ゴーベールとフルート・ソナタ
沖脩夕
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自転車をこぐ脚が遅い。よく晴れた日で、地面から土や草の香りが饐えて香っていた。「うだるような」という言葉は、こんな暑い日にしか使われないから、ほかに「うだるような」ものを探してみても、こんなに暑い日だけが「うだるような」ものに思える。もしほかの言葉に置き換えるのなら、まるで、私がジャムになってしまいそうな、そんな熱気だった。
こんなに、高低の急な土地に住んだことは、なかった。選んだ高校がたまたま遠かったからで、祖父母もいたから移り住めた土地だった。「しめしめ」と思いつつ祖父母を言い負かして、一人暮らしをはじめた。
学校へ通うのに道のりの「斜面があまりにもつらいから」と、当時まだしっかりと治っていなかった骨折のことなどで、「さらに」親を言い負かした。車の持たない祖父母をさらに優しく説得すると、祖父母の切り盛りしているアパートへ一人暮らしが許された。
よし。
こんな短期間での二度の引っ越しで、もうできるだけ物は手放してしまおうと、持っていた書籍やフルートを祖父母の家に置いてきた。
フルートはたまに吹きたくなる。とはいえ、アパートでフルートを吹いては面倒なことになるだろう。
うむ。そう考えては、祖父母の家へ行き、すぐにフルートを取り出して、音階練習を始める。気が向いてスケールの練習をしても、なんだかメロディが欲しくなり、一階に降りて書庫に祖父を呼ぶ。
ノックを三回して、鍵が外れたら入っても良い。
眼鏡を前に下すしぐさがいかにもおじいちゃんといったところだが、どうやらカッコよくて色気があるのはそのしっかりと固い顎と、弛んでいない目じりからそう思うのだろうか。
紗枝にフルートを勧め、音楽は、クラシックなんかは興味がない両親に対して「習わせるお金は私が出す」と、そういったのは、このおじいちゃんだ。祖父にしては(いつもふざけているので)珍しく、あまりにも誠実で、娘への嫌味な目つきもなかった。紗枝の両親は、胸を打たれたようだった。
紗枝の母、君枝はもともとピアノを習いたかったのに、執拗に
「フルートか、ピアノと一緒に演奏できる楽器」
じゃないとダメだと、
「じゃあ、そんなに父さんが一緒に演奏したいなら、わたしピアノ習って連弾でいいじゃん」
と、言ったら、
「連弾で私が弾きたいのは、二人の手が重なっちゃうような難しい曲だから、娘と手を合わせて私がお前に恋したらどうする」
と、言われ、君江は唖然とした。八重歯が綺麗ですね、と君江の母が言ったが、それは口角が片方だけ上がっていたからだ。
フルートの音色や演奏は、もちろん楽しかったし、君江が(対抗するように)ヴァイオリンを習い始めても、ヴァイオリンに目移りすることはなかった。なにより、祖父と一緒に演奏するのが好きだった。祖父のピアノは、息遣い、拍感覚が揺らいでいているが、いや、ふざけながら紗枝を驚かせたり、笑わせるために調子はずれの音を演奏中に鳴らす。半音の半音ぶん差があるように、鍵盤のいくつかを調律させたり、でも、そういう時に限って、祖父は真面目に演奏するから、紗枝は「自分のフルートが間違えた音をだしているのだろう」と、お腹を支えに音程を固定させては、音程が祖父の音律になってくると
「やめ! 謝ります!」
祖父が背筋を馬鹿みたいに(「定規がお辞儀しているみたいな」と、紗枝はよく君江に話していた。「いつもああだよ」と笑っていた)折りたたませて謝った。
「つい調律中に思いついたふざけをして申し訳ない! とにかく謝ります! 紗枝は真面目過ぎる! 調律を直します! けれど……」
十三歳の、祖父の六回目の悪ふざけのとき、そのあとに初めて「びぶん音」というものを教えてもらった。紗枝にとって、それが、何よりも貴重な出来事だった。
一回目、調律について。
二回目、音律について。
三回目、(紗枝がいきなり怒鳴り散らかしたので)祖父の平謝り。
四回目、音程の感覚的な差による相対性。
五回目、(紗枝は半ば呆れていたが)音律の歴史的な流れ。
六回目、「びぶん音」の西洋音楽での評価。
感動的だった。馬鹿みたいに謝る祖父に対して手を握って感謝をしたのは、いささか少女過ぎるかと今では思うが、今でも、あのことを思い出すと、また祖父の手を握ってしまうだろう自分が、そう判ってしまう。
山のふもとの祖父母の家で、防音の書庫で、いつもフルート・ソナタを演奏する。
二人だけで演奏する。祖父の部屋の小さなグランドピアノは、「(馬鹿みたいに毎回謝っているのだからいわすのも仕方ないが)腰を痛めてしまう」とホンキートンクから買い替えたものだ。祖父はホンキートンクを触って、
「昨日、私は調律したんだ。ピアノは音程の中心だと思われがちだが、これは、どこかくすんで聴こえるだろう。紗枝のプルートだって、鋭い音なのに、音には「空気の含み」がある。これは、もはや音程や調律といった問題ではないよ。そう音は何かを振動させて、音が出るだろう。波だね。その「振動するもの」のボディの問題なんだ」
「私はこの指から、皮膚の覆う身体と骨ぜんたいが、ボディだ。紗枝は、その口から身体の内側、細い身体がの内側が、すべて楽器で「振動するもの」なんだよ。だから、同じ楽器でも奏者によって音が違う。紗枝の唇は厚いだろう。それで、空気に豊かさがあるし、ご飯は頬っぺたいっぱいに膨らませるし、そうだな、トランペットも上手にふけるんじゃないかな。そうしたらヴァインベルクでも吹くか。編曲は任せなさい。ジャズでもいいな。紗枝、お前みたいに頬っぺたを膨らませる、有名な走者がいるんだよ。ハムスターみたいな……」
と、言われて祖父を軽くひっぱたいた。
それから、祖父は「本気で演奏するから、叩かないで! 真心こめます!」と、私は、ゴーベールのフルート・ソナタ第二番を提案し、承諾した。
紗枝は「いつも真心を込めます」と書面にでも書かせて誓わせたかった。
襟は無い服なのに襟を正すから、私はもう呆れていた。
ゆるい空気の中、祖父が振り下ろす右手が、私にとってぬるく、途方もない時間のように思えた。叩くボディはなく跳ね返る祖父の手。それが次に来る二人の音を呼んでいるように感じた。
どこかたしかに当たっているのに、打点がない「跳ね返り」。
第一音の和音は、その演奏前の祖父の所作とほとんど同じく、ピアノのハンマーから弦が響いた。音を滲ませ、置くような沈み込み。音のたおやかさ。
冒頭を吹き終わって、次にピアノソロがあったところで、「襟を正した」祖父を信じた。
下部から押し上げるような和声。
豊かさのほかにある、情感とも呼べない、音の「たしかさ」。
祖父の音が、楽譜が、祖父を呼び、ピアノを呼び、祖父がその「跳ね返り」で私を、フルートを呼んでいた。
演奏が終わるころ、紗枝はずっと泣いた。
演奏している最中にも涙は止まらなかった。震えるからだが、自分という楽器、フルートのボディなのだと思うと、さらに感動してしまうのだ。
「お前は、一度も音程を外していない。調律師の私が言うんだ。その通りだろう! もし違うなら、それは、お前の表現で、お前の身体なんだ」
と、祖父が抱き留めてれた。
指先にキスをした。
ゴーベールとフルート・ソナタ 沖脩夕 @Zo1Lom
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