歪んだ正義を掲げる、あまりにも醜悪なアカウントだった。
ダイレクトメッセージを送るとすぐに返事が届き、本人確認をしたいとの申し出があった。モザイクもなければ、事前に本人への裏取りもないまま動画を公開している時点で、こいつも殺してやりたい人間リストに加わっていたが、もしかしたら私刑という罰を与えられるかもしれない。そんな思いから身分証を送り、本人だという証明をした。
話を聞くと、拡散されている動画はアカウント主のフォロワーが提供してくれたもので、提供者は地元のライングループでそれを見つけたらしい。モザイクも裏取りもない理由については、「この動画は本物だと確信したから早く助けたかった」というのが理由らしい。その後も相手は、自分の正義について、言い訳をするように必死に語っていたが、欠片ほどの興味もわかなかった。退屈な文字をスクロールし終えたところで、僕は当初の目的である、とあるお願いをした。
「とにかくこいつを叩いて欲しい」
これで自分が、何かしらの罪に問われようが、逆恨みで復讐されようがどうでもよかった。ある種、覚悟ともとれるくらいの諦めから、あいつらの足だけは引っ張って死にたかった。
アカウントの主は「もちろん、僕も許せませんから」なんて、耳障りのいい言葉を長々と並べていたが、要は協力してくれるとのことだった。
その言葉通り、その日以降も例の動画は拡散されて、あいつらを糾弾する言葉であふれかえっていた。
僕があの時、肺が破れるほどに吹き鳴らした犬笛の音が、三年越しに届いていた。
僕と同じ状況にある、多くのかわいそうな人たちが奮い立っていた。
僕のような人間でも見てくれようとする、多くの優しい人たちが憤っていた。
僕の過去が、法の枠を超えて裁きの形を成していった。
僕とあいつらという枠組みを超えて、いじめの被害者と加害者全体に裁きが広がりを見せるころ、「やりすぎだ」「法律を学べ」と、安全圏から賢さを振りまくものが現れてきた。
きっと、彼らは温かい、いわゆるきらきらした青春時代を過ごしてきたのだろう。だから被害者に対してそんなことを言えるのだ。
――人間として扱われなかったあの時間。
虫もゴミも食べたし、みんなが制服を着ている中で全裸で写真を撮られたこともある。そうして、自身に向けられた、楽しそうなその笑顔は、あいつらとは話し合えないという現実を突きつけてくる。
殴られて息ができなくなるあの感覚。痛みもあるが、何よりも恐怖が呼吸を阻害する。殺されるかもしれない、という理不尽な暴力は、過呼吸を引き起こし、死の恐怖を形作る。
一番悲しいのは、自分なんかいなければいいというあの孤独だ。助けを求めても届かない。届いているが見られない。自分が透明になるようなあの感覚は、生きる目的を奪い取る。
蜘蛛の糸を垂らしているのが、あの拡散主というのは癪に障るが、これまで泣くことしかできなかった者たちに、その糸がたらされるという、かつてない光景の前では些細なことだった。
あいつらが謝ってきても、逆に自らの命を絶つような結果になっても、きっと僕は満たされない。
そんな、空虚な確信があった。
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