第1章 青きドナウの夜にて

ウィーンの夜は、どこか

遠い記憶を呼び起こす。

 玲奈は宮殿の大広間に立ち、

天井から降り注ぐシャンデリアの

光を見上げた。金色の粒が、

深い群青のドレスに静かに落ちて

いく。胸の奥が、わずかに震えた。


 ——この場所に戻ってくるなんて、思ってもみなかった。


 舞踏会のざわめきは、

まるで遠い波音のようだった。

 ワルツの前奏が流れ始めると、

空気がひとつに溶け合う。

 その瞬間、背後から聞き慣れた

声がした。


「玲奈。相変わらず、

ここが似合うね」


 振り返ると、アルフレッドが

立っていた。

 幼い頃から変わらない穏やかな

笑み——けれど、どこか影が

差しているようにも見える。

 世界的大富豪となった彼の姿は、

周囲の視線を集めていたが、

本人は気にも留めていないよう

だった。


「久しぶりね、アルフレッド。

こんな形で再会するなんて」


「僕も驚いてるよ。でも……

最後のワルツは、君と踊り

たかった」


 “最後”という言葉に、

玲奈の心がかすかに揺れた。

 問い返そうとしたが、

アルフレッドは手を差し出し、

微笑むだけだった。


 やがて、楽団が「美しき青き

ドナウ」の主題を奏で始める。

 玲奈は静かにその手を取った。


 ステップを踏むたび、記憶が

ほどけていく。

 幼い頃、ドナウ川のほとりで

二人で見た夕暮れ。

 初めてワルツを教えてくれた日の、あの優しい手の温度。

 そして——言えなかった想い。


「玲奈」


 アルフレッドが小さく囁いた。

 その声は、音楽に溶けてしまい

そうなほど弱かった。


「もし……僕に何かあっても、

君ならきっと大丈夫だ」


「どういう意味?」


 問いかけた瞬間、アルフレッドは

ふっと微笑んだ。

 まるで、何かを覚悟した人の

ように。


 曲が終わると同時に、

彼は玲奈の手をそっと離した。

 その温もりが消えるのと同時に、

胸の奥に冷たい予感が落ちる。


 ——この夜が、すべての始まり

だった。


 後に玲奈は知ることになる。

 アルフレッドの胸元に残されて

いた紙片。

 そこに記されていた言葉。


 “青きドナウの旋律を辿れ”


 その暗号が、彼の死と、

未来へのメッセージをつないで

いることを——。

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2026年1月16日 10:00
2026年1月17日 10:00
2026年1月23日 10:00

青きドナウが奏でる、最後のワルツ tougen_87 @tougen_hana

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