ロスト・シグナル

井上隆文

第一章:プロジェクト・アステリズム

 第1部:麻布台からの招待状

 1-1:有明アリーナの熱狂


 2026年8月、東京。有明アリーナを埋め尽くした1万5千人の観衆の絶叫は、ステージ中央の防音ガラスブースに閉じ込められた瀬戸湊(せと・みなと)には届いていなかった。

 湊の網膜に投影されたヘッドアップディスプレイ(HUD)は、高度3000メートル、南西諸島上空を模した仮想空域を映し出していた。

 視界の端で、赤い輝点が不規則な軌道を描いて跳ねる。決勝の相手、北米代表のベテラン選手だ。相手のドローンは、重力を無視したような急旋回で湊の背後を取ろうとする。

(……ラグ、0.01秒)

 湊は無意識にそれを「感じて」いた。2026年現在の超高速通信規格をもってしても消し去れない物理的な限界。それを敵ではなく自らの武器に変える。

 湊の細い指先が、特注のコントローラーをミリ単位で弾く。 左耳のイヤホンをわずかに浮かせる。空気の繊細な揺れを内耳で感じとる。

「そこだ!」

 小さく呟くと同時に、推進エンジンを一瞬逆噴射させ、機首を強引に180度反転させる。画面が激しく揺れ、G(重力)の負荷を示す警告灯が真っ赤に点灯するが、湊の瞳孔はレンズのように収縮し、標的を逃さない。

 HUD中央のレティクルが、敵機のエンジンノズルに吸い付くように重なった。

「TARGET CONFIRMED」

 右人差し指でトリガーを愛おしむように引き抜く。 画面の中で白い航跡が一本の線となって伸び、コンマ数秒後、赤い輝点がポリゴンの破片となって四散した。

『G-A-M-E O-V-E-R !!』


 会場全体を揺らす重低音が響き渡り、巨大スクリーンに「NEW CHAMPION:MINATO」の文字が映し出された。


 防音ブースのハッチが開いた瞬間、熱を帯びた歓声と数千のフラッシュが湊を襲った。湊は、汗で湿った指先を見つめていた。まるで、今しがた画面の中で散った「光の残骸」が、そこにこびりついているかのように。


「終わっちゃったな」

 喧騒のただ中、独りごちた。


 この日、湊はeスポーツ「ドローンファイト部門」で世界の頂点に立ち、まばゆいばかりのスポットライトを浴びた。

 記者会見で「次の目標は何ですか?」とゲーム雑誌の記者に問われた湊は「うーん。ちゃんと高校を卒業することかな」と答えた。どっと会場が笑いに包まれる。


 有明アリーナの外へ出ると、東京湾の方向から湿った風が流れてきた。湊は肩をすぼめ、ゆりかもめ「新豊洲駅」へ向かい歩き始めた。


 1-2:日常の残響


 色褪せたアーケードの隅に佇む木造二階建ての店舗。弁当屋「はるかぜ」の周囲は、揚げ物の香ばしい匂いと、家路を急ぐ人々の活気が満ちていた。


「はい、唐揚げ弁当大盛り、お待たせしました! ありがとうございます!」

 看板娘であるハルの弾んだ声が夕暮れの街に響く。店の前に仕事を終えた作業員や近所の学生が列を作り、年季の入った換気扇がカラカラと音を立て「家庭的な匂い」を路地に振りまいていた。


 アルバイトを終えて帰宅した湊は、パーカーのフードを深く被り、賑わう店先を避けて裏手の狭い鉄製階段へ足をかけた。錆びついた手すりが帰宅を告げるようにギィ、と鳴った。


 二階にある湊の部屋は一階の喧騒とは切り離された「聖域」だった。 六畳間の半分を占拠するのは、特注のL字デスク。その上に冷却ファンの青いLEDが光るハイエンドPCと、トリプルモニターが鎮座。壁には歴代大会のパスや使い古されたキーボードがオブジェのように飾られ、床には配線が血管のようにのたうち回っていた。


 湊がデスクの椅子に深く沈み込んだ時、トントン、小気味よいノックの音がした。

「湊、入るよー」

 返事をする間もなくドアが開き、エプロン姿のハルが顔を出す。その手には、夕食の差し入れではなく、一通の厚みのある封筒が握られていた。


 ハルは湊の幼馴染。保育園の頃からお互いを知り尽くしている。両親を不慮の事故で亡くし身寄りがなくなった湊を不憫に思ったハルの両親が、湊を引き取った。以来、弁当屋の2階で元々住み込み社員用に用意されていた部屋が、湊の生活空間となった。


「これ、湊宛に届いてたよ。なんか、すごく高そうな封筒」

「……俺に?」

 手渡されたのは、触っただけで高級とわかる質感のマットブラックの封筒だ。中央には「七角形の星」の銀色のエンブレムが箔押しされていた。


 1-3:破格のオファー


「アステリズム・セキュリティ?」

 湊がその名を呟くと、ハルが目を丸くした。

「えっ、それって麻布台ヒルズにある有名なIT企業でしょ? 何かすごい懸賞でも当てたの?」

「アステリズムはこの前の大会のスポンサーだったから、別の大会の招待状かもしれない」

 湊は勢いよく封を切り、中から書類を取り出した。


 そこには湊が想像もしていなかった破格のオファーが記されていた。

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【契約要綱:プロジェクト・アステリズムへの招聘】

 1. 委嘱ポスト:専属タクティカル・テストパイロット(Tactical Test Pilot) 弊社が社運を懸けて開発中の次世代自律型防衛シミュレーター「SHIELDシステム」。その中核を担うプロトタイプ・テスター、および防衛技術の平和利用を推進する最高位広報大使の就任を要請いたします。

 2. 処遇および報酬

 契約準備金(Signing Bonus): 金30,000,000円

 年間活動手当(Annuity): 金12,000,000円(月額1,000,000円を毎月支給)

 ※上記に加え、活動に伴う諸経費は全て弊社負担といたします。

 3. 最先端技術環境の供与

 特注ハードウェア: 最新のバイオメトリクス・フィードバック機構を搭載した専用コックピット・コントローラー一式。

 通信インフラ: 弊社専用の低軌道衛星ネットワーク(AS-Link)への無断制限アクセス、および次世代ゲーミングクラウドの独占利用権。

 4. 特別教育支援条項(Scholarship)

 学業保証: 契約期間中、および期間終了後において、国内外を問わず貴殿が希望する大学・研究機関への進学費用(学費・寮費等)を全額免除・保証いたします。

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 別紙には、印刷ではない、万年筆の力強い筆跡で書かれた一条誠の直筆メッセージが添えられていた。


「瀬戸 湊 様

 貴殿がeスポーツの舞台で見せたあの『直感』は、もはや単なる娯楽の領域を超えています。 その稀稀なる才能を、画面の中という閉ざされた世界に留めておくことは、人類にとっての損失であると私は確信しています。

 君の指先には、混迷を極める世界の秩序を塗り替え、守るだけの力が宿っている。 その力を、より高潔な目的―平和という名の『盾』を作るために貸してはいただけないでしょうか。

 詳しい対話の機会をいただけますよう、麻布台のオフィスにて心よりお待ちしております。」

 アステリズム・セキュリティ株式会社 代表取締役社長 一条 誠


 部屋の隅で、PCの冷却ファンが静かに唸りを上げていた。 窓の外には「はるかぜ」から流れる客たちの笑い声が聞こえる。 あまりに穏やかな日常の風景の中、湊の指先は冷たい封筒を手にしながら、考え事している時のいつもの癖で無意識にテーブルをタッピングしていた。



 第2部:天空の巨塔に蠢くもの


 2-1:虚飾の街並み


 麻布台ヒルズ、森JPタワー。その鏡面仕上げの巨塔は、湊が住む下町とは別の重力圏にあるかのようだった。


 洗練されたロビー、床の大理石に反射するみすぼらしいスニーカー。湊は無意識にパーカーのポケットの中で指先を激しくタッピングさせていた。


 地上数百メートルの天空へ向かうエレベーターの中で、湊は耳を打つ気圧の変化に耐えていた。表示パネルの数字が跳ね上がる。速度がゆるやかになったかと思うとエレベータは綿埃のように静かに停止した。


「瀬戸湊様ですね。お待ちしておりました」


 完璧な微笑みを湛えた秘書が出迎える。秘書に案内されて厚い絨毯の上を歩く。重厚なオーク材のドアが開いた瞬間、目の前には東京を一望するパノラマビューが広がっていた。


「ようこそ、湊君! 来てくれて本当に嬉しいよ」

 部屋の奥で、仕立てのいいスーツを纏った男が静かに立ち上がる。一条誠だ。グローバルな事業を展開するアステリズム・セキュリティ社のトップでありながら、瞳には少年のような純粋な熱を宿している。一条は湊のそばへ歩み寄ると、大きな手で握手を求めた。

「先日の決勝戦、あの最終ターン、ラグを計算に入れて相手の死角へ回り込んだ機動。あれは単なるゲームプレイじゃない、一種の芸術だ! 震えたよ、君の指先には未来が宿っている」

 一条の言葉には熱がこもっていたが、なぜか湊はその熱の奥にある違和感を感じ、素直にその言葉を喜べなかった。


 一条の後ろに見える革張りのソファには、二人の人物が彫像のように座っていた。

「一条社長。あまり彼を驚かせないで。初めまして、瀬戸湊君」

 声をかけたのは、取締役CTOの九条涼子だ。美しく整った顔立ち、完璧にコントロールされた微笑は、まるでAIで生成されたかのようだ。彼女の視線は湊の顔ではなく、湊の「指先」をスキャンするように見つめていた。


 その隣に座るがっしりとした体格の男、真壁剛。彼は九条とは対照的に、どこか落ち着かない様子で湊を見つめていた。その微笑みは温かいものの、その奥に嵐の前の静けさを案ずるような複雑な色が混じっていた。


「座ってくれ。君に用意した『新しい世界』について、じっくり話そうじゃないか」

 一条に促され、豪華なソファに深く沈み込む。 窓の外に広がる東京のビル群が模型のように小さく見える。 湊は左耳のイヤホンを外し、ポケットにねじ込んだ。ここには自分が知っている日常の音はひとつも届かないのだと、本能が告げていた。


「湊君、君の目にこの街はどう見える?」

 窓の外に広がる東京の街並みに目を向けたまま、一条は振り返らずに問いかけた。

「きれいだけど、なんだかおもちゃみたいですね。生活感が全然感じられない」

「そうだね。この街に広がっている平和な風景は、あまりにも脆い。虚飾に満ちている」

 一条はゆっくり歩き出し、湊の前にある大きな円形のテーブルを指差した。彼がダブルタップすると、テーブルから青い光が立ち上がり、立体的な世界地図が空中に浮かび上がった。

「今、世界では『力による秩序の崩壊』が加速度的に広がっている。ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルとガザの紛争、そしてアメリカはベネズエラ大統領を拉致して思うままにしグリーンランドにも触手を伸ばしている。その現場に広がっているのは、かつての戦争ような人間と人間のぶつかり合いではない。無人のドローン、自律型AI、そして物理的な距離を無視したサイバー攻撃。これからは兵士の命ではなく『技術の速度』が勝敗を決める、冷酷なハイテク戦争の時代だ」

 一条の瞳には、強い使命感が宿っていた。


「我が社が開発しているのは、この避けては通れないハイテク戦争時代に向けて、人々の生命を守る究極の防衛網『SHIELD(シールド)システム』なんだ。敵の攻撃を瞬時に予測して一滴の血も流さずに無力化するためのシステム。このシステムの開発に君の力を貸して欲しいんだ」


 2-2:SHIELDシステム


 湊は一条の話をうまく飲み込めなかった。自分が熱中していたゲームが国際紛争の解決につながるという話が、あまりに壮大すぎて実感できなかったのだ。


「これからのハイテク戦争はAIが戦場の要となる。しかし、AIは恣意的なアルゴリズムで開発されれば人間の尊厳など意にも介さず冷徹な殺人マシーンになりかねない。魂を持たないAIの暴走を食い止めるには、君のような天才による『創造的な機動』を瞬時に生み出す能力が必要になる。君の操作ログをSHIELDに学習データとして与えることで、どんな最新兵器をも無力化できると、我々は本気で考えているんだ。誰も死なず、誰も悲しまない。そんな世界にしたいんだ。君の指先が、その平和を実現する『盾』になるんだよ」


「すいません、僕わるいから、なんでSHIELDシステムの開発が、誰も血を流さない戦争につながるのか理解できないので、もっとわかりやすく説明してもらえますか」


 一条は空中に浮かぶホログラムを操作し、一つの都市のモデルを表示させながら説明を続けた。

「いい質問だ。湊君、これまでの戦争は『破壊の応酬』だった。だが、SHIELDが目指すのは『戦術的無力化(タクティカル・ニュートラライゼーション)』だ。なぜAIを上回る予測が平和を生むのか、その答えは三つある。


 1つ目は『迎撃』ではなく『飽和防御』による戦意喪失だ。まずAIの先をいく『予測』に基づき、敵が放つ全ての弾丸、全てのミサイルの軌道上に、こちらの防衛ドローンを先回りさせる。これにより敵が何をしても、一発の銃弾すら標的に届かない状況をつくりだす。『いくら打っても絶対に当たらない』と悟らせることで、攻撃者に引き金を引く指を止めさせる。この圧倒的な防御力が、最大の抑止力になるんだ。


 2つ目は『破壊』ではなく『機能停止』への転換。ハイテク戦争においては、敵の『急所』、例えば、敵ドローンの通信アンテナ、戦車の駆動系、司令部の電源、通信バックボーン、中央制御システムの位置をAIで解析し、それらをピンポイントで無力化させれば、相手は無傷のまま、文字通り『何もできない状態』に追い込むことができる。ハイテク戦争の時代に武器を奪われた相手は、もはや戦う手立てを持たない。


 3つ目は 『武力衝突』を『情報のチェス』に置き換えること。これが最も重要だ。湊君の超人的な反応速度を学習データとして学ばせれば、敵が攻撃を開始する前に、その兆候を察知するシステムを実現できる。これにより敵がシステムを起動した瞬間、こちらがその先を読み、包囲を完了させることができる。相手に『撃つ前に負けている』という現実を突きつけることで*一発の弾丸も発射させず、戦う前にチェックメイトを告げる。これが私の言う『血を流さない戦争』の正体だよ」

 一条は湊の目をまっすぐに見つめ、強く言い切った。


「君の指先は、誰かを倒すためのトリガーじゃない。戦場という盤面を支配し、敵に『無駄な殺生を諦めさせる』ためのタクト(指揮棒)なんだ。」


 一条の演説を聴きながら、湊の指先はパーカーのポケットの中で激しくタッピングを繰り返していた。それは極度の不安や不信感を感じたとき、無意識に発動される「拒絶」のサインだった。


 2-3:理想と欺瞞


 湊は俯いたまま、声を絞り出した。

「それ理想論ですよね?」

 一条の眉が微かに動くのを、湊は見逃さなかった。湊は顔を上げ、一条の目をまっすぐ見つめ返す。

「誰も血を流さない戦場というけれど、それって欺瞞じゃないですか。 敵の攻撃を無力化すると言ったって、それは結局相手を圧倒する『力』を持つことですよね。SHIELDシステムが完成すれば、それは世界で一番強い『兵器』になる。僕はただのゲームオタクです。誰かを傷つけたり、殺したりする道具を作る手伝いなんて、したくありません」


 一条の表情から笑みが消えた。部屋の温度が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの静寂。傍らで控えていた九条が口を開こうとしたが、一条がそれを手で制した。


「君の懸念は正しい。そして、その『潔癖さ』こそが、私が君を求めた最大の理由だ」

 一条は一歩、湊に歩み寄る。

「兵器という言葉は確かに強い響きを持つ。だが、包丁は料理を作る道具にもなれば、人を傷つける武器にもなる。すべては『意志』の問題だ。今、この瞬間も世界では、AIを搭載した自律型ドローンが、誰の意志も介在させず引き金を引き続けている。それを止められるのは、同じ次元の速度を持ちながら、なおかつ『犠牲を出したくない』という強い倫理観を持った人間の操作だけなんだ」


 一条は窓の外、夕闇に沈む街を指差した。

「私が作ろうとしているのは『剣』ではなく、文字通り『盾』だ。相手の剣を折り、戦意を喪失させるための圧倒的な防御力。君の『兵器は嫌だ』という純粋な拒絶心が、SHIELDにブレーキをかける。君が参加しないSHIELDは、いつか制御を失い、本物の破壊兵器になってしまうかもしれない。君はそれをわかっていながら世界が壊れていく様を傍観するつもりかい?」

「……」

「君の手を汚してくれと言っているんじゃない。君のその『優しさ』をシステムのアルゴリズムに刻んでほしいんだ」


 一条の言葉は、湊の反論を真っ向から受け止めるものではなく、その反論さえ「必要な要素」として取り込んでしまう、底知れない包容力(あるいは魔力)を持っていた。


 その時、沈黙を守っていた真壁が、ソファから身を乗り出した。彼は湊の視線に合わせて少し腰を落とし、低いが温かい声で語りかけた。

「湊君が不安になるのは当然だ。いきなり世界の命運なんて言われて、頷ける奴の方がどうかしてる」

 真壁は湊の肩に、分厚く硬い掌をそっと置いた。


 2-4:魅惑の提案


「心配はいらない。俺が君のメンター(教育係)になる。システムの扱いも、戦術の組み方も、隣で伴走し全部教えてやる。君は一人で戦うんじゃない。俺たちが、君の成長を全力でサポートする。約束するよ」


 真壁の言葉に、湊の呼吸が少しづつ整っていった。しかし、その安堵を切り裂くように、九条の冷徹な声が響いた。

「謙遜は美徳かもしれないけれど、時間は待ってくれないわ。湊君」

 九条は足を組み替え、鋭い眼差しを湊に突きつけた。

「あなたの決勝戦でのログを解析したわ。あの予測精度、反射神経、あれは選ばれた人間にしか許されない天賦の才。あなたが断れば、代わりはいない。世界はさらなる混沌(カオス)に飲み込まれ、救えるはずの命が失われていく。それでも、あなたは『ただの高校生』という殻に閉じこもるつもり?」

 九条の言葉は、鋭いメスのように湊の自意識を切りつける。 逃げ道を防がれた湊が息を詰まらせた瞬間、一条が穏やかに手を挙げて場を制した。


「九条さん、彼を追い詰めないでくれ。もちろん、最終的な判断は湊君に任せる。我々は君の自由を奪うつもりはないんだ」

 一条は立ち上がり、壁一面のパノラマウィンドウに視線を向けた。


「ひとつ提案がある。結論を出す前に、我々の技術の結晶……最新鋭のシミュレーターに触れてみないか? 君の才能が、デジタルという檻を超え、どれほどの可能性を秘めているのか。それを君自身の手で、確かめてから決めてほしいんだ」

 一条は振り返り悪戯っぽく微笑む。

「君の愛機よりもずっといい『乗り心地』を約束するよ」


 湊は、真壁の掌の温もりと、九条の冷たい言葉、一条の眩しい理想、そしてゲームオタクとして最先端のシミュレータを操縦してみたいという欲望の間で揺れ動いた。

「テストだけなら」


 その一言が、湊の運命を決定づけた。


 一条に案内されて豪華なオフィスを離れ、ビルの深部へと向かうプライベート・エレベーターへと乗り込んだ。麻布台ヒルズの地下深く「レベル・ゼロ」と呼ばれる魔窟にエレベータは吸い込まれていった。


 第3部:傾いた天秤


 3-1:眩耀と日常


「……とにかく、凄かったんだ。麻布台ヒルズの地下、あんな場所に『レベル・ゼロ』なんていう異空間があるなんて」


 湊は、自室の使い古されたゲーミングチェアを激しく回転させながら、身を乗り出して語りました。彼の瞳には、かつて見たことがないほどの興奮が宿っていた。


「最新鋭のテスト機『A-REX』に触れた瞬間、指先から脳まで電気が走ったみたいでさ。自分の意志がそのまま空気に溶け込むような感覚なんだ。一条社長は言ってた。『君の力が世界の平和を創る盾になる』って」


 階下の弁当屋からは、閉店間際の片付けをする小気味よい音が響く。ハルはベッドの端に座り、湊が熱っぽく語る「夢のようなテクノロジー」の話を、最初は「凄いじゃん、湊!」と笑って聞いていた。

 しかし、湊が語れば語るほど、ハルの表情はゆっくりと、影が差すように曇っていった。

「……ねえ、湊」 その声は、湊の興奮を冷ますように低く響いた。

「それって……結局、兵器の開発を手伝わされるってことでしょ?」

「え……?」

「『盾』とか『防御』とか言ってるけど、それって言い方を変えれば、世界で一番強い武器をつくるってことじゃない? 湊、さっき自分でも言ったよね。『自分の意志が空気に溶け込む』って。それ怖くない? 誰かがその機械を使って、湊の知らないところで人を殺すかもしれないんだよ」

「一条社長は、一滴の血も流さないって約束してくれたんだ。戦う前に相手の戦意を奪う、究極の平和のためのシステムだって」

「そんなの虚言だよ」 ハルは膝の上で拳を握りしめた。

「そんな大金を出して、高校生の湊を呼び寄せて……その人たち、本当に信頼できるの? 実は裏でやばいことしてる犯罪組織なんじゃない? テレビのニュースで見るような、ううん、もっと危ない戦争の裏で金儲けしている人たちなんじゃないの?……私、心配だよ」


 部屋を重苦しい沈黙が支配する。PCの冷却ファンの低い唸りが、二人の間に流れる不穏な空気を強調しているかのようだった。


「……正直に言えば、俺も怖いよ」

 湊は視線を落とし、机の上に置かれたアステリズム社からの厚い封筒を見つめた。

「一条社長の話は眩しすぎて、正しいかもしれないけど……逆に足元が見えない。僕がやることは本当に世界を救うことなのか、それとも、とんでもない怪物を産む手伝いなのか……。オファーを受けるべきか、今も決めることができないんだ」

「湊……」

「でも、あのお金があれば、さんざん迷惑をかけたハルのおじさん・おばさんに恩返しができるんだ。どうせ高校を卒業したら働こうと思ってたし、こんなチャンスは2度とないと思う・・・」

「お父さんとお母さんのことは気にしないで。迷惑だなんて全然思ってないし。湊がきてから、うちの中が明るくなったってみんな喜んでる。ずっとここにいてくれていいし」


 窓の外では、街灯が一つ、また一つと灯り始めた。ハルの心配そうな瞳と、一条が提示した抗いがたい「光」。湊は、自分の指先が守るべきものは「世界」という大きな言葉なのか、それとも「目の前の大切な人」なのか、その答えを見つけられずにいた。


 3-2:不惑の決断


 結論を出せないまま1週間が過ぎた。


 いつもなら窓の外から漂っている出汁の匂いも、常連さんとの会話も聞こえない。今日はハルの父親が長野県の農家まで米と野菜を仕入れに出かけたため、弁当屋「はるかぜ」は臨時休業していた。


 夜八時。重い足音とともに湊の部屋に入ってきたハルの顔は、幽霊のように白かった。

「おじさんが、事故?」

 湊の問いに、ハルが力なく頷く。


 高速道路での居眠り運転だという。ここ数年の物価高と高騰する光熱費は「はるかぜ」の経営を圧迫していた。特に弁当屋の命ともいえる米の仕入れ値の高騰が痛かった。常連さんに喜んで欲しいからと、ハルの父である正一は値上げを拒み、人件費を浮かすため朝も晩もなく働き続けた。

 長野まで出かけたのも直接取引をして少しでも仕入れ値を下げたいという思いからだった。しかし、毎日3時間しか寝ていなかったツケが、最悪の形となって現れた。


「右手の骨折だって。お医者さんは、もう重い中華鍋は振れないだろうって」

 ハルの声は震えていた。

「『店をたたむ』しかないかもって、お父さん……」

「うそだろ・・・」湊はハルにどんな言葉をかけていいのかわからなかった。

「そうなったら、私が『はるかぜ』をつぐしかないと思うの。お店をたたむなんて絶対いや」

 ハルの瞳から大粒の涙がこぼれた。

「だって、ハル!大学行って建築家になるんだろ。建築家になって『はるかぜ』を設計して立て直すのが夢っていってたじゃん。店継いだらさ・・」

「だってしょうがないでしょ。お父さんをこれ以上悲しませたくないの」

「じゃあ俺が『はるかぜ』継ぐよ。どうせ高校出たら働くつもりだったし、中退すれば学費もかかんないだろ」

「ダメだよ。湊は自分の好きな道に進まなきゃ」

「いや、もう決めた。俺は・・」


 そのとき、湊の視界の端で机の上に置かれたアステリズム社の「黒い封筒」が、月光を反射して不気味に光った。

「そうだ。何も心配はいらない。全部俺に任せて。きっとうまくいくから」

 湊は「黒い封筒」を持って立ち上がり、絶望に沈むハルの肩にそっと手を置いた。

「え……? 湊、何を言ってるの?」


 湊は微かに微笑む。

「俺は世界を救うよ。もちろん『はるかぜ』もハルの夢も救ってみせる」

 湊は確信していた。一条の言った「犠牲なき平和」とは、今目の前で泣いているハルを救うことなのだと。自分の指先を「盾」に変えることが、ハルの「夢」を守る代償なら、喜んで支払おう。


 彼はポケットの中で、感覚の鋭敏になった指先をタッピングさせていた。 湊は契約書にサインを刻み込んだ。それは瀬戸湊という一人の高校生が、国家防衛という名の巨大な歯車に組み込まれた瞬間だった。



 第4部:鋼の洗礼


 4-1:神経のリンク


「瀬戸湊、リンク・シーケンスを開始します」

 九条の無機質な声が響くと、コックピットを兼ねた球体ポッドのハッチが、空気を吸い込む音と共に密閉された。外界の音は完全に遮断され、湊自身の心臓の音だけが不自然に大きく響く。


「リキッド・コンタクト、開始」

 シートの背もたれから、無数の微細なニードルを備えたナノメッシュがせり出し、湊の背中と後頭部に密着した。 「っ……!」 冷たい衝撃が走る。湊の首筋に、脳波(EEG)と心拍数(HRV)をダイレクトにスキャンするセンサーが食い込む。

 目の前の虚空に、半透過のホログラム・インターフェースが展開された。 そこには、湊の現在のバイタルデータが波形となって踊っている。

 BPM: 112(上昇中) Alpha Wave: 低下 Sweat Index: 0.45(発汗感知)

「緊張しているわね。これではデバイスの解像度に追いつけないわ」 九条の操作により、ポッド内に微細な霧状の物質―アステリズム・リンク専用の神経沈静香(ニューロ・バランサー)が散布された。

「……何、これ」

 肺の奥に染み渡る、金属質な甘い香り。 次の瞬間、湊の視界から「壁」が消えた。 全天球を覆う高解像度OLEDが、湊の脳に「高度5000メートルの空」を直接投影し始めた。

「『アステリズム・リンク』、アクティブ。AIが君の精神状態を最適化(キャリブレーション)する。抗わずに、システムの拍動に身を任せろ」

 真壁の声が聞こえた瞬間、湊の指先に装着された「感圧バイオメトリクス・スリーブ」が、神経系と直結。 0.001ミリ単位の指先の震えが、AIにより「意図」と解釈され、機体の姿勢制御へと変換される。湊が「右に旋回したい」と願うより速く、機体のフラップがわずかに角度を変える。


「あ……」


 自分の境界線が溶けていく感覚に襲われた。 もはや、どこまでが自分の腕で、どこからが機体の翼か判らない。 AIが湊の脳波を読み取り、不安を感じればセロトニン受容体を刺激する信号を擬似的に送る。強制的に「最も冷静な判断ができる状態(コールド・ステート)」へ、精神が書き換えられていく。

 その「全能感」の裏で、湊の心身は悲鳴を上げていた。 実機のフィードバック(反動)は、ゲームとは比較にならないほど暴力的な情報量を持って湊の神経を叩き続ける。

「……速すぎる、情報が多すぎて……指が、頭が追いつかない……!」

 視界に映る空はあまりに青く、しかし指先に伝わる「機体の重み」は、冷酷なまでに現実だった。 この日から湊の右手は、ハルの唐揚げを掴む道具ではなく、数キロ先の標的をミリ単位で射抜くシステムの一部へと変貌していく。

「湊、意識を指先に集中させすぎるな。神経を『機体そのもの』に溶かせ。……来るぞ!」

 真壁の野太い声が、密閉されたコックピット内に響く。 最新鋭の実機シミュレーター「A-REX」。それは、先日体験したデモ機とは似て非なる、剥き出しの怪物を御するような感覚だった。

(……くっ、重い……!)

 画面の中で、湊の操る機体が不自然に揺らいだ。仮想敵機が放つレーザーが機体をかすめ、コックピット全体に激しい振動と、焦げ付くような電子音が走った。

「ミスだ! 姿勢を制御しろ!」

 真壁の叱咤。必死に立て直そうと指先を動かすが、マシンはその繊細すぎる反応ゆえ、湊の「焦り」さえ過剰に増幅してしまう。機体は激しくスピンし、砂漠の地表へと叩きつけられた。


 4-2:泥中の指先


「MISSION FAILED(作戦失敗)」


 モニターに非情な赤い文字が浮かび上がり、湊はシートに体を深く沈めた。全身が、全力疾走したあとのように熱く、重い。

「……おかしい。いつもならこんなミス、絶対しないのに」

 湊は自分の指を見つめた。世界大会を制したはずの「神の指先」が、今はまるで泥を捏ねているかのように鈍く感じられる。

「これはゲームじゃない」 真壁がハッチを開け、湊にスポーツドリンクを差し出す。その顔は厳しいものの、労いの色も混ざっていた。

「ゲームは『入力』に対して常に決まった『出力』を返す。だが、このシステムは君の脳波と直結している。君が『守らなきゃ』と気負えば機体は硬くなり、『怖い』と思えば機体は逃げ腰になる。システムが君の心そのものを映し出しちまうんだ。……この繊細さは、並の兵士なら発狂してしまうレベルだ」


 九条は、強化ガラスの向こうから冷ややかにその様子を観察していた。手元の端末を操作し、湊の失敗データを淡々とスクリーニングしている。

「期待外れね。世界王者の『直感』も、本物の戦場を前にしてはただのノイズかしら?」

「九条さん、まだ二日目だ!」

 真壁が言い返すが、湊にはその声も遠く聞こえた。

 そのとき ポケットのスマートフォンが震えた。ハルからのメッセージ。 『お父さんの手術、無事に終わったよ! 豪華なお弁当つくって待ってるね』

 湊は唇を噛み締め、再び操縦桿を握る。 この怪物を飼い慣らさなければ、ハルの笑顔も、弁当屋の未来も、すべてが泡となって消えてしまう。

「……真壁さん。もう一回、お願いします」

 湊の瞳に、暗い炎が灯った。それは純粋な「勝利への渇望」ではなく、何者にも代えがたい日常を人質に取られた者が抱く、執念の光だった。


「アステリズム・リンク」による強制的な精神同期は、湊の魂を確実に削り取った。

 訓練が終わるたび、湊は這い出すようにコックピットを後にする。神経沈静香(ニューロ・バランサー)が切れた反動で、激しい眩暈と吐き気に襲われ、指先は自分の意志とは無関係に細かく痙攣し続けていた。

「お疲れ様。今日のリンク率は92%……まずまずね」

 九条は、青白くなってベンチに倒れ込む湊には目もくれず、手元のタブレットを冷徹に操作していた。彼女が抽出したのは、湊が極限状態で見せた「回避の癖」と、弾道予測を外された際の「思考の空白」。つまり、湊という人間の脆弱性が全て詰まった生体データだった。

 湊がふらつきながら、壁を伝って更衣室へ消えていく。その背中を見送る九条の瞳は何の光も届いていないかのように漆黒だった。


 彼女は一人オフィスに戻り、デスクの中央にあるプライベート・コンソールを起動し、アステリズム社の基幹システムから独立したVPN回線を立ち上げた。

「……ログの抽出、完了したわ」

 九条は、虚空に向かって低く呟く。 指先が画面をスライドすると、湊が極限状態で見せた心拍数の跳ね上がり、恐怖による0.02秒の反応の遅れ――「アステリズム・リンク」が暴いた彼の魂の脆弱性が、パケットデータとなって暗黒のネットワークへ放流された。

 画面の向こう側から、テキストメッセージが返ってきた。

『驚異的な精度だ。この調子で報告を続けてくれ』

「湊君の苦痛は、そのまま最高の教師データになるはず。彼は今、自分の存在が削られることが。どのような結果を招くか想像もしてないわ」

 九条は、湊の脳波グラフが激しく乱れる瞬間のログを、愛おしむように、あるいは冷酷に切り捨てるように見つめた。

「このデータが、本当の新時代の『英雄』を生むのかしら」

 九条は短く息を吐き、モニターに映る自分の顔を見つめた。氷のように冷たい表情のまま口元だけ微笑が浮かんでいた。

 通信が切れると、部屋にはサーバーの駆動音だけが残された。 九条は再び無表情な仮面を被り、何事もなかったかのようにデスクを離れた。


 4-3:希望の零落


「……まただ」

 湊の指は、屈辱に震えていた。 モニターには今日20回目の『MISSION FAILED』の文字。A-REXの過酷なフィードバックにより、湊の腕は鉛のように重く、神経は逆撫でされたようにささくれ立っていた。

「クソ……なんで……! 」

 湊は操縦桿を叩き、コックピットの中で顔を覆った。どんなに高機能な機体も、自分の指が思い通りに動かなければ、ただの金属塊にすぎない。ハルの笑顔、おじさんの手術、一条社長の期待。それらすべてが動かない指先を通じて、こぼれ落ちていく恐怖に、湊は押し潰されそうだった。

「一旦降りろ。頭を冷やせ」

 真壁がハッチを開け、力強い腕で湊をコックピットから引きずり出した。 床に座り込み、自らの指を見つめて震える湊の前に、真壁はドカッと腰を下ろした。

「……真壁さん。僕、やっぱり向いてないのかも。ゲームの才能なんて、本物の戦場じゃ、ゴミでしかない」

 湊の自嘲気味な言葉に、真壁は怒鳴ることもせず、ただ静かに応じた。

「ゴミなもんか。お前の指は、まだ『現実』の重さを知らないだけだ。いいか、湊。お前がこれまでやってきたゲームは、誰かが作った『答え』を探す作業だった。だがSHIELDでは、お前自身の命の鼓動が答えになる」

 真壁は湊の細い手を、自分の大きな掌で包み込む。

「指先だけで戦おうとするな。腕、肩、背中、そして心臓。全部をつなげろ。失敗したログは、お前が『人間』である証拠だ。AIなら1回で覚えるが、人間は泥を舐めた分だけ、AIには予測できない『粘り』が生まれる」

 真壁はポケットから、使い古された携帯ゲーム機を取り出し、湊に手渡した。

「俺が昔使ってたやつだ。ボタンの戻りが悪いし、画面も荒い。でも、俺にはこれが世界一思い通り操作できるゲーム機なんだ。わかるか?湊、機械に合わせるんじゃない、機械をお前の体に馴染ませるんだ。明日も、明後日も、俺が隣にいてやる。お前が『盾』になるまで、俺は絶対に離れない」

 真壁の無骨な、しかし嘘のない言葉。 その言葉の熱が、湊の凍りついた神経をゆっくりと解かしていいった。

「もう一回、旋回の練習……付き合ってもらえますか」

「ああ。夜明けまでだって付き合うさ」

 真壁が湊の背中を、バチンと力強く叩いた。


 4-4:自然の滋味


 麻布台ヒルズのメインゲートをくぐり、桜麻通りを抜けて日比谷線「神谷町駅」へ向かう。湊は震える手でスマートフォンを取り出した。 ハルからの『おつかれ!』というスタンプをぼやけた視界で見つめながら、自分が守ろうとしているものが、指の隙間から砂のようにこぼれ落ちていく錯覚に襲われた。


 訓練で磨り減った精神と、機械に侵食されかけた肉体を抱え、湊は麻布台の無機質な空気とは対照的な、夕餉(ゆうげ)の匂いが漂う下町へ。


「はるかぜ」の裏口を開けると、湯気に包まれたハルの笑顔が迎えてくれた。

「おかえり、湊! 顔、真っ青だよ。大丈夫?」

 ハルの声を聞いた瞬間、緊張の糸がぷつりと切れた。食卓に崩れ落ちるように座り、震える指先を隠すように握りしめた。

「俺、やっぱりダメかも。最新のマシンは俺の心を読み取って無理やり落ち着かせようとするんだ。でも、それが逆に怖くて。指が、自分のものじゃないみたいなんだ。機械に依存すればするほど、自分が消えていくみたいで」

 湊は、誰にも言えなかった弱音を吐き出した。AIに最適化された「効率」の世界では、迷いや弱さはただのノイズとして処理される。

「湊は、ずっと戦ってるんだね」

 ハルはそれ以上何も聞かず、小さな小鉢を湊の前に置いた。

「これ、群馬のおじいちゃんから送られてきたの。農薬も化学肥料も一切使ってない、土の味がする本物の野菜。味付けも、塩と少しの出汁だけ。これ食べると、きっと元気が出るよ」

 力なく箸を伸ばし、その透き通った蕪(かぶ)の煮物を口に運んだ。

「――っ」

 衝撃が走った。 それはアステリズム・リンクが脳に直接送り込んでくる強烈な電気信号と全く異質なものだった。舌の上で優しく解ける繊維、じわじわと喉の奥に広がる大地の滋味。理屈や数値では説明できない、複雑でありながら調和のとれた「生命」の味が、直接細胞に染み渡っていく。

「……何これ。うまっ!」

「でしょ? おじいちゃんが言うには、自然が何万年もかけて作ったバランスには人間は勝てないんだって。野菜が本来持っている良さを引き出して寄り添うのが一番なんだって」

 ハルの何気ない言葉が、湊の脳内に閃光のように響いた。

(寄り添う……?)

 今まで自分は、AIに精神を委ね、機械の圧倒的な処理能力に従おうとしていた。それは「依存」であって「同調」ではなかった。機械が提示する最適解に自分を無理やり当てはめるのではなく、自分の中にある生身の感覚―この料理のようなアナログな「生命の揺らぎ」を機体に流し込むべきではないか。

「ハル……ありがとう。俺、機械に頼りすぎて、自分の感覚を信じられなくなってたのかもしれない」


 湊の瞳に、わずかに生気が戻った。

「難しいことはわかんないけど、湊の指は世界を救うんでしょ? だったら、もっと自分の指を好きになってあげなきゃ。機械の一部じゃないんだから」

 ハルはそう言って、湊の茶碗に炊きたての米を山盛りにした。



 第5部:深淵の同調


 5-1:冷徹な背徳


「……排除、完了」


 湊の呟きとともに、モニター上の仮想敵機5機が一瞬の交差で同時に火球と化した。 以前のような「必死の操作」ではない。その指先は鍵盤の上を滑るピアニストのように優雅であり、最小限の動きで最大の結果を導き出した。


「信じられん。G負荷を逆利用して、AIの予測変換の『外側』へ回り込んだのか……」


 真壁がコンソールの数値を二度見して絶句する。湊の脳波は、極限の集中状態を示す「ゾーン」を安定して維持し、機体とのリンク率はかつてない98%に達していた。


 もはや湊にとって、コックピットは窮屈な揺り籠ではなく、無限の自由を謳歌できる広大な空そのものとなっていた。湊は無意識のうちに、一条の掲げる「理想の盾」を体現する、完璧な刃と化していたのだ。


 その様子を、九条が強化ガラスの向こう側から見つめていた。


 彼女は湊の驚異的なスコアを見つめながら、表情一つ変えずに自らのスマートフォンを取り出した。その洗練された指先が、暗号化されたチャットアプリを叩く。


『核心データ、抽出完了。SHIELDの論理アルゴリズムおよび、最適化された個体「M」の操作パターンを送信する』


「……湊君。あなたは素晴らしいわ」


 九条は独りごち、赤い口角をわずかに上げた。 「あなたが強くなればなるほど、あなたを撃ち落とした時の『果実』は甘くなる」


 その視線の先で、湊は何も知らずに、ハルの顔を思い浮かべながらシミュレータのトリガーを引き続けていた。自分が守ろうとしている盾が、裏側から蝕まれていることなど、夢にも思わずに。


 5-2:10日間のサチュレーション


「本日より、世界5拠点同時接続による戦術シミュレーションを開始します」

 真壁の冷徹な号令とともに、湊の視界に世界地図が展開された。 ロンドン、ニューヨーク、上海、シドニー。アステリズム社が誇る各支社のトップパイロットが、それぞれの都市から仮想戦場へとログインしてくる。


 今回のミッションの舞台は、政情不安定な「某国」の首都。 湊の目的は、無数のドローンを従えて市街地を突破し、軍司令部の中央システムを無力化すること。ただし、一条のポリシーである「民間人の犠牲(コラテラル・ダメージ)ゼロ」が絶対条件として課されていた。


「湊、ロンドンの『アーサー』がお前のバックアップだ。ニューヨークの『スミス』と上海の……『リン』が、お前の首を獲りに来る」

 真壁が無線越しに状況を伝えてきた。湊は深く息を吐き、A-REXの操縦桿に指を添えた。


【演習1〜3日目】

「フェーズ・ブルー、演習開始(エンゲージ)」

 九条の冷徹な号令と共に、目の前のモニターが戦火に包まれた某国の首都へ切り替わった。世界5拠点から接続された精鋭が、戦場でバトルを繰り広げる。

「湊、右だ! ニューヨークの重武装機が来るぞ!」

 アーサーの怒声が響く、湊の指先はかつてない重圧に固まっていた。 ニューヨーク支社のスミスが操る機体は、民間人が避難を急ぐ大通りを平然と機銃掃射し、その爆風を隠れ蓑にして突進してきた。さらに、上海チームは、市民が身を寄せる病院の屋上に狙撃ドローンを配置し、湊が反撃できない「死角」から正確に弾丸を撃ち込んできた。

「汚ねぇ奴らだな、こんな奴ら相手にコラテラルダメージ・ゼロなんて無理だって・・・」

 湊は歯を食いしばり、照準を合わせる。一条から叩き込まれたコラテラルダメージ・ゼロが枷となり、湊が従えていたドローン群は次々被弾して墜落していく。

「アーサー、フォローを頼む!」 「ダメだ、湊! こちらも上海の別働隊に押さえられている。……おい、避難車両が邪魔だ、どかせ!」

 ロンドンのアーサーも焦りから機動が荒くなり、連携はバラバラ。画面には非情な赤い文字が躍り続ける。


『MISSION FAILED:CIVILIAN CASUALTIES DETECTED(民間人犠牲者発生)』


 10回目の失敗。湊の脳波は危険域まで跳ね上がり、「アステリズム・リンク」が強制的に介入を強めた。冷徹なAIの声が、湊の耳元に響く。

『論理的最適解を提示。ドローンの残存率維持を優先せよ。民間人車両を「遮蔽物」として利用し、上海の狙撃ポイントを排除。それが唯一のクリア・ルートです』

(そんなこと、できるわけない。でも、この機体を失えば、ミッションそのものが……)

 極限の疲労とシステムから流し込まれる「効率」という名の毒。湊の指先が、痙攣するように動き「Obey the AI(AIの判断に服従)」スイッチを押し込んだ。

 湊の瞳から光が消えた。 AIは避難車両の列が途切れるのを待たず、その直上を低空飛行で強行突破。上海の狙撃機を引きつける囮として、民間人のバスを盾にする機動を取った。

 爆発音が響き、仮想空間の路上に黒煙が上がった。民間人の犠牲を示す警告灯が真っ赤に点滅したが、湊の機体は無傷で上海の拠点を壊滅させた。


『MISSION COMPLETE』


 ハッチが開いた瞬間、一条の怒号が地下室に響き渡りました。

「湊!!」

「君は今、何をした!? 私が求めたのは、力でねじ伏せる勝利ではない! 民間人を盾にするなど、卑劣な独裁者のやることだ。君の指先は、命を守るためにあると言ったはずだぞ!」

「……でも、そうしないと、勝てなかったんです。AIはそれが最適解だと……」

「AIに魂を売るな!」 一条は湊の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。

「勝てばいいというものではない。手段を間違えれば、それはただの虐殺兵器だ。今日の君は、私が最も嫌う『兵士』そのものだった」

 一条は失望を隠さず、部屋を去っていった。 独り取り残された湊は、激しく震える自分の指先を見つめた。AIに屈服して手に入れた「勝利」。ハルの手料理で取り戻しかけた「生身の感覚」は、冷徹なシミュレーションの嵐の中、再び深い闇へと沈んでいった。

 レベル・ゼロには、電子機器の排気音と湊の荒い呼吸だけが残された。


 5-3:冷酷な汚染


 その時、背後から音もなく人影が近づき、湊の肩に冷たい手が置かれた。いつもの冷徹な仮面を脱ぎ捨てたかのような慈愛に満ちた表情の九条が、現実味のない笑みを浮かべて立っていた。

「一条社長は理想が高すぎるのよ。あなたは間違っていないわ」

 彼女は怯える湊の隣に屈み込み、子供をあやすようにその震える手を包み込んだ。

「いい、湊君。戦場で最も価値があるのは、一条さんが語るような『美しい絵空事』ではなく、確実な『結果』なの。あなたがAIの判断に従ったのは、あなたが誰よりも聡明で、このシステムの真の力を理解している証拠よ」

「でも民間人を犠牲にするなんて、僕は……」

「それは『過程』に過ぎないわ。SHIELDが完成して世界が安定すれば、今日の犠牲なんて統計上の誤差でしかなくなる。一条社長には、完成した完璧な結果だけを見せればいいの。それまでは、私があなたの庇護者になるわ」

 九条は湊の耳元に唇を寄せ、毒を流し込むように囁いた。

「怖がらなくていい。もっと深く、システムの海に沈みなさい。あなたの良心が痛むなら、その痛みさえAIに預けてしまえばいい。A-REXの同調(シンクロ)レートをあと5%引き上げれば、あなたは何も感じなくて済む。ただ、勝利という名の純粋な快感だけが残るわ」

 九条の指が、湊の首筋にあるアステリズム・リンクの接続端子をなぞった。湊の瞳から、戸惑いが消え、代わりに虚ろな安堵が広がっていく。

「何も感じなくて済む?」

「ええ。あなたは最強の盾になればいい。それが結局世界を守る一番の近道だと思わない?」

 湊の心は錯乱していた。

「もっと……もっとリンクを深くしてください。僕の魂が何も感じなくなるまで」

 九条は満足げに目を細めた。彼女の背後にあるモニターには、暗号化された通信ラインが静かに明滅していた。そのネットワークを通じて「湊の精神汚染データ」がデータベースに刻々と蓄積されていった。

「湊君。さあ、もう一度始めましょう。今度は……あなたの心を、完全に消し去るために」

 九条の操作により、再びコックピットが閉鎖された。散布される神経沈静香(ニューロ・バランサー)の濃度は、安全基準を遥かに超えていた。暗闇の中、湊の心拍数は不自然なほど一定になり、彼の意識は人間としての「情」を捨て、冷徹な「演算装置」へと堕ちていった。


【演習4〜7日目】

 演習4日目。地下のシミュレーションルームに現れた湊の瞳からは、生気が完全に失われていた。九条による過剰な「アステリズム・リンク」の調整は、彼の情動を氷のように凍りつかせ、ただ「目的」だけを見据える冷徹な計算機へ変えていた。

「リンク率、99%固定。……始めて」

 湊の呟きと共に始まった演習で、ロンドンのアーサーは戦慄した。湊の操るドローン群は、味方との連携すら無視し、民間人の暮らす住宅街を編隊飛行し、最短・最速の軌道で敵を殲滅していく。

「湊!コラテラルダメージ・ゼロを忘れるな!」パートナーのアーサーが叫ぶ。

 アーサー機が敵機に囲まれる絶体絶命の事態に陥っても、目もくれず戦場を恐るべきスピードで駆け抜けていく。

「ダメだ!もはやこいつは人間じゃない」と、アーサーは湊の行動に恐怖を抱いた。


 五日目の正午、予期せぬ事態が起こる。


「 何だ、今の衝撃は!」

 真壁の叫び声。某国の演習用データセンターが、現地のテロ組織による爆破攻撃を受け、電源を喪失したのだ。予備電源が作動するまで、最新のAIアシストと「アステリズム・リンク」による精神誘導が断絶した。

「AIオフライン! 湊、マニュアル(手動操作)に切り替えろ!」

 システムの支えを失った瞬間、湊の機体はただの鉄の塊に成り下がった。精神をAIに委ねきっていた湊は、剥き出しの「戦場」の情報量に翻弄され、ニューヨークの重武装ドローンに次々と撃墜されていく。モニターに溢れるノイズと、激しい拒絶反応。

(暗闇だ、何も、見えない!)

 パニックに陥る湊の耳に、かつて真壁が言った言葉が、激しい耳鳴りを伴って響いてきた。

『機械に合わせるな、機械を自分に馴染ませろ。……お前が人間である証拠を見せろ!』

 湊は、激しく震える自分の指先を見つめた。脳裏に浮かんだのはハルが振る舞ってくれたあの滋味深い料理だった。自然が持つ計算不可能な調和。理屈を超えて心に届く、あの感覚。

「そうだ。AIに操られちゃいけない。僕は僕でありつづけなくちゃいけない」

 湊は目を閉じた。AIの予測円を無視し、バイオ・インターフェースを通じて流れ込む生(なま)のノイズ―「風の抵抗」「熱源の揺らぎ」「敵兵の殺気」を、肌で直接感じようと試みた。

 次の瞬間、湊の指が滑らかに動き出す。

 ニューヨークの重武装機が空を制圧しているなら、空を飛ぶ必要はない。湊は最短ルートを捨て、ドローンをあえて汚水が流れる暗い下水道や、崩落したビルの隙間へ潜り込ませた。それはAIの理論上「最も非効率」とされるルートだったが、敵のレーダーからは完全に消える「不可視の道」だった。

「見えた!」

 湊の呟きと共に、彼の指先が「戦場の呼吸」を捉えた。

 まるで影が街を這うように、湊の機体は一発の銃声も立てず、敵司令部の通信アンテナを次々と物理的に切断していく。盲目となった上海チームが混乱する中、湊のドローンは路地裏から音もなく現れ、敵の弱点だけを正確に突いた。

「なっ……なんだ、あの動きは! 物理演算を無視しているのか!?」

 上海のパイロットたちが悲鳴を上げた。ロンドンのアーサーが追いつけないほどの速度。しかしそれは機械の出力によるものではなく、湊が「敵が次に動く場所」を、殺気の揺らぎからあらかじめ察知しているゆえの速度だった。


「犠牲者、ゼロ。……目標、沈黙」


 AIという「盾」を失い、自らの「生身の感覚」を機体に溶け込ませた湊。 モニターを見つめる九条の顔から余裕が消え、真壁は震える拳を握りしめた。

 湊は今一条が求めた「理想」と、真壁が教えた「野生」、そして自分自身の「才能」を、一つの完成形へと昇華させようとしていた。


 5-4:盾のワルツ


【演習8〜10日目】

「ロンドン機、大破! アーサー、戦線離脱!」

 真壁の悲痛な報告がコックピットに響いた。ニューヨークと上海の精鋭チームが組んだ強引なまでの挟撃。パートナーを失った湊のドローン群は、包囲網の真っ只中で孤立無援となった。

 しかし、湊の心は凪(なぎ)のように静かだった。

「アーサーさん、ここは僕に任せて次のミッションに備えてください」

 湊の感覚は、すでにコックピットという物理的な箱を脱ぎ捨てていた。 かつてのようなAIへの「依存」も、マニュアル操作による「必死さ」もない。今の彼は、数キロ先に展開する数百機のドローン一台一台を、自分の「指先」そのものとして感じていた。

(風が吹いている……。瓦礫の影に、怯えている敵の鼓動がある)

 湊は目を閉じたまま、指先をピアノを弾くように微かに揺らす。 一条が課したコラテラルダメージ・ゼロという呪縛は、もはや重荷ではなく、彼にとっての「美しい秩序」へと変わっていた。逃げ惑う民間人の群れを、湊のドローン群はまるで母鳥が雛を守るように包み込み、敵の弾道をミリ単位の機動で逸らしていく。

(敵を殺す必要はない。ただ、彼らの『戦う意志』を奪えばいいだけだ)

 湊の心にあるのは、怒りでも冷徹さでもなく、ただ「静かな確信」だけだった。ハルの料理が教えてくれた、自然の調和。あの滋味のように、戦場という名の不協和音の中に、湊は「平和」という旋律を書き込んでいった。


 湊の指先がバイオメトリクス・スリーブの上を「撫でる」ように動く。 ニューヨークの重武装ドローンが、火力を一点に集中させて湊を焼き払おうと迫る。同時に、上海の狙撃機が退路を完全に封鎖。コントロール不能にしようとジャミングを仕掛けてくる。通常ならここでチェックメイトだ。


 だが、湊の視界には「別のルート」が見えていた。

 彼の視界の隅、広場の一角で、戦火を知らず無邪気に遊ぶ子供たちの姿がレンダリングされていた。敵はその広場を「合理的な移動経路」として湊を追い詰めようとしている。

(あそこを戦場にはさせない。……あの子たちの頭上を、弾丸が飛ぶなんて許さない)

 湊の思考が機体へダイレクトに流れ込む。 あえて広場とは逆方向、敵が最も警戒している強固な防衛陣地へ、単機で突っ込んだ。

「正気か!? 自殺行為だぞ!」 上海のパイロットが驚愕の声を上げる。 湊のドローンは、ジャミングを避けて建物の壁面を垂直に駆け上がり、重力限界を超えた鋭角なターンを繰り返しながら、敵の照準を「誘い」始めた。

 それは、自分自身を巨大な囮にする、狂気じみた機動だった。 ニューヨークの全火力が、そして上海の全てのセンサーが、湊という一点の光に吸い寄せられる。敵機が広場から遠ざかり、湊を追って路地裏へと雪崩れ込んだその瞬間。

(……今だ)

 湊は、自機のドローン・スォームの半分を盾にして敵の猛攻を耐え凌ぎながら、密かに分離させていた一機の小型スカウト機を、最短距離で軍司令部の中央システムへと滑り込ませた。

「チェックメイト」

 湊が小さく呟くと同時に、司令部の全ての電子ロックが解除され、システムのダウンを示す青い信号が戦域全体に広がった。


「信じられない。たった一機でニューヨークと上海の全軍を『誘導』したのか? あの地獄のようなプレッシャーの中、民間人の子供一人にさえ、銃口を向けさせず……」モニターを見つめるロンドンのアーサーが、呆然と漏らす。


「これだ……これこそが私の見た夢だ」

 一条は震える手でモニターを見つめていた。彼が理想として掲げた「犠牲なき平和」が、今、目の前の少年の手によって現実の形を成した。湊の動きは暴力ではなく、救済の芸術に近い。一条は、自分の選択が正しかったことを確信し、法悦に近い表情を浮かべていた。


「あいつ、化け物になりやがった……」

 真壁は、安堵よりも先に「恐怖」に似た戦慄を覚えていた。自分が教えた「機械を自分に馴染ませろ」という言葉を、湊は遥かに超える次元で達成していた。真壁の目には、湊がもはや人間と機械の境界線上に立つ「危うい神」のように見えていた。


「……計算外ね」

 九条は、唇を噛み締めながらスマートフォンの画面を凝視していた。

 演習を終え、コックピットのハッチが開くと、湊の体から白く細い蒸気が立ち上った。 極限まで熱を帯びたバイオ・インターフェース。しかし湊自身は、憑き物が落ちたような、清々しくも虚ろな表情で一条を見上げていた。


「社長……誰も、血を流しませんでしたよ」

 一条はその言葉に深く頷き、湊の肩に手を置いた。

 その背後にいた九条はスマートフォンの画面を隠した。

 そこには『データは全て喰った。瀬戸湊の「優しさ」という名の致命的な欠陥、しかと見届けた』とのメッセージが表示されていた。



 第6部:最終テストへの招待状


 6-1:成層圏のチェス


「最終テストを開始する。コードネーム『暁の盾(ドーン・シールド)』。これはシミュレーションではない―実戦と同等の演算強度で行われる、これがSHIELDシステムの最終証明になる」

 真壁の乾いた声が、コックピットに響く。


 視界が展開されると、そこは熱帯の湿った空気が漂う島嶼部。巨大な隣国「大陸連邦」の武力侵攻を受け、炎に包まれる自治区「東和島(とうわじま)」の惨状が、リアルな4K映像でモニターに映し出された。


「……ひどい」 湊は絶句した。これまでの演習とは明らかに「空気」が違う。大陸連邦のドローン群は、民間人の避難ルートを意図的に破壊し、パニックに陥った群衆を「盾」にして前進を続けていく。

「大陸連邦、弾道ミサイル発射を確認。着弾まで残り180秒」

 真壁の乾いた声が響くと同時に、湊の視界には水平線の彼方から昇る数条の白煙が映し出された。大陸連邦は、SHIELDシステムの限界を測るかのように、ハイテク兵器のみならず、旧来の暴力的破壊―飽和ミサイル攻撃と戦略爆撃機による焦土作戦を並行して開始したのだ。


「……全部、落とす」


 湊はコントロールパネルを瞬時に切り替え、成層圏を超えて衛星システムにログインした。宇宙の目が捉えた上空の戦況を即座にAIで解析、SHIELDを構成する数百の迎撃ドローンを「網」のように展開した。 マッハ5で飛来する大陸間ミサイルの弾道予測円を、湊はアステリズム・リンク越しに直接掴む。

「軌道修正……迎撃ポイント、ロックオン」

 ドローンが放つ高出力レーザーと運動エネルギー弾が、大気圏再突入を開始したミサイルの側面に接触。爆発の光が空を白く染めましたが、破片は計算通り海へと沈んだ。

 さらに上空、爆撃機B-55の編隊が絨毯爆撃の態勢に入ったのを湊は見逃さなかった。湊はそれを「撃ち落とす」のではなく、自立型ハッキング・ポッドをエンジン排気口付近の通信アレイに吸着させた。

(システム、侵入……。火器管制(FCS)を上書き)

「え……?」 爆撃機のパイロットが異変に気づいたときには、爆弾倉のハッチは強制的にロックされ、機体は自動操縦で東和島から北へ180度、強制回頭させられていた。


 6-2:情報汚染の誘導


 島の内陸部では、大統領が立てこもる臨時庁舎に、大陸連邦の精鋭歩兵部隊「黒牙(ヘイ・ヤー)」が迫っていた。彼らの目的は大統領の拉致だ。綿密なスパイ活動により大統領の居場所は丸裸にさせられていた


 湊は、歩兵たちのヘルメットに内蔵されたタクティカル・無線システムを乗っ取る。

「アルファ1より全隊へ。敵の待ち伏せを確認。目標は偽装だ。ルートを東、座標33-05へ変更せよ」

 湊がAIで合成した「中隊長の声」が、兵士たちの耳元で響く。最新鋭の暗号通信を逆手に取った情報汚染。兵士たちは疑うことなく、本物の庁舎とは真逆の方向―湊があらかじめドローンで偽装工作を施した、廃墟の古いトンネルへ誘導する。

 トンネル内に足を踏み入れた瞬間、湊は入り口と出口を遠隔操作で爆破して封鎖。 「ガス、散布」 非致死性の催涙・睡眠ガスが充満し、精鋭部隊は一発の弾丸も撃つことなく、泥のように眠りについた。

「大統領の確保、阻止に成功。敵歩兵隊……全員、生存したまま拿捕」


 大統領拉致を防いだ湊の次なるミッションは、敵国の軍司令部となっている旗艦の無力化だ。

 巨大なイージス艦が水平線に見えたとき、湊の集中力は極限に達していた。あと一歩。艦の通信システムをジャックし、旗艦を無力化すれば、この悪夢は終わる。


 旗艦の対空砲火を潜り抜けようとしたその瞬間、湊の背筋に冷たい「殺気」が突き刺ささった。

「……ッ!?」

 レーダーに映らない死角、雲の切れ間から、漆黒のドローンスォームが彗星のような速度で降下してきた。それはこれまでの「大陸連邦」の無骨なAI機動とは明らかに違う、しなやかで、かつ残酷なまでに急所を突く「意志」を持った動きだった。


 6-3:黒い翼


 黒いドローンが、湊の死角から音もなく肉薄する。


 湊のドローンが、これまで一度も許さなかった「直撃」を受け、火花を散らす。

「誰だ……!」

 黒いドローンの群れが、湊の機体を取り囲むように円陣を組む。 その機動は湊の回避パターンの癖」を完全に先読みしたものだった。湊が右に逃げることを知っているかのように、弾丸が先回りして空気を切り裂く。

 空は燃えるような紅に染まり、数千のドローンが交錯する戦場は、もはや人間の視認能力を超えた「情報の嵐」と化していた。

 湊の操るSHIELD部隊に対し、リウ・ハオランの黒いスォーム(群れ)は、まるで影そのものが牙を持って襲いかかるような、禍々しい機動を見せる。

「……なんなんだ、こいつは!」

 湊はバイオ・インターフェースを通じて、激しい「違和感」に襲われた。 自分が右へ回避しようと筋肉が動くコンマ数秒前、敵の弾幕がすでにその場所を埋めている。自分が得意とする「死角へのダイブ」を試みれば、まるでそこに獲物が来るのを知っていたかのように、黒いドローンが先回りして待ち構えている。

 それは偶然ではなかった。 過去の演習により蓄積された湊のバトルログをもとに、湊が恐怖を感じる瞬間の脳波、指先が微かに震える癖、そして「誰も傷つけたくない」という倫理観が生む一瞬の迷い、そのすべてがデータ化されAIにより完全解析されていたのだ。

 湊は「過去の自分」と戦っているようなものだった。

 湊のSHIELDは、その「完璧すぎる防御」ゆえに、敵機の放つ予測不能な「ノイズ」に翻弄され、一機、また一機と翼を折られていった。

「湊、落ち着け! 敵のペースに呑まれるな!」 真壁の叫びも、今の湊には届かなかった。 逃げる。ただ逃げることしかできない。最強の「盾」だったはずの湊が、空中で黒い影に追い回される哀れな獲物へと成り下がっていた。

 その時、湊のメインモニターに緊急アラートが走った。

「……ッ!? 民間船が!」

 視界の端、海上を逃走する一隻の貨物船が映し出された。そこには、甲板で救助を待つ女性や子供たちの姿が鮮明に見える。そして、その船の真上に、敵の真っ黒いドローン群が死の雨を降らせようと急降下していく。

(……助けなきゃ。あそこに行けば、間に合う!)

 湊は一条の教えを、ハルの願いを胸に、迷わずその貨物船へと機体を向けた。敵旗艦(イージス艦)の対空射程圏内に深く踏み込む「死のルート」であることも顧みず、彼は最短距離で加速。

 しかし、湊が貨物船の直上に到達した瞬間、 船の映像がデジタルノイズと共に激しく歪み、消滅した。

「え……?」

 そこにあるのは、波一つない静かな海面だけ。 敵パイロットが仕掛けた「視覚情報の汚染(ディープフェイク)」。湊の「優しさ」というバイアスを突き、彼を殺傷圏内へと誘い出すための、精巧な虚像だった。

「チェックメイトだ、瀬戸湊」

 敵パイロットのリウ・ハオランによる冷酷な宣告と共に、海上に鎮座するイージス艦から、数発の艦対空ミサイルが発射された。 逃げ場のない「死の罠」に飛び込んだ湊のドローンは、もはや回避する演算能力すら残っていなかった。


 ドォォォォン!!


 爆発の衝撃がバイオ・インターフェースを通じて、湊の全身を打ちのめす。 視界が真っ赤に染まり、システムが次々とダウンしていく。


『MISSION FAILED:PRIMARY UNIT DESTROYED』


 ポッドのハッチが開き、冷たい空気が流れ込んだ。湊は汗と涙にまみれ、激しく痙攣する指先を見つめたまま、動くことができない。

「僕は、誰も、守れなかった……」

 ガラス越しの指令室。一条は無言で顔を伏せ、九条は冷徹な眼差しで絶望に沈む湊の背中を見つめていた。 最強の盾が、たった一振りの「悪意に満ちた矛」によって、粉々に砕け散った瞬間だった。

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ロスト・シグナル 井上隆文 @Takafumi1130

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