ハードボイルド・セブン

赤目現象

第1話 守りたくて、殺したい、俺の先輩。

ハードボイルド・セブン

エピソード1.渋谷

第1話


守りたくて、殺したい、俺の先輩。




衝突。


そろそろ空気が暑くなり始める6月の渋谷。緩いTシャツの上に軽いカーディガンを羽織った今日の赤見は横断歩道の真ん中で固く立ち止まり、地面に落ちたカフェラテを見つめていた。


赤見は他人の精神を自由に操る催眠術師だったが、そんな赤見でも既にこぼれ落ちたカフェラテを元に戻すことは不可能だった。信号機の緑の灯が不安定に点滅していた。赤見は一瞬の迷いもなく後ろに向って、これまで来ていた方向へ歩き出した。


先ほど赤見とぶつかったのは、黒いスーツをきちんと着こなし、濃い黒髪を眉の上で短く切った若い男。赤見が男の肩に押し退けられ、手からカフェラテを落とした瞬間、目と目が合ったが、男は一言の謝罪もなく、そのまま赤見を通り過ぎていった。


構わない。今日のカフェラテ分の謝罪なら、今後いくらでも受け取ることができる。ひょっとすると、男の残りの人生を全て費やしてでも。


男はかなり長身だった。街の通行人たちの間から、後ろ姿が刀の柄のように突然突き出た。そのまま掴み取って思い切り振り回してやる。赤見は歩みを少し速めて男を追いつき、彼の前を堂々と立ち塞がった。煩わしいそうに男の眉間が歪むと同時に、再び、目と目が合った。赤見の黒い瞳が赤く染まった。


「表情を緩めろ。見苦しいぞ。」


赤見はのんびりとした口調で命じた。男の顔は即座に無表情になった。赤見は、この男をどうするか一瞬考えた末、まずは無駄になったカフェラテを取り戻すことにした。指一本動かさず、ただ考えるだけで、赤見は初対面の男を先頭に立たせ、どこへでも引きずって行けるのだった。


赤見がよく訪れる常連の喫茶店が近くにあったが、赤見はそこへ向かわなかった。代わりに目の前のスターバックスに男を連れて行き、カフェラテを注文した後、隅の席に座った。支払いはもちろん男にさせさせた。


新しく出てきたカフェラテをすすりながら、赤見は男に話しかけた。


「おい。」


男は赤見の呼びかけを認識し、まっすぐ見つめ返したが、返事はしなかった。このようなケースは珍しかったが、男がここまで素直に付いてきたことを考えると、赤見の催眠が効かなかったのではなく、男の性格が元々無愛想なためだろうと推測した。赤見は片方の眉を斜めに引き上げた。面倒くさい奴が引っかかったな。まあ、性格があんなものだから、ぶつかった相手を無視して通り過ぎるだけだろうが。


赤見は目の前の男がますます気に入らなくなっていた。単にカフェラテを剥がして少しからかう程度では解放したくなくなった。


「名前を言え。」


催眠術の強度を上げたため、男はようやく口を開いた。


「日光、正義。」


日光正義。 この男には似合わない真面目な感じの名前だ。しかし、それ以上に印象的だったのは、のどの奥からかすかに擦れるような深い低音だった。その声は、男である赤見が聞くにも感嘆するほど素晴らしかった。


男でも女でも他人にあまり関心のない赤見としては、これまで意識していなかったが、この日光という男は、ヤクザのような過剰な鋭さはあるものの、なかなか見栄えのする顔をしていた。背も高く、一見して筋肉質で。おそらく異性には結構人気があるタイプだろう。恋愛には全く興味のない赤見は無関心なまま流した。


「しかし、やはり生意気な態度は許せない。普段はこんなことはしないが…… お前は私を心の底から『尊敬』している。お前のような者は、私に対して敬意を払うのが難しいほどだ。今後は態度に注意し、きちんと敬語を使うように。」


すると、日光の単調だった無表情が変わりながら、極度の好意の証拠が次々と現れた。鋭く引き締まっていた眉が八の字に緩み、蒼白だった頬に紅潮が赤味を帯び始はじめた様子を見て、赤見は驚いてしまった。


催眠術で洗脳を行うことは、通常は他人の精神を操ることに近いもので、感情まで完璧に制御できるものではなかった。 『どのような気持ちを持て』と命令したとしても、命令を受けた相手は与えられた役割を魂なくこなす人形に過ぎないように見えた。


しかし、今、赤見の目の前に座っている日光は、本当に赤見を深く尊敬しているかのような顔 をしていた。姿勢までもがよりまっすぐに正した日光は今や赤見の小さな仕草一つにも集中している様子が伺えた。返答すらしなかった先ほどの姿とは全く違っていた。珍しく好奇心が湧いた赤見が首を傾げて日光をじっと見つめると、日光は一瞬どうすればいいのか分からず動揺したが、すぐに目線を下げた。


何がどうなったのかは分からないが、イライラしていたさっきよりずっとマシだ。赤見は軽く笑った。


「年齢は?」

「27歳です。」


日光は慌てて答えた。赤見が思ったより少し若かった。赤見は37歳なので、二人は10歳離れていた。


「職業。」

「職業は……。」


日光が突然ためらったので、赤見は再び驚いた。この程度の催眠術に抵抗すると?一般人の精神力では難しいことだ。それにしても、完全に不可能ではなかった。自我が強い相手に本当に知られたくない秘密を吐かせようとした時、時々このような反応が返ってきた。赤見は自身の生まれつきの催眠術を利用して資産家の秘密を聞き出し脅迫や販売を行う情報屋として長年働いてきたため、その事実をよく知っていた。


「お答え、でき、ません、本当に、申し訳ありません……。」


日光は薄い唇を噛み締め、頭を下げた。すくめたまま固まった肩と荒い息がかわいそうに見えるほどだった。尊敬する赤見に自分の職業をどうしても知ってもらいたいが、逆にそんな自分を許せない苦悩に苛まれているのだろう。


「あの、大丈夫ですか?あれ、明さんじゃん?」


しまった!赤見は席から飛び上がるように立ち上がった。赤見の常連客である喫茶店『春風』の別の常連客、石原がいつもように過剰に明るい口調で赤見の名前を軽率に呼びかけながら話しかけてきた。石原の極めてホストらしい長い金髪と華やかな模様のシャツが、今日も赤見の視界をぐるぐると混乱させた。


「い、石原さん!こんなところで……。」


催眠術を使えばどんな答えも引き出せる赤見は独断的に命令ばかりしていた分、催眠術を使わない日常会話にはひどく不器用で、ぎこちなく途切れた言葉だけをたどたどしく吐き出した。むしろ、そんな赤見しか見てこなかった石原は、普段通り赤見の言いたいことを巧みに理解し、親切な微笑みを浮かべながら、自分がここにいる理由を説明した。


「今日、スターバの新メニューが出るの知ってます?実は他のメニューは普通だろうけど、スイカ、メロン、バナナ、モモ、プラムが全部入った『メガ・サマー・フルーツ・ミックス・ミックス・フラペチーノ』はちょっと気になってしまってね。で、ちょうど明さんもここにいるね。やっぱり私と同じようにスターバの新メニューが気になっだんでしょ?明さんとは共通点があるからね。」


そんな奇妙なものを売っていいのか?赤見はそう思ったが表には出さず、石原の言葉を適当に相槌を打ちた。石原は自分の推測が当たったことにただ嬉しそうに見えた。


「ビンゴ!これなら探偵に転職してみようかね?最近、うちのクラブの売上が悪いんですよね。ああ、社長がこんな話は外で言わないようにって言ったのに。」


何がそんなに面白いのか、一人でクスクス笑っていた石原は、突然赤見の向かいに座っている日光の方に向かい合った。


「そうだよ!この人は大丈夫ですか?体調が悪そうに見えるけど?」


日光が間違った答えを口にする前に、赤見が先手を打った。


「だ、大丈夫、大丈夫です。この奴、つまり、つまり、片頭痛なんです!ここで少し休めば、きっと良くなりますよ。」


急ごしらえの説明だったが、石原は納得したようだった。


「そうならよかった。ところで、二人は何の関係ですか?明さん、いつも一人でいるのに、こんなイケメンを知っていたんですか?」

「イケ……?」

「明さんは本当に流行語に弱いですね。こんなハンサムな友達がいたんですか?年齢は明さんより若く見えるけど?」

「あ……。」


顔を合わせて情報を聞き出す、アナログな方法にこだわっているため、デジタル的には原始人に近い赤見が新しい流行語に慣れる間、石原は日光を隅々まで観察し自分が働いているホストクラブにスカウトする計画を練っていた。


「あの、明さんの友達さん?私は石原翔太、友達さんの名前はなんですか?今、何か仕事はされていますか?特にないとか職種を変えたいなら、うちのクラブで働きませんか?少しヤクザっぽい感じはするけど、あなたならナンバーワンも無理ないと思うよ。」


日光は石原の質問攻めにも無言で赤見だけを見つめていた。答えてもいいか許可を求めるような様子に、石原はますます興味を惹かれた。話が完全に狂う前に、赤見は適当に二人の関係を説明した。


「た、ただの以前の職場の後輩です。日光というんですが、私によくなつくて、久しぶりに会いに来たそうです。そうだよね、日光?」


赤く染まった赤見の瞳と視線が交わった日光は、従順に頷いた。


「はい、先輩を心から尊敬しています。またお会いしたかったんです。」


その荒々しく低い声で可能だと思ってなかった柔らかく優しい、どんな切実ささえ滲み出る声が日光の口から漏れた。容易に流せない真剣さに石原は困惑した表情を隠せず、感嘆の声を上げた。


「ああ……。そっか。明さん、本当に良い先輩だったんだね。」

「今も良い先輩です。これからも。いつまでも。」

「本当に深い関係なんだね、二人は。」

「俺にとってはそうです。」


くっそ、この日光という奴はなぜこんなに感情的な洗脳に弱いんだ?赤見はできるだけ普段通りに見せようと祈りながら、石原を押しやった。


「あの、では、私たちは私たちで話があるんです。次に……。」

「ああ、そうか!私が邪魔したね。また後でね、明さん、日光さん。」


石原が二人を離れて、ちょうど自分を呼ぶ店員から不思議な色のメガ・サマー・フルーツ・ミックス・ミックス・フラペチーノを受け取り2階へ上がると、テーブルには再び気まずい沈黙が漂った。赤見はため息をつき、ゆっくりと頭を回転させ始めた。


この日光という男は当分放っておくつもりはないし、石原も赤見が常連の喫茶店に行く限りは会わなければならない。日光との関係をもう少しきちんと設定する必要が出てきた。


「日光。」

「はい。」


日光は名前を呼ばれたのが嬉しそうに、赤見を熱烈な眼差しで見た。鋭いと思っていた顔も、赤見自身への尊敬の念で緩むと、少し可愛らしく見えた。


「さっき聞いたろ。私たちは以前の職場の先輩後輩の関係。その奇妙な尊敬の念はとりあえずそのままにして、態度だけもう少し自然に変われ。できれば元の性格のままにしろ。当分は生意気な態度も許してやる。」

「ふむ。まあ、分かりました。それが先輩が俺に望むことなら。」


日光の口調と姿勢が緩んだ。恥ずかしそうにぼんやりしていた表情も、特に糸切り歯が露わになるほど豪快な笑みに変わった。赤見は再び片方の眉を斜めに引き上げた。どうやら無愛想だったのは、全く知らない相手に対する仮面であり、本来はこんな……ややいたずら好きな性格なのか。


やはり人間の内面は複雑だ。催眠で掘り下げていくほど、次から次へと新しい面が浮かび上がる。あまり知りたくないと思っていたとしてもだ。


「で、じゃあ、俺も明先輩って呼んでもいいですか?さっき石原っていったか、あの金髪のウルフカットの奴は先輩の名前を気軽に呼んでたけど、俺もそう呼んでもいい?」

「……リラックスしろと言ったけど、あまりにもリラックスしすぎじゃないか?尊敬の念はそのままに設定したはずだけど。」

「あ、今だってマジ敬してますよ。」


赤見はニヤニヤ微笑んでいる日光を細めた目で睨み付けた。


「当然だけど、名前はダメだ。赤見先輩と呼べ。」

「赤見先輩。」

「良い。お前はその、当分は、ふむ……。携帯はあるだろ。出せ。」


日光はスーツのズボンのポケットから携帯電話を取り出し、赤見に素直に渡した。赤見は日光の携帯電話の連絡先リストに自分の番号を入力し、『赤見先輩』と保存した。日光は赤見から携帯電話を受け取ると、すぐその番号をよく使う項目に設定した。赤見としてはどうでもいいことだったので、そのままにしておいた。


「私の番号から呼び出しがあれば、お前は必ず私がいる場所に来る。そして私が命じることは何でもやればいい。期限は、私がお前に飽きるまでだ。」

「すごくいいです。」


催眠術に完全に操られた日光は、奴隷契約と変わらない条件を喜んで受け入れた。


大体整理がついたようだ。赤見は最後の関門を前にし、舌で唇を湿らせた。生まれつきの催眠術師として二十年以上続けてきた仕事でも、他人の心理的防壁を破壊し、精神の最も深い部分に隠された秘密を掘り起こして手に入れることは、いつだって緊張を伴った。


「私と話し残したことがあるだろ、日光。今こそお前の職業を私に教えてくれ。」


その言葉に日光の表情が一瞬で変わった。突然足を震わせ、視線を窓の外へ逸らした日光は鋭い目つきをしかめ、しばらく躊躇った末にようやく口を開いた。


「先輩が。」

「言え。」

「先輩が俺の職業のせいで俺を嫌いになってしまったら?」


赤見はあからさまに日光をあざ笑った。


「私は今だってお前を少しも好きじゃない。あえて言うなら、そう、嫌いな方だ。」


日光の膝の上で両拳が強く握りしめられているのが見えた。


「俺も知ってるですよ、知ってるけど……今よりもっと嫌いになるのは耐えられないです。」

「お前が我慢するかどうかは関係ない。実際はお前の職業自体には興味もない。ただ、なぜそこまで隠そうとするのかが気になるだけ。お前が隠すほど、それが何か価値ある情報でどのような方法でも私が利用できればその方がいいだろ。」


配慮の欠片もない悪意に満ちた言葉が日光の胸を乱暴に掻き乱したが、赤見は当たり前のようにその自覚すらなかった。ただ日光を丸ごと飲み込もうとする思いに満ちた赤見は催眠術をより鮮明にするため、意識を集中させるだけだった。


日光、私を見て。そして言え。


血の一滴が滴り落ちて溶けていくように、赤見の黒い目が中心から赤く広がっていく。その目は日光の精神、心、あるいは魂、最後には全てを圧倒し日光を押しつぶした。赤見と対峙する日光の瞳が震え始めた。


そう、そう。抵抗をやめて諦めてしまえ。私にお前という概念を完全に委ねて崩れ去れ。


間もなく日光は泣き声に似た哀れな息の間から、赤見に自分の秘密を打ち明け、捧げ物のように差し出した。


「俺は人を殺して金を受け取っています。」

「何?」

「俺は殺し屋です、赤見先輩。」


先輩は知ってはいけないのに………。日光の呟きは、まるで遠くから聞こえてくるように、赤見はぼんやりと考えた。

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