滋賀へ

石魚

滋賀へ





持つ。運ぶ。積む。


持つ。運ぶ。積む。


持つ。運ぶーー



バカらしくなる程同じことを繰り返す。汗が滲んでは蒸発していく八月の真昼、溶けるような熱気の中で、俺はただ無心にトラックへ荷を運んでいた。



「有川ー。これも」



振り返ると先輩の1人が一辺1mはありそうなデカい荷物を指差していた。まだトラックに空きはあるとはいえ、もう小物は積み終わっている。勘弁してくれよ。バランスが崩れるんだ。


泣き言を言っても仕方がないので、だらだらと荷物のところに向かう。


「おっも……!」


何だこりゃ、何が入ってんだよ。最後にこんなモン寄越しやがって。


「ん、ぬっおら……っ!」


力一杯踏ん張ってもなかなか持ち上がらない。50kgはあるかと思うほどの重量感。箱がデカすぎて力が入らないのも相まってか、未だ1mmも上に上がっていない。


「こんの、クソがぁ…!!」


怒りで加算された筋力を目一杯使って持ち上げようとした時、突然箱の蓋が開いた。



「テッテレーーーーン!!!!!」


「うおっ!!?と、と、っ痛っ…てぇ!!」



反射的に手を離したため、勢いのまま後ろへ尻餅をついた。硬いコンクリートが尻に直撃し、鈍い痛みがじわりと広がる。



「……っぅ」


「ドッキリでーす!どう?有川くん!!びっくりした!?」



痛む臀部を摩りながら前を見上げる。俺が持ち上げようとした箱の中で「大成功!」と書かれた手作りの看板を持って、ニヤニヤ笑いながら立っている小柄な男がいた。



「……桜井さん」


「どしたの?」


「仕事中っすよ」


「……思いついちゃったからさ!それでどう!?びっくりした!?」



桜井雅康。35歳、独身。自他共に認める社内一面倒臭い男。はっきり言えば、俺の天敵。



「……作業あるんで。桜井さんも仕事してくださいよ」


「僕ちょうど仕事終わったから。今から事務処理して帰宅なの」


「……そすか」



無駄に仕事だけちゃんとやるところが嫌いだ。勤続13年にもなれば、こんな変わり映えのしない仕事はルーティーンで処理できるだろう。社内でこの男が「仕事ができる」と評価されていることが不思議で仕方がない。



「結局、荷物は終わりなんすよね。じゃあ俺、事務行くんで」


「はーい。いってらっしゃーい」



にやけ面のまま、手に持った看板をひらひらと振ってくる。余裕そうな顔にいつにも増してムカついたが、腹に収めて事務室に向かった。




桜井雅康は、端的に言って子供だ。


誰にでもできる仕事をこなし、社会から許されているだけのガキだ。ヒマを見つけてはやれ虫取りに向かったり、誰かにイタズラを仕掛けたり、事務員の女性をナンパしたりだの好き勝手している。それでも年功序列の残るこの世界で、仕事だけは終わらせている奴を強く糾弾する人間はいなかった。それどころか奴と話している人達の様子を見るに、慕われている雰囲気すらあった。俺には理解できないことだった。



事務に必要書類を提出して、承認されるのを待つ。今日の配達先は滋賀の1件だけなので承認に時間はかからないだろう。通常は数工程の処理が必要になるのだが、おそらく今回は5分もすれば終わる。大した時間ではないがやることもないので、飲み物でも買おうと外に出た。


自販機があるのは倉庫の外。ギリギリ屋根が入らないところにあるせいで、直射日光が体に降り注ぐ。暑い、あまりにも暑い。今日の気温は日中35℃を超えるらしい。地表から立ち上る熱気に長袖の作業着が蒸れて苦しい。かと言って日焼けするのは嫌なので長袖を脱ぐわけにもいかない。早くトラックに乗ってクーラーをガンガンに効かせたい。500mlのスポーツドリンクを1本買って首に持っていく。首からジワリと冷気が広がっていく。砂漠のオアシスのような冷たさを享受しつつ、だらだらと事務室に戻った。



事務室の前では桜井雅康が事務員の女性社員と談笑していた。またお得意のナンパでもしているのだろう。お相手の女性社員もまんざらでもないのかどこか嬉しそうに話している。


仕事終わってんなら早く帰れよ、と心の底から思った。愚痴を溜め息に変え、せめてもの慰めに口から吐き出す。早く出ていこう。自分の仕事を終わらせて帰ろう。



「すみません、確認って終わりましたか?」


「あ、有川さん。ちょうど終わりましたよ」


「そうですか、じゃあ行きますんで」


「あっ、待ってください。ちょっと内容に変更があってですね」


「変更?」


「はい、予定より荷物が多かったので、もう1人補助についてもらうことになったんです」


「はぁ…」



大した量でもないと思うが、まあ人手が増える分には問題ない。1人で行こうが2人で行こうがどうせ道中は喋らないから変わらない。



「ですので、今日は運転手が有川さんで、補助に桜井さんが同行しますね」


「……はぁ?」


「では、安全運転でお願いします」



貼り付けたような笑顔をこちらに向けて、女性社員はそそくさと去って行った。ポン、と肩に手を乗せられる。



「そういうことだから。一緒にドライブを楽しもう!」



俺は本気で、この職場を辞めようと思った。





ーーーーー





「いやぁ、今日アツいねえ!クーラーつけていい?」


「……別にいいすよ」



俺が許可を出す瞬間には既にクーラーが起動されていた。待てよ、返事を。別にこっちもさっさとつけようと思っていたし目くじらを立てることでもないのだけど。自分が操る車内で傍若無人を働かれるとどことなくイラっとしてしまう。こいつが絡んできてからイラつきっぱなしだ。


少し荒っぽく車を発進させる。高速の入口はすぐだし、ここから目的地までは4時間もあればつくだろう。早く荷物を置いて帰ろう。



「……あの」


「なに?」


「なんで急に補助なんて入ったんすか。荷物、いつもとそんな変わんないでしょ」


「ああ、僕が言ったからね」


「は?」


「事務の子にお願いしてね。」


「……なんで?」


「バームクーヘンが食べたいから」


「……?」



ついにイかれたんだと思った。前々から頭のネジの8割を母体の中に置いてきているのではないかと思っていたが、ついに残りの2割もどこかに配送してきてしまったようだ。話の前後関係が破綻している。なぜそんな「もう全部話しましたよ」みたいな顔でカーラジオをいじれるのか、腹がネジだらけの母親に聞いてみたいものだ。



「どういうことですか」


「え、どういうことって、食べたくない?バームクーヘン」


「いや、」


「あ、嫌いだった?」


「嫌いではないですけど、関係なくないすか?」


「あ~もしかして有川君知らないんでしょ~。うふふ~」



なんだこのおっさんはったおすぞ。



「有川君、今日配達滋賀でしょ~?」


「……そうっすけど」


「(コソコソ)滋賀にはね、すっごい美味しいバームクーヘンが食べられるところがあるんだよ……!」


「は?」



思わず口が半開きになる。なんだこいつは。それだけの理由で職権を使って俺の車に乗り込んできたのか。



「滋賀のね、『ラ・コリーナ』ってところなんだけど、そこで焼きたてのバームクーヘンが食べられるんだよ!もうずっと行きたくてねぇ!でも一人で行ってまん丸のバームクーヘン食べるのって寂しいじゃない?それでしばらく悶々としてたんだけど、そうしたらちょうど有川君が滋賀に行くっていうもんだから!しかも今日は1件なんでしょ?じゃあもう一緒にいけるじゃない!」



なんで俺が一緒に行くのが確定なんだ。大体こんなクソ熱い中バームクーヘンなんか食ったら脱水症状で死んでしまうだろ。過程は全部不正解の癖に推進力だけで進んでやがるこの親父。



「てか、仕事中寄り道したらバレますよ。会社に戻るまでは勤務中ですし、そもそも会社のパソコンからGPS見れますし」


「それは事務の子にお願いしてちょちょっと、ね?お土産も買ってきてあげるって言ったらどうにかしてくれるってさ!やっぱり最近の子はスイーツに弱いよねぇ」


「……そうっすね」



多分あの社員が弱いのはスイーツではなくアンタにだと思うが、言うと調子に乗りそうなので辞めた。どうもこれは女子社員まで巻き込んだ組織的犯罪らしい。俺が会社に通報すればすぐ糾弾されると思うが、その場合俺にも面倒くさい火の粉が降りかかって来そうだ。



ああ、すべてが面倒くさい。仕事だの桜井だの面倒くさいことが積み重なった末、今この瞬間をもって何もかもが面倒くさくなってしまった。その結果、心の中に「何も考えずにバームクーヘンが食いたい」という珍妙な現実逃避案が鮮やかに浮かんできた。



ETCを抜けて高速に入る。主車線に合流し、スピードを上げる。



「……バームクーヘン、食うかぁ」


「おっ!乗り気だね有川君!二人で分けっこしようね!」



しねえよ。

俺は俺のためにバームクーヘンを食う。ひとかけらだってお前にやることはない。たとえバームクーヘンはあの鉄の棒に巻かれた1本の単位でしか売られていないとしても俺はそれを一人で食べる。俺のバームクーヘンだ。


バームクーヘンに思いを馳せれば馳せるほど、バームクーヘンが食べたくて仕方がなくなってきた。さっさと仕事を終わらせたい。さくっと荷物を配達して、すぐにそのバームクーヘン工場?に行こう。そうしよう。


「有川君……?なんか速くない?法定速度守んないと怒られちゃうよ?」



うるさい組織犯罪者め、死なばもろともだ。


俺はオービスに引っかからないように注意しながら、時速3桁のまま高速道路を爆走した。





ーーーーー





「着いたねぇ有川君!いや~意外とのどかな場所にあるんだね~」



俺と桜井は予定を1時間巻くほどの超速作業によって仕事を終わらせ、昼前には目的地に到着していた。


「ラ・コリーナ」は、近江八幡城のある山のふもとから少し北に行ったところにあった。道路を挟んで対岸には大きな田畑が広がっており、奥には青々と葉を茂らせた山林が構えている。「ラ・コリーナ」自体も自然の中にあることをコンセプトとしているのか、施設全体が緑で囲われていた。


ルーティンワークで疲れ切っていた心身に、田舎の落ち着いた雰囲気と細やかに吹く風が染みる。俺は車を降りてしばらく立ち止まりその情緒に感じ入っていた。



「有川く~ん!先行っちゃうよ~?」



せっかくの田舎情緒が台無しである。声のした方向50m程先でちっちゃいおっさんが必死に大きく手を振っていた。そこまで行く前に声をかけろと言いたい。


これ以上一人の世界を楽しむのは不可能そうだ。溜息をついて桜井についていく。前から来たかったと言っていたし、きっとそこそこ詳しいのだろう。せっかく降って湧いた休暇だ。案内くらいしてもらおう。



「遅いよ有川君!」


「はぁ、すません」


「長袖脱いでくればいいのに~。暑いでしょ?」


「日焼け嫌いなんで」


「なんで?」


「小学生みたいでダサいじゃないですか」


「そう?まあいいや!行こっか!」



トテトテ歩く桜井に続き、大きなゲート風の入口をくぐって敷地内へ入る。外からでも感じていた通り、中も円形に大きく広がっていた。敷地の円周に沿うようにカフェやグッズショップと思しき施設が点々と並んでおり、真ん中には緑の広がる円形の広場になっていた。青空によく映える風景だと思った。



「へぇ、すごいっすね。自然って感じ。なんか落ち着きますね」


「有川君!あそこなんか売ってるよ!行こう!」


話聞けよ。


「バス!有川君バスだよあれ!なんであるんだろうねぇ!」


声と動きがデカい。頼むからもう少し静かにしてくれ。大人だろう。


周囲からの奇異の目が背中に刺さる。それはそうだ。桜井は作業着を脱いでいるとはいえ、「今まで仕事してました」と言わんばかりのTシャツと短パンを身につけている。仕事終わりのいい歳の大人がはしゃいでいたら誰でも目を向けるだろう。事実、周りの奥様方や子連れのファミリーから変な奴らを見る目で注視されている。大らかそうなお父さんがこちらを見て少し微笑んでいるのが居た堪れない。



「桜井さん、はしゃがないでくださいよ。子供じゃないんだから」


「えっ、あっ、う~ん……」



桜井は俺の言葉を聞くや否や、何故か下を向いて黙ってしまった。自分の行動を反省している、というよりも何か難しい顔をして思案しているような様子だ。普段はあまり見たことのない顔だったので、少し面食らった。桜井は時折唸りながら数秒思案した後、突然こちらを向いてニカっと笑っていった。



「有川君!今はね、子供でいいんだよ!」


「……はぁ?」


「さ、行くよ!バームクーヘン冷めちゃうから!」



何を言ってるのか理解できないうちに腕を掴まれ、そのまま引きずられていった。





ーーーーー





「これが、バームクーヘン…!」


「それは知ってるでしょ」



あの後桜井に引きずられながらグッズ売りのバスだの棚田だのを見て回り、最終的に俺たちはバームクーヘン売り場の隣に併設されたカフェに来ていた。


店内には落ち着いた雰囲気が漂っており、左手に見えるショップの賑わいからは切り離されたようにゆったりとした時間が流れている。まだ昼前なこともあるのだろうが、散々桜井に歩かされたのでこの人少ないカフェの存在は有り難かった。メニューと睨めっこする桜井を正面に、氷のよく入った水を煽る。



「で、桜井さん決まったんすか」


「待って!もうちょっとだから!」


「……先頼んでいいっすか」


「いやもう決まるから!待って待って!」



また一つ、溜息をつく。桜井がメニューを眺め始めてから既に10分は経過していた。俺は店の前にサンプルが出ていたミニバームクーヘンセットに即決したのでさっさと頼みたくて仕方がない。



「やっぱりバームクーヘンだよね……いやでもかき氷も美味しそう……バームクーヘンなら持って帰れる…?いやいややっぱり焼きたてじゃないと……でもなぁ!」



この調子で10分間だ。最初こそ寛大な心で待ってやろうと思ったが、流石に長い。飽きた。



「すみませーん」


「はい!」


「注文、いいですか」


「はい、大丈夫です!」



若い女性店員がパタパタとこちらに歩いて来る。目の前の桜井が「裏切り者」とでも言わんばかりの目でこちらを睨んで、というより若干涙目で見てくる。可愛くねえぞ、早く決めろおっさん。



「この、ミニバームクーヘンのセットで」


「ドリンクはどうなさいますか?」


「アイスコーヒーで」


「アイスコーヒーですね〜」


「桜井さん、どうするんすか」


「ぼ、僕はねぇ〜えっとぉ〜」



桜井が苦渋を飲んだような顔でメニューをゆっくりめくる。



「このぉ、ミニバームクーヘンセット……と!パフェ!でお願いします!」


「はい、バームクーヘンのセットとパフェですね〜。ドリンクはどうなされますか?」


「リンゴジュースで!」


「リンゴジュースですね〜。以上でよろしいですか?」


「はい!大丈夫です!」


「では少々お待ちください〜」



桜井がふぅ、と息をつき椅子にもたれかかる。


バームクーヘンのセットに、パフェ。それもメニューを見たところそこそこな量のあるパフェだ。もう40歳も目視できる距離にある人間が頼む量ではない。絶対に胃もたれする。


どうせ途中で限界が来て食べられなくなった分を俺が食べることになるのだろう。


まあせっかくの機会だしパフェが食べられるのは悪くない。敗戦処理の大義名分を活かして悠々と食べてやろう。








と、思っていたのだが。


数十分後、俺の前にあったのは空の器が数個と、その奥に腹をさすりながら満足そうに座る桜井だった。



「よく、食いましたね」


「最後の方しんどかったけどね!食べたかったから!」


「……そすか」


「えっ、もしかして食べたかった!?食べたかったんでしょ!」


「うるさい。店内なんで」


「も〜言ってくれればいいのに〜。分けっこしようよ分けっこ〜」


「しませんよ。いい大人が」


「また大人!有川くんそればっかりだね!」


「事実なんで。桜井さんはもうちょっと自覚した方がいいと思いますけど」


「う〜ん……有川くん、今休みなんだよ?」


「だから、なんすか」


「休みなんだから、大人じゃなくていいじゃない!」


「……大人に休みなんてあったらいいっすけどね」


「うーん。それは、有川くん次第だね!」



不満顔を隠すようにコーヒーを啜る。


相変わらず、意味がわからないことを言う。ぼかしたような発言ばかりで、最後には俺次第なんて、好き勝手で投げやりだ。桜井の発言全てが無責任に思えて一層苛立ちを募らせる。



「ご馳走様でした!さ、有川くん、行こうか!」



抵抗するように、コーヒーを飲むためにカップを手に取る。中身は既に空になっていた。カチャン、という音を立ててカップを元の場所に戻す。



「……そっすね。帰りますか」


「え?まだ帰らないよ?」


「……あ?」


「行くとこあるから!運転は任せて!」





ーーーーー





「うわー!広いな!ここまで大きいともう海だね!海!」


白浜の上の桜井が言う。


嫌がる俺を助手席に座らせ桜井が向かったのは、琵琶湖の東側にある小さな浜辺だった。数メートルの短い砂浜の奥には、湖が水平線を覗かせるほど奥まで広がっている。左右を見れば、夏休み中だからか子供連れのファミリー達が遊んでいるのが目に入る。昼過ぎの太陽光が白い地面に反射して目が眩んだ。紫外線が長袖の上からでも肌を焼き付けてくる。



「よーし、行くよ有川君!」


「行くって、どこに」


「海だよ!あ、いや湖か!」



そう言うと桜井はいそいそと着ていたTシャツを脱ぎ始めた。



「え、何してんすか」


「何って、こうするんだよ!」



言葉を言い切らないうちに桜井は湖に向かって走り出し、大きくジャンプをして湖に思いっきりダイブした。


バシャン、と大きな音がして水飛沫が高く飛ぶ。跳ねた水滴がパラパラとズボンにかかった。



「っぷはぁ!つんめたぃ!!気持ちいい〜〜〜!」


「は、いや、何してんすか桜井さん」


「気持ちよさそうだったから!ほら、有川君も!」


「いや、いやいや。そんな、服とか、タオルとか。なんもないのにあんたどうするんですか。どうやって帰るんすか」


「ん、知らない!ちょっと歩けば多分乾くよ!」


「乾くって、」


「それより有川君も!入りなよ!気持ちいいよ!」



――ああ、こいつは本当にバカなんだ。愚かなんだ。周りの目も気にしてない、未来のことも考えてない。それで自分が被る被害を全く分かってない、考えられてない。


わざと口角を少し上げて言った。



「入るわけないでしょ、着替えもないのに。日焼けもするし。」


「そう?」


「湖来てはしゃぐ歳でもないんで、俺」



棘のある言い方をしたと思った。大人げないとわかっていながら言葉を止められなかった。この小旅行中募っていた苛立ちが、口からこぼれ出た。


桜井は湖に膝を浸したまま黙って立っている。謝罪の言葉は出てこなかった。


桜井が唐突に口を開いた。



「有川君」


「……なんすか」


「有川君はさ、言い訳の方向が逆なんじゃないかな」


「は?」


「大人になるための言い訳は疲れるよ。楽しくないしね」


「でも、そういうもんでしょう」


「仕事中ならね。仕事をするのは大人の役目さ。でも、そうじゃなきゃ別だよ。」


「……」


「有川君の今日の仕事はもう終わり。大人の時間は終わったんだよ。じゃあ今からは子供の時間だ」


「なんすか。子供の時間って」


「子供になる時間だよ。そのために言い訳を使うの。『だからはしゃいでも仕方ない』、ってね!」



ニッコニコの顔で桜井がこちらを見てくる。蘭々と輝く目が眩しくて、どうにも鬱陶しい。


腹の中にあった苛立ちが表層に込み上げてくる。それと同時にその正体が徐々に鮮明になっていくのが分かる。



「……例えば?」


「ん~そうだね!夏だからかな!」


「……」


「はしゃいじゃうのは仕方ないよ!だって夏で湖だよ!?今はしゃがなくてどうすんの!」


「夏、すか……」


「うん!夏で、湖で、それに旅行中だよ!知り合いなんていないからね!なんだってできるよ!」




ああ、クソ、桜井め、そういうことか。畜生。




これは桜井のせいだ。だからしょうがないんだ。ああムカつく。ムカついているからしょうがないんだ。この野郎め。


上着の前についたチャックを下ろす。乱暴に上着を脱いで、投げ捨てた。その勢いで履いていた靴と靴下も脱ぎ捨てた。その勢いのまま、湖に向かって走り出す。長ズボン、知ったことか、濡れちまえ馬鹿野郎。


白い砂浜を思いっきり走る。しばらく使っていなかった筋肉が、軋むような感覚がある。走り方もぐちゃぐちゃだろうし、何より素足に刺さる浜の熱が痛くて仕方がない。だが、そんなことは関係ない。体にガタを言わせながら思いっきり走り続ける。そして一瞬足に水の冷たさを感じた瞬間、





「――ぅぬおらぁ!!!!」





思いっきり、前に踏み切った。



体が宙に浮く。勢いをつけて跳んだから、空気の流れが肌に強く当たる。外気に曝された上半身を涼やかな風が通っていく。


気のせいだろうか、時間がゆっくり流れているようだった。スローモーションになった時間の中、自分とこの青い世界だけが生きているように感じた。このままずっと奥まで跳んでいけるような気分だった。


もちろんそんなことはなく視界はゆっくりと水面へと近づき、ひと際大きな音を立てて俺の体は水面に叩きつけられた。琵琶湖の柔らかな水の中に全身が浸かる。



「っぷはぁっ!!」



立ち上がって、顔についた水を拭う。体にはまだ水も、水中の感触も残っている。思ったよりも奥に飛んだからか、立っていても膝の少し上まで水が来ている。水中から上る冷気と体の水滴を気化させる風が、火照った体を冷やしていく。


ああ、ちくしょう。




「気持ちいいのかよ……バカが」




つい言葉が漏れる。雲一つない空と遥かに広がる湖の青の中に、何をするでもなく立っていた。ただそれだけのことを許されている気がしていた。


突然、ピシャリと音がして、ひやりとした感触が背中に広がる。



「―冷てっ!?」



驚いて振り返ると、いつにもましてニヤニヤと笑う桜井が、両手をお椀のようにしながら立っていた。



「有川君~。隙あり、だね!」



クソ、この親父め。相変わらず、ガキみたいなことしやがって。


口元が緩む。俺は桜井の姿を真似るように両手を構えた。



「おっ、やるかい有川君?」


「ハハッ。若者舐めてたら後悔しますよおっさん!!」



水がはじける音が砂浜に響く。白い砂の上に取り残された長袖の上着が、風でぱたぱたと揺れていた。




ーーーーー





「ああ、痛ってえ……」



寝起きのシャワーを浴びながらじんじんと痛む身体を摩る。1日経ってひどくなった日焼けに温水が堪える。


あれからしばらく湖で水遊びをした後、まだ遊び足りなかった俺と桜井は近くのコンビニでビーチボールを買い、また湖に戻って遊び続けた。途中からは近くで遊んでいた子供も混ざりビーチボール大会のようになってしまったため、帰るころにはもう夕方になっていた。あまりに長く太陽光の下に、それも日焼け止めも塗らずにいたものだから、上半身は完全に真っ赤になってしまい下半身は下半身で筋肉痛でボロボロになっていた。


一歩歩くたびに体の上にも下にも刺すような痛みが突き抜けた。だが今はそれも悪くないような気がしていた。


ちなみに、俺たちの寄り道は会社にしっかりバレていた。流石に帰りがあまりに遅いと思った上司がGPSを確認してしまったらしい。琵琶湖のほとりから動かない車と、はっきりと日焼けした俺たちの姿を見て確信したそうだ。


しかし、意外にも大きな問題にはならなかった。上司からは「あまり遅くなると上に報告しなければいけないから、ほどほどにね」と言われた。あの女性社員が口利きしてくれたからか、あるいはお土産――賄賂ともいう――が甘党の上司に聞いたのか、はたまた俺たちの日ごろの勤務態度がよかったからか、はっきりとした原因は分からない。だがまあとにかく俺たちは特に怒られることもなく、簡単に注意された程度で減給などもなかった。配達業界に珍しいホワイト企業万歳だ。



今日は仕事は休みにしてある。本来は連勤の疲れを癒すために近くの銭湯にでも行こうと思っていたが、体のあちこちがイカれてしまってとても動けそうにない。今日は家で溜まっている映画でも消費しよう。


テレビを起動しようとリモコンを手に取った時、傍にあったスマホが振動した。見れば桜井からLINEが届いている。



『有川君!今日僕仙台の山の方に配達なんだけど、一緒に牧場でアイス食べようよ!12:30に会社に集合ね!』



この親父、全く懲りていない。注意で済んだとはいえ、翌日に行くか普通?


やっぱり、桜井は馬鹿なんだと思う。今度こそ怒られかねないという未来が予測できていない。それに返信しようとして、思わず口に出る。



「……ハッ。この、ガキめ」



リモコンを床に置き、スマホをいじる。きっと俺も、馬鹿なんだと思う。



『当然、奢りっすよね?先輩』


『えっ僕運転もするのに!?せめて帰りは代わってよね!』



うるさい。若者を連れ出すんだぞ。アイスぐらい奢ってしかるべきだろう。


今の時刻はちょうど12時、家から会社までは20分もあれば着く。時間も完璧だ。


スマホを放り投げ、衣類を入れたタンスを開く。奥をごそごそと漁ると、しばらく来ていなかった半袖のTシャツと短パンが出てきた。よし、まだあったか。


雑に服を着て、スマホと財布をポケットに突っ込み玄関に向かう。スマホに桜井からの通知が来ていたようだが、気にも留めずにサンダルを履いて玄関を開け放った。


途端、ムッとした外気が全身を抜ける。数歩前に進めば、真上から降り注ぐ日光がむき出しになった肌に降り注いでくる。纏わりつく熱気が今日は心地よく感じた。日焼けもあって皮膚が少し痛いが、そんなことは気にしてられない。今日の俺は、大人じゃないのだ。俺は透けるほど青い空の下を、会社に向かって走り出した。








夏は今、正午を指している。













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