丸窓の家

小径 散歩

丸窓の家

 夕陽が薄く差し込んでいた。

 キャンバスに向かう彼の背中は、もはや何も語らない。

 部屋の隅に置かれたコーヒーはすでに冷たくなって、まるで作り物のようにポツンと佇んでいた。


「覚えてる?」

 彼女の声は、軋む木の床に沈むように落ちた。

「あの丸窓の家でも、よく夕陽が差し込んだわね」

 彼女の呼びかけにも、彼が絵を描く手を止めることは無かった。

「あの時の私たち……幸せだった」

 彼の肩が、一瞬だけ震えたようにみえた。

 けれど彼は何も言わず、部屋には筆先に乗った絵具の音だけが響く。


 彼女は、少しだけ笑った。

 もう、どんな言葉もこの人には届かないのだと悟った。

 その夜、彼女は荷物をまとめた。ドアを静かに閉めると、澄んだ星空が余計に彼女の心を虚しくさせた。


 翌朝。

 街は冷たい光で輝いていた。彼女は駅に向かう途中、少しだけ思い直して彼のアパートの前まで来た。

 静かにドアを引いてみたが鍵が掛かっていて、窓のカーテンも閉じたまま。

 まるで初めから誰も住んでいなかったような、二人で過ごした時間ごと空っぽになってしまったような、そんな風に思えた。


 ふと、郵便受けの中に何かが見えた。薄い紙の端が風に揺れている。

 取り出してみると、それは一枚の絵だった。


 古びた木の家。

 丸い窓から黄色い光がこぼれている。

 あの時二人が笑って暮らしていた、あの丸窓の家。

 窓辺には小さく、彼女が読みかけの本を置いていた机まで描かれていた。


 彼女は息を吸い込んだ。

 指先で、絵をそっと、なぞっていく。

 窓から差し込む光の中に、彼の心が残っている気がした。

 遠くでバスが通り過ぎる音。

 通りから吹いた風が、彼女の髪をやさしく撫でてゆく。

 彼女は絵を胸に抱え、顔を上げた。


 空は、あの日と同じように暖かい光で、彼女を照らした。


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