第三話◇恋とは理性を曇らせるものである〜伊集院 桜子視点

◇◇伊集院 桜子視点


『愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。』


星の王子さまの作者、サン=テグジュペリ氏の言葉です。


 ――けれど、私はまだ、その“同じ方向”というものがどこにあるのか分かりません。


 だから、私はつい彼のことを見つめてしまうのです。


(…慶一郎様…。)


麗しく知的な笑顔。

そして、あの鋭くも優しい眼差し。


「貴方は可愛らしい方なのですね。」

「――っ、」


カァアアッと彼の頬がまるで熟れた林檎のように紅く染まります。


 理詰めでお話しされるのに、時折見せるその恥じらい。


 慶一郎様のその表情に私の心は晴天の雲のように高く、高く、天に昇っていくようです。


 そして――できることなら、彼にも私のことを見つめて欲しいと、そう願ってしまうのです。


◇◇


 ――私、伊集院桜子と財前慶一郎様の婚約が決まったのは、十二歳の頃。


 私の進学先が、かつて天皇陛下の教育係を務めていた才女・東雲菊乃によって創立された名門『菊乃森女子学園』に正式に決まる数ヶ月前の事でした。


 校訓は『清く、正しく、美しく。そして静謐であれ。』


 英国文学や古典を重んじ、『恋は理性を曇らせるもの』として禁じられております。


 けれど実際には、昔から生徒たちはこっそり恋文や和歌を婚約者に送り合い、密やかな逢瀬を楽しんでおりました。


 ところが、私と慶一郎様は十八歳で正式に婚約するまでは直接お会いするのは禁じられておりました。


 ――私はただただ、慶一郎様にお会いできず、寂しかったのです。


(同級生の女の子達が羨ましい…。私だって慶一郎様にお会いしたいのに…。)


教室の中で頰を桃色に染めて、嬉々として婚約者や彼氏について語るクラスメイト達に私はいつも羨望の眼差しを向けておりました。


 唯一の慰めは、文通で届く御手紙と、古の貴人たちが綴った恋物語。


 そして十三歳の誕生日に慶一郎様が贈ってくださった、蛙のぬいぐるみ――ケロちゃんでした。


「ケロちゃん、ただいま戻りましたわ。


 今日は礼拝の時間に朱里さんが私を笑わせようとして大変でしたの。


 それより慶一郎様にもうずっとお会い出来ておりませんわ…。お元気にしていらっしゃるのかしら。」


私の部屋のベッドの上にはケロちゃんが飾ってあり、毎日私の話し相手になって下さっています。


 机の上の写真立てには御手紙に同封されていた笑顔の慶一郎様の写真が飾られています。


 そして私は慶一郎様に会いたくなると、彼の写真に1人そっと指先を這わせて和歌を呟くのです。


「逢はぬ夜の降る白雪と積りなば 我さへともに消ぬべきものを。」


今日は古今集十三巻にある恋歌を呟きました。


(慶一郎様。桜子は貴方が恋しくて恋しくて、雪のように消えてしまいたいです…。)


初めてお会いした頃、少年だった慶一郎様が、写真の中では眉目秀麗な青年となって、私に微笑んでおられます。


(ああ、素敵…。なんて素敵なの。)


 今日は――大安吉日。


(源氏の君のように、慶一郎様が忍んで来てくださらないかしら。


 そして、その指先で……私のすべてを暴いてくださったら――)


『――桜子さん。とても美しくなったね。』


頭の中で慶一郎さんが私の耳元で低い声で呟きます。


「っ、慶一郎様っ」


その言葉を想像しただけで私の心臓はドキドキと暴れ出し、息が乱れます。


 そして、身体の奥が苦しいほどに疼いてきてしまうのです。


 ――写真立てに伸ばした指先が、知らぬうちに震えていました。


(触れたい。触れてほしい。…その指で私という存在の全てを暴いて欲しい。


 …けれど、触れられない。)


許されぬ距離の中で、想いだけがどんどんと膨らんで、募っていくのです。


(慶一郎様…早く。…早く貴方に会いたいです……)


来月で、十二歳の時にご挨拶の為にお会いしてから六年になります。


 ――そして、もう少しで私達は十八歳になります。

 

 その時、私はどんな顔をして彼に会うのでしょうか。きちんと、美しく笑う事は出来るのでしょうか。


 その夜、私は彼の笑顔を胸に抱きしめたまま、静かに瞼を閉じました。


◇◇


「桜子、聞いてほしい。お前の将来、そして我が家の未来を託したい青年がいる。」


紫陽花が咲き始めた六月の午後、父に突然そう告げられたのです。


 その時の私は、『将来』という言葉の意味も、『婚約』という音の重さも、まだ分かりませんでした。


 そして、不安な気持ちでいっぱいで慶一郎様とご挨拶する日を迎えたのです。


 けれど、あの日。


 ――父の隣に立っていた慶一郎様の瞳が、まっすぐに私を見ていたことだけは、今でも鮮やかに覚えています。


「はじめまして。桜子さん。

 ――財前慶一郎です。」


(まあ、なんて素敵な方なのかしら。)


驚くほど整った顔に理知的な瞳。ハキハキとお話しなさる論理的な口調。


 白いシャツの袖をきちんと折り、私の目を真っ直ぐに見て微笑んで下さった慶一郎様。


 その笑顔に胸の奥がチリッと熱くなったのを今でも覚えています。


 緊張しながら私の自己紹介が終わり笑いかけると、何故か慶一郎様は驚いたように固まっておりました。


「…?どうされましたか?」


「…何でもありません。」


私が手を差し出すと、恐る恐る慶一郎様は私の手に指を絡ませました。


「ふふっ、私、男の人と手を繋いだのは初めてだわ。慶一郎様の手はなんだか温かくて落ち着きますね。」


私の言葉に慶一郎様は目を見開いた後ふいっと顔を逸らしました。


 けれど、その耳は真っ赤になっておりました。


「…それより桜子さんはご存知でしたか?紫陽花の色というのは土壌のpH値によって変化するのです。」


その言葉に私は驚いてしまいました。


「まあ。凄いわ。そんな事をご存知だなんて。」


すると、慶一郎様が楽しげに笑って、ぎゅっと手を握りしめてきます。


「アルカリ性であれば桃色。酸性であれば青色に育つのです。


 作物と恋愛も同じだ。日照時間、土壌、遺伝子の安定性――すべて環境によって変化する。」


「……まあ。では恋愛も環境が関係するんですか?」


目を丸くする私に、彼は真剣な目で頷きました。


「関係します。情熱が長く続くには、安定した環境が必要です。」


「……では、貴方との情熱が続くように、私は貴方の居心地がいい環境を作れるように努力いたしますね?」


そう微笑みかけると、彼は一瞬固まり――じわじわと頬を赤らめました。


「――っな、」


そのお顔を見た瞬間、胸の奥がきゅううんと締めつけられました。


「まあ。ふふ、慶一郎様って可愛らしい方だったのですね。」


(――ああ、これが、恋ですのね。)


その日から、私の1番好きな花は牡丹から紫陽花になりました。


 私がジッと彼の顔を見つめると、彼は照れたように焦って空の上の雲を見つめました。


(ああ、慶一郎様。


 どうか、雲ではなく私の方を少しでも見てくださらないかしら。)


その後、慶一郎様はレンズ雲についてお話しをされておりました。

 

 普段何気なく見ていた雲には色々な条件が必要である、と知ることが出来て大変興味深い時間でした。


 そして、ふと視線を下げた彼と目が合う度に、胸が甘く疼きました。


「ふふっ。私、婚約するのが慶一郎様で良かったです。お話しするのが、凄く楽しいです。


 ――どうかこれから、何卒宜しくお願いします。」


繋いだ手からドキドキとお互いの心臓が脈打っているのが伝わってきて、慶一郎様も緊張されているのがわかりました。


(ずっと、こうしていられたらいいのに。)


 ――けれど、それきり六年間、慶一郎様と直接お会いすることは叶いませんでした。

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