夏の黙

宝や。なんしい

第1話

 僕の住んでいる町には、真ん中にとてつもなく大きな池があって、僕はずっとそれを海だと思っていた。


 この池よりでかい水溜りを見たことがなかったからやむを得ないのだけれど、はじめて海を見た時も、やっぱりこっちの池のほうが大きいような気がした。お父さんは興奮気味に「見てみい、一樹かずき! これが海やでえ。寺ヶ池なんか比べもんにならんくらいおおきいやろう」とまるで自分の手柄みたいにまくしたてていたが、僕の反応があまりに薄かったので、ちょっとがっかりした風だった。


 もちろん今は海のほうが断然大きいことはわかってはいるけれど、寺ヶ池は長くて複雑に入りくんでいて、どこまで続いているのかわからないところがあるので、もしかすると海より大きいかも知れないという気持ちは、まだ捨てきれないでいる。



 僕たちは、この寺ヶ池の遊歩道を通って、毎日小学校に通う。夏休みに入ってからは、ここを通る人は少なくなって、マラソンをする人や、おじいさんやおばあさんがのんびりと散歩をする姿を見かけるくらい。

 蝉の鳴き声以外は、ときおり木と木の間をすり抜ける時に加速する風のびゅううっという音がするだけで、あとはひっそりとしていた。


 しもは、小さな声でどこかで聴いたことのあるような歌を口ずさみながら、ケンパをしていた。ケンパは、タイルに描かれている模様にしたがって、足を開いたり閉じたりしていて、僕にはちょっとわからない法則によって繰り返されている。おかげでかなりゆっくりとしか進めないけれど、しもに合わせてできるだけさりげなく遅く歩くように心掛けた。

 

 今日は珍しくフリルのたくさんついた真っ白なワンピース。飛び跳ねると裾が大げさにめくれて、そのたびに細い太ももが見えた。

 

 見ないようにしたかったけど、勝手に目に入ってきてしまうから仕方がない。わざとそうしているのかもしれないと思った。


 皮膚が薄っぺらくて、透けて見えそうで怖い。車のボンネットの中身みたいに、複雑に絡み合うコードとか管とかネジとかの部品でできているんじゃないだろうかと思ってどきどきした。


「かかかか、か、一樹く、くん。き、き、き今日は、なな、なんで、が、学校にき、きき、来たん?」

「図書室に本を借りに来てん。夏休みの宿題で使う本。借りるの忘れてて。今日は図書室開いてる日やから」

「ふうん。そそ、そうなんや」

「しも。転校するん?」


 しもにはどもりがあって、特に、か行は言いにくいから、一樹くんの名前は嫌いだと言われたことがある。しもは下山しもやまかすみという名前で、僕はしもと呼ぶ。三年生の時、同じクラスになって隣同士になった時からずっとそう呼んでいる。しもは、はじめは僕のことを中西くんと呼んでいたのに、いつの間にか、わざわざ言いにくい一樹くんと呼ぶようになっていた。

「うん。に、二学期から」


 僕が学校に到着した時、おばさんと一緒に歩いてくるしもを見つけた。おばさんが僕を見て「かすみ、一樹くんに転校のご挨拶しときなさいよ」と言っているのが聞こえた。僕はどきどきしながら、走って図書室に行って、本を借りて戻ってきたら、校門のところで、しもがひとりで立っていた。そのまま一緒に帰ることにした。



 太陽は真上にいて、遮るものもなく、直射日光がぱらぱら落ちてくる。一本一本が火のついた矢みたいに。僕の肌はどんどん真っ黒に焦げていくのに、しもはずっと白いままだ。


 しもは学校に友だちがいない。


 そして、時々、登校拒否をする。

 僕は、しもとは特別仲のいい友だちというわけでもなかったけれど、しもが学校に来なくなるたびに、僕はいつもしもの家に行く。はじめてしもが登校拒否をした時、なんとなく、ほんとうになんとなく急に訪ねてみる気になった。


 どうせ会ってくれるはずなんてないと思った。ただ隣にいつもいる人がいないというのは、なんだか居心地の悪いものだったし、なんというか、見晴らしが良すぎるのが、僕には少し都合が悪かった。


 しもの家はあまり裕福ではないみたいだった。小さなアパートの一角で、ベニヤ板の端っこが日焼けしてめくれかけたドアを開けると、ごちゃごちゃとたくさん荷物の置かれた部屋がいきなりあって、そこに家族みんなで一緒くたに生活している感じだった。

 

 おじさんもおばさんも寡黙であまり笑わない。

 それでも僕が行くと、傷だらけのガラスのコップに、少し匂いのする氷入りのオレンジジュースを入れてくれた。


 登校拒否をしているくらいなので、どのくらい落ち込んでいるのかと思ったら、普段とちっとも変わらなかった。


 みんなの前でしゃべることは苦手で、言葉がでなくなってしまうと悔しくてよく涙をこぼすけれど、僕と二人の時は、どもったってぜんぜん平気みたいだ。


 しもの家には漫画の単行本がたくさんある。僕の家ではなかなか漫画を買ってもらえなかったから、嬉しくて興奮していると「ほ、欲しいのがあったら、なな、なんでも言うて。ここ、こ買うてあげるよ」と言った。


 僕は冗談かと思って、それじゃあ『太陽の剣士リュウ』が欲しいと言うと「いいよ」と快く返事をして、どこかに電話をかけたあと本屋に連れていってくれた。



 町の小さな本屋に着くと、そこに無精ひげの生えた、汚れた作業服を着たおじさんが僕たちの来るのを待っていて「どれでもええし、なんぼでもええから好きなだけ取りい」と無愛想に言った。僕はなんとなく断るのも怖くて、とりあえず、一冊だけ手に取ってみた。


 おじさんは「それだけでええんか」と怒ったみたいな口調で言ってきて、びくびくしていると、「まさちゃん、そんな無愛想に言わんでもええやん」と、しもがほとんどどもることなく、おじさんの身体に触れながらたしなめるように言った。おじさんはしもを見て、優しく笑っていた。『太陽の剣士リュウ』の一巻は売り切れていて置いてなかったので、二巻を買ってもらった。


 家に帰るとお母さんに「そんなん買うてもらったらあかんでしょ。お返ししてきなさい」と言われて、寺ヶ池公園の隅っこにそのまま埋めることにした。

 

 手ぶらで出てきてしまったので、その辺に落ちている棒切れで穴を掘って本を入れ、上から土をかぶせた。


 少しずつ『太陽の剣士リュウ』二巻は姿を消していった。


 そのあとも、しもの家に行くたびに新しい漫画が増えていたけど、おじさんと会ったのはこの時だけだった。僕はしもに、おじさんが誰なのか聞けなかった。


 僕が家を訪ねた翌日には、しもは必ず登校する。僕はそのたびに、なんだか誇らしい気分になった。先生やほかの女子とかが、何度家を訪ねても会ってもくれないらしい。


 僕たちは三年生の時、同じクラスになってから、何度クラス替えがおこなわれても同じクラスになった。だから六年生の今までずっと一緒。


 六年生になるとき、担任の先生が僕を呼んで、

「中西くん、下山さんのこと、よろしくね」

 と、言った。


 僕は、先生の言いたいことがよくわかった。それで、控えめに「はい」とこたえた。


 六年生になると、僕には新しい友だちがたくさんできて忙しくなった。しもは相変わらず、よくみんなにからかわれていた。


 授業中、先生に当てられて、答えがわかっているのに、答えられないもどかしさに涙をこぼした。でも誰も助けてはくれない。


 その次の日から、しもはまた学校に来なくなった。


 先生や女子が何度も家を訪ねたが、しもは誰とも会わない。

 僕はその頃とても忙しかった。はじめたばかりの少年サッカーとかそろばん教室とか。来年は中学生になるからと、塾通いもすることになっていた。


 担任の先生は、何も言わない。

 何か言いたそうにしていたけれど、気づかないふりをした。



 大きな桜の木に一匹の蝉がとまって鳴きはじめた。しものケンパの歌は、蝉の声にかき消され聴こえなくなる。


 突然立ち止まって、木の下の草むらに寝転ぶ。

 そしてオフィーリアみたいに両手をだらりと広げて、目を閉じた。


 僕はしもの横に座って、しもの顔を横目で見た。ほっぺただけ、微かにピンク色をしている。手が触れた。


 しもは死体みたいに動かない。急に何も聴こえなくなって、時間がとまったような気がした。


 しもの指は、細くてしっとりと冷たい。


 僕はしもの顔をもっとちゃんと見たくて、気づかれないように少しずつ近づいていった。もう少しで僕の唇が、しもの唇に触れそうになったとき、しもの長いまつ毛がふわりと揺れる。


 急に怖くなった。


 見ると、しもは目を開いて、まっすぐに僕を見ている。銀色の深い色の瞳は、光る青空を映してじわじわと溶けて混ざり合う。

 見たこともないきれいな色だと思った。


 おもむろに立ち上がり

「か、かか、か、帰ろうか」


 そして、

「か、かか一樹くん、ごご、ご、めんね。さ、最後まで、ち、ちゃんとな、名前呼ばれへんか、かったね」と言った。


 白いワンピースには、草がたくさんくっついていたので、二人ではらった。僕は、あーあと大きな声を出してあくびをしてから、涙をふいて、返事の代わりに唾をごくんと飲み込んだ。


 しもは僕の手を握って、ゆっくりとまたケンパをはじめる。


 オレンジ色の夏の太陽は、

 僕たちの後ろに、くっきりと濃い影をつくった。

                                      


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