モラハラ離婚とふたつの家族|「かいぶつのいるところ」「シンデレラが去ったあと」

一月

かいぶつのいるところ 01

第一章 かいぶつのいるところ


 蒼士そうしが声のボリュームを引きあげたとき、また癇癪のスイッチが入ったことを知った。

 ギラギラと両眼を光らせ、ダイニングテーブルの上で拳を握り、不機嫌を知らしめようと身をのりだしてくる。

 こんなときわたしは彼のルールを乱す反逆者であり、倒すべき敵としか見られていない。

 わたしは、「子どもたちの前で仕事の愚痴を言わないでほしい」と伝えた。いや、「なるべく控えてもらえたらうれしい」と遠慮がちに願った。

 攻撃とみなした蒼士の防御反応ははやかった。

「はァ?!」

 おさだまりの間投詞が、壁を揺らすほどの轟音と化して飛んでくる。

 意味なんてない。たんなる威嚇射撃だ。

 トゲだらけの響きが心にさわった。新婚当初なら全身が緊張状態になっただろう。けれど今はもう、この二文字が鼓膜にふれた瞬間、感情を捨てるクセがついてしまっていた。

 蒼士はわざと音を鳴らして皿を置いた。ほとんどテーブルへ叩きつけるように。

二言三言ふたことみこと仕事の話をしただけだろ? え? 俺、毎日家族のために働いてちょっとも愚痴ったらいけないわけ? 俺が悪いの?」

 不必要に声を荒らげるので、耳の奥が疲れる。声は人が持つ楽器でもあるが、武器でもあることを日々実感している。

 部長は低学歴の老害、後輩が使えない――蒼士は毎日のように誰かの悪口を言う。

 取引先の営業は女性陣に忌避されている不健康なブタだ、出世街道にいた同期は五年も不倫されて病んだ――人を貶めたり下卑げびたうわさ話をしたりすることも大好きだ。

 それらはたいてい、自分がいかに困難な環境で働いているかという自賛を兼ねた不満として吐き出されていた。

 今夜も帰ってくるなりどこかの誰かをこきおろすので、長女の藍莉あいりはソファから立ちあがって子ども部屋へ引っこんでしまった。そういう話がいやだと耳をふさいで分かりやすくアピールしていても、蒼士は意に介さない。

 「お父さんの話、聞きたくない」とわたしにはこっそりうちあける藍莉も、父親本人には伝えない。剣呑けんのんな空気になることが分かっているからだ。

 一歳の息子あおもこれから言葉を覚えはじめる時期だ。良くない単語を耳に入れさせたくはない。

 正直なところ、無理難題を突きつけたつもりはなかった。なじったつもりもなかった。彼との議論が心底いやなので、要望だけを口にしたつもりだった。

 けれど、試行錯誤はたいてい上手くいかない。

 快諾してもらえるとは思わなかったし、不満気な顔をされる予感くらいはしていた。けれど、ここまで激怒するとは想定していなかった。

 おそらく「子どもの前で仕事の愚痴を言う父親」というレッテルを貼られたように感じたのだろう。こうなると妥協点を探したり建設的な意見を交わしたり、そんな大人の折衝はできなくなる。認識のすりあわせや心のケアをする段階は訪れない。

 彼は傷ついたプライドを癒すため、さらに深い傷をわたしに負わせようとする。

 不機嫌になった蒼士にできることは、フラストレーションの放出のみだ。

「仕事が大変なのは分かるしわたしは愚痴を聞くけれど、子どもたちの前ではやめてほしいというだけよ。子どもの前で言わないでほしい、それだけ」

 なんとか気を鎮めてくれないか。ゆっくりと、大袈裟にならないよう話す。

「いや、椿つばきだって言うだろうが。『買いものが疲れた』『ごはんを作るのが面倒』、藍莉の前で言ったことあるよな?!」

 なぜ、どうして大声を出さないと会話できないのだろう。

 わたしは胃のあたりを掴んだ。落ちつけと自分に言い聞かせる。

「たまには言うこともあるけれど、誰かを貶めたりはしてないよ」

「あれあれ、本題は『愚痴を言うな』って話だろ?」

 蒼士は唇のはしを歪めた。

「椿はいいの? 椿は我慢しないんだ?」

 大前提として「子どもの教育に悪いことをしない」という共通認識があるつもりだったけれど、本当に意識されていないのか、理解しているけれど議論をすり替えているのか分からない。

 わたしが補足しようとすると、蒼士は何も言わせまいとして畳みかけた。

「卑怯だよな、自分のことは棚上げして。なんで俺にだけ制限をかけるわけ? いやがらせ? 俺のことが嫌いなんだ?」

 嫌いなわけではないという返答を待つ間が一瞬あり、求める媚態が得られないと分かると、さらに見下すための言葉を並べる。

「もしかして自分は何をしてもいいと思ってんの? あ、そういうこと? 自分に甘いもんな、椿は」

 負けたくない負けたくない負けたくない、そんな心の声が聞こえてくるようだ。

 身内に気を遣ったり心を砕いたりするよう求められると、蒼士は耐えがたい侵略を受けたように感じるらしかった。命がけのような抵抗を繰り出してくる。

 過剰に攻撃的で中身のない罵りの応酬に、有意義な要素を見出すことはできなかった。

 さまざまな感情を苦労して飲み込んだ。

「分かった。わたしも言わないよう努力するから、あなたもよろしくお願いします」

 食卓の調味料を掴んでキッチンへ戻る。

 話は終わり。片付けのフェーズに入りました、と態度で示す。

 十年前なら反論していたかもしれない。が、今はもう不毛な斬りあいにしかならないことを学んでいた。おそろしいほどの試行を経て。

「ほら、椿が悪いんだろ」

 背中で焦ったような勝ち誇ったような声がした。同時に、妻が面倒がっていることを感じとり、不満やイライラを最後の一滴までぶつけようと掃討戦を仕掛けてくる。

「分かったなら謝るんだよな? なあ、謝れよ」

 完勝したくてたまらないのだ。

 わたしは無視して、カウンターキッチンで明日の朝食の準備にとりかかった。

「聞こえないんだけど? おい、無視するなッ」

 低い罵り声に、計量カップを持つ手が緊張する。

 謝る気はない。謝る理由がない。彼に支配の確信を与えたくもない。

 不可視の両手で耳を塞げたらいいのに。一デシベル分も鼓膜が振動しないように。

 シンクに釜を置いて、黙々とお米を研ぐ。

「いい大人なのにごめんなさいも言えないのか。女はそれで許してもらえていいよな」

 傷つけたい。魂に致命的な斬撃を刻みたい。そんなサディズムだけが染み込んだ夫の物言いである。

 いちいち真に受けてなんていられない。脳のリソースを割く価値もない。

 だけどモンスターに齧られて、心が減っていくのを感じる。

 これがわたしの日常だ。



 ――二年が経ち、ようやく哀しみを供養しようとわたしは決意した。

 「あたたかな家庭」という砂上の楼閣が崩れたとき、皮肉にも人生と感情の自由が還ってきた。

 わたしは弱くない。ノーを言える。人並みの自尊心と自信を持っている。そう思って生きてきたけれど、家庭を戦場ととらえられる強さはなかった。

 心の舵を握っているのは自分だが、周囲の環境が航海に影響を与えないわけではない。それが今なら理解できる。

 家族の終わりは日常の中にあった。藍莉の誕生日だったあの夜も、蒼士にとってはただ不愉快なだけの「普通の一日」だったに違いない。

 きっと彼は永遠に知ることはない。かつてどれほど不自然な思いやりでわたしたちの関係が成り立っていたのかを――。

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