偏差値70なのに恋愛経験0の二人の理性が崩壊するまで〜財前慶一郎と伊集院桜子の恋

間宮芽衣(ブー横丁)

第一話◇理屈では説明できない存在。〜財前慶一郎視点

◇◇財前慶一郎視点


「ここでの授業は退屈すぎる。


 僕にその授業をするということは、人間に日光猿軍団の芸を仕込むようなものだ。


 よって、家に帰ってもいいだろうか?」


――12歳の僕は知能が高い傲慢な子供だった。


 僕の名前は財前慶一郎(ざいぜん けいいちろう)。


 小学六年生の春。


 既に塾で高校生レベルの勉強をし、円周率を小二で小数点以下100桁まで暗唱していた僕はついに退屈な授業に嫌気が差して担任の先生にこう言った。


「財前君、貴方一人だけではなくて、クラス全員でまずは一歩進むことが大切なの…。」


彼女の声は震えていた。


 そんな彼女に僕は静かに言葉を返す。


「将来、ここにいるクラスメイトの多くとは卒業後、殆ど会うこともないでしょう。


 僕は『皆で一歩』ではなく、『僕が百万歩』進みたいんです。」


先生の顔から血の気が引く。

 クラス中が凍りつく。


「…財前君、それはあまりにも…。」


「義理や感情ではなく、合理性の話です。」


そう言い放った僕は担任の先生を泣かせた。


 今思えば申し訳ない事を言ってしまったとは思うが、当時の僕にとって、それは論理的帰結にすぎなかった。


 ――だが、僕は悟ることになる。


 確かに、合理的に物事を考える事は大切だ。


 けれど、理屈では説明出来ない現象がこの世には存在する。


 様々な人間がいて、耳を傾ける事は決して無駄な時間ではない。


 …だが、小学生の頃の僕には、それが不可能だった。


 当時、その頃の僕と周囲の同級生達との知能には大きな隔たりがあった。その為何を話していても全く面白いと感じなかった。


 ――その為僕は幼少期、周囲との噛み合わぬ会話にずっと孤独を感じていたのである。


 唯一波長が合ったのは、近所で病院を開業されている38歳のかかりつけ医の森本先生だけだった。


 僕が『理屈では説明出来ない事もある。』と知るのはその数日後のことだった。


◇◇


 ある日、僕は父に呼び出された。


「慶一郎。お前の婚約が決まった。

 伊集院家のご令嬢だ。この家は長男の怜一郎が継ぐ事になるからな。


 お前は伊集院家に婿入りする事になる。」


僕の実家は、元官僚だった曽祖父が立ち上げた『財前総合戦略研究財団』だ。


 父はそこでシンクタンク部門と政策提言部門を統括している。


 祖父は国立大学の名誉教授で、今も財団の顧問として口を出しているそうだ。


 ――突然の父の言葉に流石に僕も動揺した。


(…もしも、伊集院家のご令嬢が生物として本能的に魅力を感じない相手だったらどうしよう。


 その場合、僕は生殖行為に及ぶ事が果たして出来るのだろうか。)


そう考えた僕は、気付くと祖父にこんな事を尋ねていた。


「お祖父様、どうしてお祖母様とご結婚なさったのですか?」


祖父は新聞から目を離さずに答えた。


「視力が良いからだ。」

「…え?」


僕は思わず目を見開く。


「私は近視でな。遺伝的に視力が悪い。

 将来を考えると、良い遺伝子を持つ女性を選ぶのが合理的だと思った。」


お茶を啜る音と共に、祖母はにこにこと微笑みながら、編み物をしていた。


「お祖父様にとって、それが“恋”、即ち結婚相手の決め手だったのでしょうか?」


その言葉に彼は首を振る。


「『恋』とは、身体的な反応だ。長続きさせるには植物と同様に安定的に環境を整えねばならない。


 だが、結婚というものは優秀な遺伝子を保つための最適化された交配である。」


「……交配。」

その言葉を僕は必死でノートに書き記す。


「ああ。だから決して感情に惑わされるな、慶一郎。」


「はい。お祖父様。」


僕は真面目にノートを取りながら頷いていた。


「私は視力が悪い。だからお前の祖母は視力が良い。即ち愛とは合理である。」


その瞬間、僕は悟った。


 財前家では、愛も遺伝子の一部である、と。


◇◇


 ――僕が婚約する伊集院家は江戸時代から続く老舗呉服屋だ。


 現在はIJU modeという大手ファッションサイトを運営している。


 戦後に財前家のシンクタンクが新ブランド戦略の助言をした事で縁を持ち、それ以来の交流らしい。


 僕を婿養子にすることで我が家の分析力を事業に活かしたい…ということらしいが。


(婿養子か。肩身が狭そうだな…。)


僕は心の中で溜息を吐く。


 だが、伊集院家の令嬢と婚約を結べば僕はずっと好きな数学を学びながら市場の分析を出来る。それに将来食いっぱぐれる心配もない。


 そして、伊集院家の方はそのデータを利用してマーケティングが出来る。


 ――確かに紛れもなく『合理』的だ。


(どうせ次男の僕はこの家を継ぐ事は出来ない。

 腹を括るしかないか。


 ――だが、一度でいいから『恋』というものを経験してみたかった。)


12歳の僕は淡々とそんな事を考えていた。


◇◇


 ――ところが、僕は恋をしてしまった。


「初めまして。伊集院桜子です。

 これから宜しくお願いします。」


六月のある晴れた日、僕はいよいよ伊集院家に挨拶に訪れることとなった。


(…可愛い。)


桜子さんを一目見た瞬間、不覚にもそう思ってしまった。


 ――正直、今まで接してきた同じ小学校の女子とは同じ霊長類だとは思えない程彼女は美しかった。


 彼女はまるで雑誌の表紙を飾っている女優を儚くしたような美しい顔立ちの少女だった。


 艶やかな長い黒髪に縁取られた端正な顔を桃色に染める桜子さん。


 まるで桜桃のような可憐な唇から紡ぎ出される声は僕の心を激しく揺さぶった。


 彼女が笑うと、長いまつ毛が白い肌に陰を作って思わず見惚れてしまう。


「こちらへどうぞ。今は紫陽花が見頃を迎えておりまして。我が家の庭園を案内致しますわ。」


そう言われた瞬間、心臓がまるで自分のものではないようにバクバクと暴れ出した。


(――!?なんだこれは?!)


「…?どうされましたか?」


「…何でもありません。」


僕が誤魔化すように首を振る。


 すると、桜子さんに美しい白魚のような手を差し出され、慌てて握り返す。


「――っ、」


世界のノイズが消えた。そして、脳から大量のドーパミンが放出されるのが自分でもわかった。


「ふふっ、私、男の人と手を繋いだのは初めてだわ。慶一郎様の手はなんだか温かくて落ち着きますね。」


 ――どうやら、僕が彼女と手を繋ぐ初めての『雄』らしい。そのことに胸が歓喜で打ち震えた。


(嬉しすぎて、自分で自分の身体をコントロールすることが出来ない!!何故だっ!!)


気がつくと僕は必死で誤魔化す為に、紫陽花の色彩変化について早口で語り出していた。


「…それより桜子さんはご存知でしたか?紫陽花の色というのは土壌のpH値によって変化するのです。」


(ああ、僕は何を言っているんだ!こんな事を言っても喜ばれる訳が…)


「まあ。凄いわ!そんな事をご存知だなんて。」


(…え?きちんと、聞いてくれて、いる?)


僕はすっかりと舞い上がってしまい、彼女の手を握り締めながらこんな事を言っていた。

 

「アルカリ性であれば桃色。酸性であれば青色に育つのです。


 作物と恋愛も同じだ。日照時間、土壌、遺伝子の安定性――すべて環境によって変化する。」


「……まあ。では恋愛も環境が関係するんですか?」


目を丸くする桜子さんに、僕は真剣に頷く。


「関係します。情熱が長く続くには、安定した環境が必要です。」


すると、彼女は考え込んだ後、こう言った。


「……では、貴方との情熱が続くように、私は貴方の居心地がいい環境を作れるように努力いたしますね?」


その言葉に僕は気が付くと顔がカッと熱くなっていた。


(…交配するだけじゃなくて、環境を整えてくれるというのか?!


 ――こんなに可愛い子が、僕の為に?!)


彼女が僕の方を潤んだ大きな目で見つめてきた。


「――っな、」


(…っ、駄目だ!桜子さんといると、理性が崩れそうだ!)


僕の頰が熱を持ち、惚けたように彼女を見つめ返してしまう。


 すると、真っ赤になった僕を見て彼女が微笑んだ。


「まあ。ふふ、慶一郎様って可愛らしい方だったのですね。」


僕は恥ずかしさを必死で誤魔化す為に、たまたま目を逸らした先に見えたレンズ雲について説明していた。


「ほら。あの雲はレンズ雲だ。飛行機のような形をしているでしょう?六月は空気が湿っているから見る事が出来るんです。」


「まあ。そうなのですね。」


そんな僕をニコニコと見守る彼女にどうしようもなく心臓が高鳴る。


(――僕がこんな風になってしまうなんて。)


この感情は駄目だ。危険だ。


 ――けれど。


繋いだ手を僕は絶対に離したいと思う事が出来なかった。


 その時から、彼女は僕にとって“例外”となったのだった。こんな風に理屈では説明できない感情は初めてだった。


 ――それなのに。


 僕達は十八歳になるまでの六年間、会えなくなってしまった。

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