うつろう名無しの交差点
桐沢 胡桃
第1話
−黄昏時って、これぐらいの時間のことかな。
高校2年生の涼夏は今日の授業で耳にした単語をぼんやりと思い出す。夕焼けで赤く染められていた空は着々と夜の準備を進めており、グラウンドにまばらに見える人影は涼夏の教室からでは男女の区別すらつきそうにない。敷地外へ視線を滑らせると、もうぽつぽつと街灯が灯り始めていた…夜道ではあんなに心強く見える光も、今はまだ太陽の残光に負けそうな程に弱々しい。
『今日、ミーティングだったの忘れてた。少し待たせるかもしれない』
待ち合わせ相手の佐倉理人からそんなメールが届いてから、そろそろ30分が経とうとしてる。暇つぶしに開いた雑誌も、あまり気分が乗らずに5分前に閉じたばかりだ。頬杖をついて夕飯に思いを馳せていると、教室の後方扉が引かれる音が聞こえ、反射的に体を捻る…が、そこに立っていたのは理人ではなく、クラスメイトの千葉だった。
「あれ?涼夏、まだ帰らないの?」
部活終わりだろうか、ジャージを腰に巻き付け、1月とは思えない身軽な格好の彼女は、その上頬まで上気させている。文化系部の涼夏はそんな格好で寒くないのかと心の中だけで感心した。
「んーもうそろそろ部活終わるみたいだし」
「ああ…理人先輩か。相変わらず仲いいね〜」
からかうような調子の友人に苦笑いを返す。
「愛されてるねぇ…羨ましい」
「過保護なだけだよ〜千葉ちゃんは?」
「ああそうだ、忘れ物しちゃって…っと、あったあった。じゃ、お先」
「また明日ね」
級友の背に向けて降った手を下ろすと、見計らったかのようなタイミングで机の上のスマホが震えた。理人からだろうかと思ってスマホを引き寄せる。が、最新のメッセージは先程のもの…通知はスマホゲームの新着情報だったらしい。肩透かしを食らった気分で溜息とともに画面をスワイプする。
そろそろ教室を出ないとならない時間だろうか、そう思うのと同時に、下校を促す定時の校内放送が校舎に響いた。じきに見回り担当の教師が来るだろう。
(…帰る支度だけでもしておこう)
教室の後方扉にちらちら横目で視線をやりながら、ブレザーの上からダッフルコートを着込み、肩まで伸びた髪が巻き込まれるのも気にせずマフラーを巻く。まだ来ない。
(それとも、外に出て待ってた方がいいかな)
スマホをコートのポケットに突っ込んで、机の中に忘れ物がないかチェックしてから鞄を肩にかける。まだ来ない。
「…もう」
文句を言うように唇を尖らせた涼夏が一歩踏み出したところで、漸く視線の先の扉が横に滑り、申し訳なさそうな顔をした理人が姿を見せた。急いだからだろうか、乱れた髪を手で整えながら、涼夏に向かって潔く頭を下げた。
「悪い、遅れた」
「ちょうどよかった。先に外に出てようかと思ったところだったんだ」
足を早めて残りの距離を縮める。学年違いの遠慮からか、律儀に教室の一歩手前に立つ理人がおかしくて、先程まで感じていた焦れったさは失笑とともに誰もいない廊下に吸い込まれていった。
「思ったより長引いて…待たせたよな」
「待ってないって言ったら嘘になるけど…仕方ないよ、ミーティングなら」
何でもないことのように受け流され、理人はほっと一息つく。しかし和やかに談笑に興じるほどの時間の猶予はない。タン、タン、と渡り廊下に近い階段からしっかりした足音が聞こえてきたことに気づいた2人は反射的に姿勢を正し、音の方へ体を向けた。
すぅっと伸びてきた恰幅の良い影が連れて来たのは生活指導員である体育教師だ。ともすれば責められているようにも聞こえる張りのある声は、他に音のない静かな廊下によく響く。
「誰だ、まだ残っているのは」
「すみません、もう帰ります」
「なんだ佐倉か。もう施錠するから早く帰りなさい」
「はい。理人、行こ」
素直に頭を下げる涼夏と理人に、後追いで投げられる叱責の言葉はない。こういうときは教師からの信頼が篤いと得だなと、涼夏はこっそり心の中で小さく舌を出した。代わりに掛けられた、気をつけて帰れよ、と無骨な定型文の末尾は、錠のツメが降りる音に重なって掻き消えた。
足早に校舎から出たにも関わらず、外はもうすっかり夜の帳を下ろしていた。校舎から出るまでの間に、太陽は沈みきってしまったらしい…地平線まで濃紺に染まった空にはちかちかといくつかの星が瞬いて見えた。グラウンドには、ほんの10分前に見えていた運動部の人影は1人分も見えず、自分達と同じように正門に向かう生徒がちらほら見えるだけだった。
澄んだ空気に息を吐くと、白く立ち上って、やがて消えた。ひゅうと吹き付ける冷たい夜風は、部活が終わったばかりの理人にとっては心地よく、座りっぱなしだった涼夏には堪えるものだった。涼夏は思わず両腕を抱き、しっかり合わさっていたコートの襟元を改めて引き寄せた。日は徐々に長くなっているのに、まだ寒くなる余地があるというのだから、信じられない。春が恋しい。
理人は身を震わせる彼女に気づくと、申し訳なさそうに眉を下げた。
「この時間は冷えるな…先に帰ってもらった方が良かったか」
「んー…でも私の部活が終わった時にはもう大分暗かったよ。16時半過ぎだったけど」
それでも?と視線を上げる涼夏と目が合い、理人は思わず言葉を詰まらせた。1人で暗い中を帰らせるより、一緒に帰る方が無駄な心配をせずに済む…が、その安心のために彼女に負担を強いるというのは随分身勝手な話だ。判断に迷い、自然と眉間に皺が寄る。自分にまっすぐに向けられた視線からは逃げられそうにない。
「それは…」
「なーんてね。まぁ、日は沈んでなかったから心配するほどじゃないよ。あんまり長くなるようなら、今度からは先に帰ろうかな?」
「いや…ただ、同じ方向の友達がいるならまだしも、そうじゃないだろ?」
「それはそうだけど…ほら、この時間でも人通りあるし」
「これだけ暗いと、人の目があると言ってもあまり当てにしない方がいい」
涼夏の脳裏に、待ち合わせの間に頭に浮かんだ黄昏時という言葉が浮かび上がる…自分自身そう思ったのだから、心配性な理人が食い下がるのも無理はない。涼夏は余計なことを言ってしまったなと反省して曖昧に笑うだけに留めておいた。彼が過保護なのは今に始まったことではないが、たまに軽い気持ちで言ったことが彼のセンサーに引っかかってしまうと、納得させるのがいくらか面倒だ。
(今日ほど待つことはそう多くないし…いいか)
少しばかり過剰ではあるが、彼に大切に想われていること自体は悪い気はしない。が。
「っくしゅん!」
寒さが身にしみることに間違いはない。その日の気温次第では先に帰ろうと心に決め、涼夏はその身を縮こませる。
あまりにタイミングの良いくしゃみに罪悪感がぶり返したのか、理人はバツが悪そうに身をかがめてマフラーに埋もれた顔を覗き込むと、前髪がさらりと滑った。街灯に差し掛かり、赤くなった鼻の頭が見える。
「…待たせたお詫びに温かい飲み物でも買うよ。何が良い?」
「ん〜…あ!じゃあ肉まんがいい!友達におすすめされたやつ食べてみたいのがあって」
恨みがましそうな様子から一転。涼夏の顔がぱっと跳ね上がったが、背中から差す街灯の灯りで寧ろその表情はひと回りほの暗い。しかしその声のトーンから好感触であったことを感じ取り、理人はほっと胸を撫で下ろした。
「肉まん?」
「普通サイズより一回り大きいらしいんだけどね、その分お肉も大きめでゴロゴロ入ってて…餡にたどり着いた瞬間出る生姜の効いた肉汁がそれはもう、」
「夕飯、涼夏の好きなおでんだって母さん言ってたけど。いいのか、夕飯前に丸々1個食べて」
理人の言葉にぽかんと口を開けた涼夏は、それを理解した次の瞬間、立ち止まって素っ頓狂な声を上げた。
「え…ええ〜?ここでそれ言う!?」
「涼夏、声」
「う…はぁい。でももう肉まんの口になっちゃったのに…」
如何にそれがショックだったかを表すため、大袈裟にも両手で顔を覆う涼夏だが、足を止める様子もない。理人は自然な素振りで彼女の背に手を添え、慣れたようにそれを誘導する。なんてわざとらしいと一笑に付すことは簡単だが、遠回しに甘える妹を可愛いと思う兄にはそんなことすら難しいのかもしれない。
「…仕方ないな。じゃあ半分こするか」
「わーいお兄ちゃんさすが!大好き!」
「わかったわかった」
わざとらしく語尾を上げ、懐っこい笑顔を浮かべて喜ぶ涼夏に、思わず笑みがこぼれる。自分と違って感情豊かな彼女は見ていて飽きない。背に当てていた手を外す代わりに、涼夏の一挙一同を微笑ましく見下ろしながら、理人は遠回りをする方向…コンビニに向かって舵を切った。
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