回想10
蝉は鳴かなくなっていた。差す日光はぬるく、吹く風は冷たくなっていた。そんななか、片付けるのが面倒がられて残っている風鈴の音が、私だけを夏に取り残した。なんて被害者ぶってるけど、季節が私を置き去りにしたのではなく、私の思い出がただ足踏みをしているということは本当は知っているのだけれども。私はひたすらにペンを動かした。つまらない。面白くない。しょうもない。描けない。画けない。書けない。それでも書かない分には誰も生きられないし誰も死ねないから、私はひたすらに、書いては捨てた。書いて、書いて、飽いて、また書いて、捨てた。私の小説には、人の心を比喩するだけの情景が足りないと思った。今日の先生の顔を思い出す。眉はよってて、目じりは少し下に傾いている。それなのに、口角だけは引きつりながらもちゃんと上に上がっている。あの顔を手持ちの言葉だけで表現するなんて、あまりにも難しい。少し悩んで、それを不幸な顔と例えることにした。先生の輪郭がはっきりするころには日が暮れかけていて、たったこれだけの内容に一日を費やす自分の才能を呪いたくなった。かわりに他人の才能を盗むことにした私は散らかってる部屋から本を一冊、適当に拾う。その本が夏目漱石の夢十夜だったことに運命なんて感じない。実を言うと私はそう多く本を持っていない。だって、なにかを買ってもらうなんてことはあまりないから。家にある本なんてせいぜいメディアに取り上げられるような流行りの本とか、教科書にすら乗るような旧き良き名作かのどちらかだ。だから、手に取った本が先生の好きな作家の本なんて言うのは、先生が夏目漱石が好きな時点で高確率で起こりうることで、虚像の先生に縋りつきたい私の都合のいい解釈にしかならない。強いていうなら、夏目漱石が好きな先生が悪い。夢十夜の表紙を見ながら思う。私はどんな夢を見るんだろうか。どんな夢を見ているんだろうか。いつか私の小説も夢になるんだろうか。読みきるつもりだったのに、私の意識はあっけなく夜にとけた。
夢を見ていた。気がする。もう思い出せない。夢なんて、いつもそういうものだ。電気が煌々とついている。手元に夢十夜が転がっている。それで寝落ちしたことを理解した。鞄に原稿用紙と筆箱を詰め込んで、リビングに降りる。朝御飯に味噌汁とご飯が出てきて、ふと私はパン派なんだなと思った。今までも朝御飯は作ってもらっていて、別にとくになにも思わなかったのに。ご飯を食べながらニュースを見てたら、先生の学校の生徒の、自殺したニュースが取り上げられてた。どうやら、ちゃんと大きいニュースになっているらしい。まあ、そんかもんか。麻川優乃という少年の死を叔父さんやニュースキャスターは嘆いていて、私も嘆き悲しんだ方がいいのか少し迷う。でも、自殺っていうのは小説のエピローグみたいなものでしょ?悲しむべきは私ではなくて、彼という物語の読者であるべきはずだ。なら適任はニュースキャスターでも叔父さんでもなくて、私ですらなくて、先生であるはずだ。私が嘆き悲しむのはお角違いだと思う。それに私は毎日90人分の涙を流せる自信ないし。叔父さんに感想を求められたけど、何て答えればいいのかわからない。とりあえず凄惨さに嘆き悲しみ、自殺した生徒を哀れんだけど、私の感情に何の価値があるのだろうか。そんなこと私にはわからないけど、叔父さんは納得してくれでたようで、正解を出せたことに小さく安堵する。私はこれ以上墓穴を掘らないようにさっさと朝御飯を口に詰めて、家を出た。
道端の石ころを蹴りながら、もう何回も見て見飽きた道を私は今日もいつも通り歩いた。ふと、見慣れてしまった光景に恐ろしさを感じる。正確に言うと、光景に見慣れたということに。見慣れた道は私の意識にわざわざ留まらず、その風景は風景としてすら認識されない。私の小説に情景が描写されない理由はこれかもしれない。少しわかった気になった私は試しに顔をあげて、今一度その道の景色を認識してみる。目の中に入る光の量が少し増えて眩しいだけだった。私には。ふと猫の鳴き声が聞こえて、世界がほんの少し私に優しくしてくれたようにも思った。だったら、先生にもあの自殺した生徒にも、世界が優しくあったらいいのに。そう思うのは、幸せな私の余裕が、その二人の他人を不幸だと見下しているからなのだろうか。もしかしたら二人は、十分世界に優しくされていたのかもしれない。それは私には図れない。蹴った石が排水溝に落ちて行って、こんなことも一つの光景として記憶した方がいいのかをいちいち考える。くだらない時間を過ごしていたら、いつの間にか学校につく。結局、見慣れた道は私という描写にさしたる影響は及ぼさなくて、私はふと、見慣れてしまった光景に寂しさを感じた。少し早めに家を出たから、教室にはまだ誰もいなかった。私は真ん中らへんの適当な席の近くで天井を眺める。別に首を吊るつもりはなかった。今日はそう断言できる。だから、代わりに誰か私を殺してくれないかなと思った。殺してくれるなら先生がいいなと思った。一人で妄想に微睡んでいたら、担任が来て、私を見て驚いたような顔を作る。
「珍しいな。一番乗りだなんて。」
「たまたま早起きしちゃったんです。それで。」
それで家にいたくはなかったから、とはさすがに言えなかった。
「それで早く来たのか。なるほど、偉いな。あ、じゃあそうだ。悪いんだけどプリントを教室に運ぶのを手伝ってくれないか。」
言葉の先を都合よく解釈してくれた担任はそのままその話題を終わらす。ついでに都合よく扱われそうだけど、まあこれくらいはいいかと思って私はそれを快諾した。
「不破は進路決めたか?」
職員室までの廊下を歩きながら、担任は私に話しかける。何の気もない質問なんだろうけど、私にはとても難しい質問だ。回答につまった。私は一体、何になりたいんだろうか。何になれるんだろうか。
「…少しだけ、先生になりたいかもしれないです。」
言ってから、自分で何を口走っているんだろうと思う。担任は少し意外そうに、でも楽しそうに「そっか。」と笑った。
「不破ならこの調子で頑張ればなれると思うよ。最近成績伸びてるもんな。勉強、頑張って。」
その言葉は、私の背中を押すには至らなかった。ありふれた言葉は、気分を害すわけでも、心を浄化するわけでもなく、ただ当たり前に空気にとけた。教師とかいう職業の吐く言葉は軽いから、多分雲の上まで飛んで行ったと思う。私の言葉とどっちが軽いか、いい勝負になりそう。私が教師になったら、どんな言葉を吐くんだろうか。何を教えられるだろうか。数学?国語?生きる理由?死ぬ理由?一瞬考えて、まあなんでもいいかと思い直す。うわべでなにをしているふりをしようと、教師になった私はどうせ先生の小説をそのまま転売するだけで、私は何も教えられないし誰も救えないんだろうなと思う。私はもう一度だけ、わざと、「先生になりたいと思ってます。」と口に出した。ほら、軽い。
プリントを教室に持っていく頃にはもう何人か生徒が登校しているだろうと思っていたけど実際にはまだ二人くらいしか人はいなくて、自分がどれくらい早く来たのかを少し思いしらされた気分になる。本のページを捲る音と、ペンが紙を擦る音だけが、優しく教室に響いてる。私の好きな音だった。心が透き通るような、潤うような、そういう感覚があった。静かな教室に私の好きな音だけが響いていて、私はそれを、邪魔したくなった。ただの名前もない登場人物が、私の好きな音を響かせ続けるのを、私は耐えられる自信がなかった。私はわざと音が出るように教卓の上にプリントをおいて、それから二人に向き直った。
「二人とも手伝って~。これ配んなきゃなんだって。」
二人の優しいクラスメイトは二つ返事で「いいよ」と頷いて、プリントを手分けして配り始めてくれた。やがて他の生徒がちらほらと登校し始めて、私の周りにも人が増えて、教室は見知った騒がしさで満ちていく。騒がしくなった教室でどんなに耳を澄ましても、私の好きな音はもう聞こえなかった。
「結莉ちゃんは見た?昨日のニュース」
「え?」
不意に振られた話題に私は反応できなかった。それほどまでに、音を探すのに夢中になっていたのかもしれない。
「あ、ごめんボーッとしてて。なんのニュース?」
「珍しいねー、結莉ちゃんがボーッとしてるなんて。もしかして、恋?」
「もー。違うよ。ちゃかさないでー。」
否定しつつ、恋だったならいっそどれ程よかったことかと考えてしまう。そしたらだって、私の小説はたぶんもう少し書くことができて、もう少しハッピーな物語になりそうだ。たとえ二番煎じの腐るほどありふれた陳腐な内容でも、あるいは先生と私は幸せだったかもしれない。でも残念ながらそんなかわいい理由じゃなくて、行ってしまえば単にその会話が、私の頭に入って来なかったというだけだった。慣れた景色は頭に入ってこない。この会話も、私にとってはその辺のいつもと代わり映えのない道の景色と同じなんだと思う。その事実は私にまた一つ、私を嫌いにさせた。私は先生にはなれないんだろうなと思った。
「それで、なんのニュース?」
「ほら、千葉駅に、新しいカフェができるって。」
「知ってるかも。よさげな雰囲気だったよね。」
そのカフェはいかにもお洒落で映えそうな感じのカフェで、私と先生が根城にしている古風な落ち着いた雰囲気のカフェとは正反対の感じのカフェだった。
「ねー。完成したら一緒に行こ!」
「もちろん!」
口約束を結んだことに満足して、話題はまた新しい方向へと向かっていく。適当に相づちを打っていたら瞬く間に時間は過ぎていき、今日二回目の担任の顔を見て、ようやく今日のこれまでの時間をどぶに捨てた気がした。今さら拾い上げる気にはなれなかった。
例え世界の全てが貴方の敵でも、私は貴方の味方だよ。そんなどこかで見たような言葉が頭をよぎる。どこで見た言葉なんだろうか。なんて素敵で適当な言葉なんだろう。そんなの、言い方の問題じゃないか。例え私は貴方の味方でも、世界の全ては貴方の敵だよって言えばほら、急に言葉は毒気を孕む。だから結局、たった一人が味方でも、その人にとって救いかどうかは少し怪しいと思う。私は3コ目の角砂糖をコーヒーに溶かしながらそう思った。
「そんなに浮かない顔しないで下さい。たしかに今、先生の学校とか、先生とか、いろいろと叩かれているのは知っていますが、それは匿名という無法が生み出したストレスの捌け口だってことも私は十分に知っています。それに、あの人たちは物事の本質を知って攻撃してるわけじゃなくて、表面にある甘い密だけを見て襲いにきてるだけです。あの自殺については、私の知る限り先生は悪くないと思っています。」
「そんな浮かない顔してた?」
先生は困ったような苦笑いを作ろうとして、それが余計に歪んだ顔を作った。私はまた一つため息をついた。世間は今、先生の学校の例の彼の自殺のニュースについて少し盛り上がっている。彼と親しかったという誰かが流した自殺に関しての情報が出回っているからだ。
「彼はずっと前からいじめられていて、会うときはいつも悲しそうな顔をしていた。」
「彼はいじめにはいじめられる側にも問題があると自ら心を閉ざしてしまっていて、自分以外の誰にも相談できなかった。」
みたいな。しかも、その生徒の身体に痣のある写真とかもばらまかれたらしい。なんならその写真が今手元にある。もののみごとに事態はさらに荒れて、今やそのニュースは私の学校でも話題のたねになる程度には膨れ上がってた。この前もクラスの子がその話をして盛り上がってたし。やっぱり人って、無責任なんだなと思った。コーヒーに、4コ目の角砂糖を溶かす。もう一度、ため息をついた。
「それに、いいじゃないですか。例え世界の全てが先生の敵でも、私は絶対に先生の味方ですよ。私だけじゃ嫌ですか。」
私は平然とそう言って、コーヒーを飲む。本心かどうかは重要じゃなく、甘美な言葉の響きが大切なんだと思う。角砂糖が足らなかったのか、苦い味が口に広がった。
「それは、…。嬉しい、ね。ありがとう。年下の女の子に慰めてもらうなんて、カッコ悪いな。」
先生の口角が少し上がって、私は少し満足する。先生はココアを一口飲む。きっと先生の口には甘い味が広がる。そうでなくてはならない。そういえば、この近くに新しくできたカフェはいったいどんなメニューがあるんだろうか。どんな味がするんだろうか。甘いココアは、苦いコーヒーはあるのだろうか。はたまた別の、甘くて苦い飲み物はあるのだろうか。私は目の前のコーヒーと、妄想の中のコーヒーを飲みくらべる。味に大差はなくて、どっちの店が先に潰れるかは運次第だろうなと思った。コーヒーの味なんて、きっと誰も興味ない。だから、もう一個砂糖を溶かすことにも、意味はない。意味のないことでもなにかをしてないと、苦しくて死にそうだった。私と先生の死に場所はまだここではない気がするから、私は砂糖を溶かす。カチャカチャ音を立てて溶かしたあとで、顔を上げる。先生はもう、いつもの優しい顔を完全に取り戻してて、それすら私には苦しかった。最近の先生の表情は見るに耐えない。先生は何を思ってあんな顔をしていたのだろう。先生は何を思って生きているんだろう。先生の生きる理由は。先生の苦しさがそのまま私の苦しさで、私は苦いコーヒーを飲みほしてしまった。私は先生には生きていてほしいと思った。そうしないと、私はいったい、誰に生きる理由をつくってもらえばいいのだろう。私は原稿を広げた。先生はまばたきをするばかりだ。
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