睡蓮

三田静香

第1話

「いらっしゃい!」


今日も一際輝いた瞳で、お茶屋“睡蓮”の暖簾を潜る客を一人一人丁寧に出迎える彼女は、この街ではちょっとした有名人だ。


僕は今日も暖簾を潜れず立ち止まってしまう。どうしてこんなに手汗をかくのだろう。視線が落ち着かない。変にキョロキョロしてしまう。息が上がる。あぁ、だめだ!

僕は今日も紅潮した顔を隠しながら踵を返す。


「僕は何でいつもこうなんだっ!!!」


走る足先に力がはいった。


僕は彼女と半年前に出会っていた。

彼女は墓参りに来てきた。僕は墓守の1人息子だからその日もいつも通り、墓地の掃き掃除をしていた。


その時だったんだ。彼女に出会ったのは。ふっくらした頬が桜色に紅潮し、色白な肌にしっとりと汗がにじみ出て。

大きな瞳が今にもこぼれ出しそうだった。


「母さん」


彼女の囁き声が聞こえる側まで気付けば近寄っていた。あと一歩近づけば触れることができる距離まで。

僕はハッと我に返り、急に自分が犯罪を犯した様に罪悪感が溢れ出て、そんなことより彼女にバレるバレるバレる、バレる1秒前に走り去らなきゃ。顔を隠さなきゃ見られたくない合わせられない。そう思い急いで頭を下げたその瞬間、彼女の小さい足元に光る簪が見えた。


彼女に返すはずの簪を僕は盗んだ。


じっとり手汗をかいた手を、手のひらに爪が食い込む程、僕の体温を一切受け取らない冷たい簪を握りしめていた。



今日こそ返すのに。

返せなかった僕の、間抜けで、臆病で、どうしようもない背中を夕日が照らしていた。


明日は彼女の結婚式だ。

夕日で輝くキレイで冷たい簪を喉元に当ててみる。


僕はきっと明日も返せないだろう。

どろっとした黒い気持ちが広がっていく。思わず手に力がはいり、とうとう我慢できず嗚咽が出た。ゲロや胃液や唾液と一緒に僕の中のどろっとした黒い気持ちを吐き出したかった。

鼻水を垂らし、汚れた口周りを拭きもせず、さぞ間抜けずらであろう僕は、どうしようもなく切ない気持ちを抱え、簪を胸に握りしめすすり泣いた。


簪はやはり冷たかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

睡蓮 三田静香 @sizuka_mita

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画