第2話 タルノポリの審判 ―多言語が暴く、ある捕虜の正体―

タルノポリ郊外にあるコルホーズ(集団農場)の広場は、硝煙と家畜の死臭、そして何百人もの人間が放つ絶望の熱気に満ちていた。


「シュミット、始めろ。一人につき三十秒だ」

 

プラッツ少佐が、ホルスターから抜いたルガーの銃尻で、列をなす捕虜たちを指し示した。傍らでは、黒い襟章をつけたアインザッツコマンドの隊員たちが、銃剣を突きつけて捕虜たちを泥の上に跪かせている。

 

俺の仕事は「選別」だ。

共産党の政治委員(コミッサール)、ユダヤ人、そして再起の芽を摘むべきソ連軍将校――。

 

俺は名簿を手に、捕虜の列を歩き始めた。前世で読み耽った『独ソ戦全史』の記述が、眼前の光景と重なり合う。


(……史実では、この数週間後にソ連第6軍は壊滅する。司令官のムジチェンコ中将は捕虜になるはずだが、その行方は数日間不明だった……)

 その時、俺の視界が一人の男を捉えた。

 

肩章を引き剥がされた、薄汚れた野戦服。無精髭に覆われた顔。しかし、その男の「手」だけは隠せていなかった。泥にまみれてはいるが、爪は短く整えられ、ペンだこが中指に深く刻まれている。それは、長年机に座って命令書を書き続けてきた、高級将校の指だった。

 

俺は男の前で立ち止まり、周囲に聞こえるよう、冷淡なドイツ語で言い放った。


「名前と所属を言え。言わなければ、あそこの林へ案内してやる」


男は沈黙し、俺を睨み返した。周囲の兵士たちが、微かに、だが確実に彼を守るように身を強張らせる。

 

俺は屈み込み、男の耳元で、誰にも聞こえないほど小さな声――完璧なレニングラード訛りのロシア語で囁いた。


「お疲れ様です、ムジチェンコ将軍。第6軍の配置図は、もう燃やされましたか?」

 男の瞳が、凍りついたように見開かれた。


「……貴様、何者だ」

「あなたの味方ではありませんよ、今のところは。……ですが、あなたがここで死ぬのは、歴史にとって少々『勿体ない』」

 

俺は立ち上がり、背後で様子を窺っていたプラッツに、明瞭なドイツ語で報告した。


「少佐、この男はただの主計兵です。見てください、この指を。ペンを握る以外に能のない事務員ですよ。殺す価値もありません。……ちょうど、第9装甲師団の戦車隊が、この先の橋の補修に人足を欲しがっていました。そちらに回しましょう」

 プラッツは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「事務屋か。使い物にならん奴だな。……好きにしろ、シュミット。弾丸の無駄は避けるべきだ」

 

俺は兵士に命じ、男を「労働力」の列へと突き飛ばした。

 去り際、俺は男に英語で一言だけ添えた。


「Remember this. I'm Hans Schmidt. We'll meet again in Berlin... or Moscow.(忘れるな。俺はハンス・シュミット。ベルリンか、あるいはモスクワでまた会おう)」

 

男は驚愕に目を見開いたまま、連行されていった。

 史実ではここで捕虜収容所の露と消えるか、あるいは過酷な尋問にかけられるはずだったソ連軍司令官を、俺は「自分の手駒」として歴史の裏側に隠蔽したのだ。

 

林の奥から、乾いた銃声が響き始める。

 俺は血の臭いから逃れるように、再び名簿に目を落とした。

 

死を訳し、生を編む。

 

それが、この地獄に墜ちた俺の、唯一の戦い方だった。

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