泥濘の華、玉座を見下ろす~雑用係と蔑まれた庶子の私ですが、父王の密命で大国の全権大使となり、無能な正妃たちを外交で黙らせます~
@jnkjnk
第1話:泥の中の宝石と、冷たい勅命
薄暗い石造りのトンネルに、ポタポタと水滴が落ちる音が反響する。そこは王宮の地下深くに張り巡らされた、巨大な下水と魔導配管が交錯する迷宮だった。腐敗臭と湿気が充満し、普通の人間なら数分と耐えられないであろうその場所で、私は膝までヘドロに浸かりながら、必死に魔力の奔流を抑え込んでいた。
「……くっ、ここも劣化が進んでいるのね。第三区画のバルブ、閉鎖。バイパス魔術式、展開」
私は泥で汚れた掌を、青白く脈打つ太い配管に押し当てた。王宮中の生活排水と、魔道具から排出される余剰魔力が混ざり合った「汚泥」は、正しく循環させなければ猛毒のガスを生む。もしこの配管が破裂すれば、地上の華やかな王宮は一瞬にして汚物に沈むだろう。
だが、そんな危機を知る者は、この王城には私一人しかいない。
「収束して……お願い、保って」
指先から微弱な魔力を流し込み、ひび割れた配管を応急処置で塞ぐ。汗が額を伝い、頬についた泥と混ざって落ちた。呼吸が苦しい。魔力酔いで視界が明滅する。それでも手を離すわけにはいかない。
私はリリアナ。この国の国王フリードリヒの娘でありながら、母が身分の低い愛人であったという理由だけで、王族としての扱いを一切受けずに育った「泥の王女」だ。
母が亡くなった十年前、私は正妃ベアトリスによって王宮の最下層にある召使い部屋へ追いやられた。そして与えられた仕事が、誰もやりたがらないこの地下魔導配管の清掃と管理だった。
『卑しい血には、汚い仕事がお似合いよ』
あの時の正妃の冷ややかな嘲笑は、今でも耳にこびりついている。
ようやく配管の脈動が落ち着き、青白い光が安定したのを見届けて、私は大きく息を吐いた。ふらつく足取りで汚水の中を歩き、地上へと続く鉄梯子に手をかける。
手袋は破れ、作業着はヘドロで変色し、髪からは下水の臭いが漂っているだろう。これが、一国の王女の姿だとは誰も思うまい。
重いマンホールを押し上げ、地上へと這い出る。
そこは王宮の裏庭、厨房の勝手口に近い目立たない場所だった。だが、今の時間帯は西日が差し込み、手入れされた薔薇園が黄金色に輝いているのが見えた。
地下の闇に慣れた目には、地上の光はあまりにも眩しすぎた。
「──きゃあ! 何この臭い!」
甲高い悲鳴が鼓膜を刺した。
眩しさに目を細めながら顔を上げると、そこには豪奢なドレスを身に纏った正妃ベアトリスと、その息子である第一王子ジェラルド、そして数人の取り巻きの貴族たちが立っていた。どうやら優雅な散歩の最中に、運悪く私が這い出してきてしまったらしい。
ベアトリス妃は扇子で鼻と口を覆い、まるで汚物を見るような目で私を見下ろした。その瞳にあるのは、純粋な嫌悪と侮蔑だけだ。
「空気が腐ると思えば……またお前ですか、リリアナ。王宮の裏庭にドブネズミが湧いたのかと思いましたわ」
「……申し訳ございません、王妃殿下。地下配管の緊急メンテナンスを行っておりました」
私は泥まみれのまま、その場に膝をついて頭を下げた。地面の砂利が膝に食い込むが、痛みなどとうに麻痺している。
「メンテナンス? ふん、口答えをするな」
吐き捨てるように言ったのは、異母兄にあたるジェラルド王子だった。金髪碧眼、絵本に出てくるような王子様の外見をしているが、その中身は空っぽだ。彼は私が命がけで直してきた配管が何のためのものかも知らない。
「お前が好きな汚い遊びをしているだけだろう? 高貴な我々の視界に入るとは、なんと不敬な。母上、こいつがいるだけで薔薇が枯れてしまいそうです」
「ええ、そうですわね。……おい、誰か」
正妃が顎で合図をすると、近くに控えていた近衛騎士がバケツを持って歩み寄ってきた。中には花壇の水やりに使うための水が入っている。
嫌な予感がして顔を上げようとした瞬間、頭上から冷たい水が勢いよく浴びせられた。
「っ……!」
息を呑む間もなかった。泥とヘドロにまみれた体に、冷水が叩きつけられる。作業着が肌に張り付き、寒さが骨まで染みた。周囲から、クスクスという忍び笑いが漏れる。
「少しは綺麗になったかしら? まあ、卑しい血までは洗い流せないでしょうけれど」
「ははは! まるで濡れ鼠だな。おいリリアナ、感謝しろよ。母上がわざわざ水浴びをさせてくださったんだ」
ジェラルド王子が私の濡れた肩を靴の爪先で小突いた。
悔しさで唇を噛み締める。拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで涙を堪えた。
反論することは許されない。ここで口答えをすれば、彼らは私への「教育」と称して、さらに過酷な労働を課すだろう。あるいは、私を庇ってくれている数少ない下働きの老婆たちに害が及ぶかもしれない。
私はただ、耐えるしかなかった。この十八年間、ずっとそうしてきたように。
「……感謝の極みに存じます。王妃殿下、ジェラルド殿下」
震える声でそう告げると、彼らは満足そうに鼻を鳴らした。
「分かればいいのよ。さあジェラルド、行きましょう。これ以上ここにいると、ドレスに臭いが移ってしまいますわ」
「はい、母上。……おい、さっさと失せろよ、ゴミ掃除係」
彼らの足音が遠ざかっていく。香水の甘い香りが、一瞬だけ鼻をかすめ、すぐにまた自分の体から発する下水の臭いにかき消された。
私はしばらくの間、水浸しの地面に這いつくばったまま動けなかった。
悔しい。悲しい。どうして私は、こんな扱いを受けなければならないのか。父である国王は、なぜ私を助けてくれないのか。
(泣くな。泣いても何も変わらない)
心の中で自分を叱咤し、濡れた体を抱き起こす。
配管は直した。今夜の晩餐会で、王宮の暖房が止まることはないだろう。彼らがぬくぬくと快適に過ごせるのは、私が泥にまみれているからだ。
誰も知らなくてもいい。私は私の仕事をした。それだけが、今の私を支える唯一の誇りだった。
重い足取りで裏庭を抜け、使用人用の狭い通路を通って自室へと戻る。
私の部屋は、塔の最上階にある屋根裏部屋だ。夏は蒸し風呂のように暑く、冬は凍えるように寒い。広さはベッドと小さな机を置けば足の踏み場もないほど。
それでも、ここだけが私が一人になれる安息の地だった。
桶に溜めた水で体を拭き、継ぎ接ぎだらけの普段着に着替える。鏡に映った自分の顔は、疲労で青白く、目の下には隈ができていた。母譲りの銀色の髪も、輝きを失いパサついている。
「……お母様。私は、いつまで耐えればいいの?」
小さな窓から見える星空に問いかける。もちろん、答えは返ってこない。
その時だった。部屋の扉が乱暴に叩かれたのは。
「リリアナ様! リリアナ様、起きておいでですか!」
慌てた様子で飛び込んできたのは、古参の侍女長であるマーサだった。彼女は王宮内で唯一、私を気遣ってくれる数少ない味方だ。
「マーサ? どうしたの、そんなに慌てて」
「大変です、陛下が……国王陛下がお呼びです! すぐに執務室へ参れとの仰せです!」
心臓が大きく跳ねた。
父が、私を呼んでいる?
国王である父とは、公式の場で遠くから姿を見ることはあっても、個人的に言葉を交わしたことは数えるほどしかない。正妃の実家である公爵家の権力が強すぎるため、父は庶子である私に関わることを避けているのだと、幼い頃から聞かされてきた。
その父が、なぜ今になって私を呼ぶのか。
まさか、先ほどの正妃たちとの一件で、何か処罰が下されるのだろうか。
「……分かりました。すぐに行きます」
不安を押し殺し、私はマーサに整えてもらった髪を撫でつけ、部屋を出た。
夜の王宮は静まり返っている。長い廊下を歩く自分の足音だけが、やけに大きく響いた。
重厚な扉の前に立つ近衛兵が、私を見て微かに眉をひそめる。すぐに表情を消して扉を開けたが、その一瞬の侮蔑の眼差しにも、私はもう慣れてしまっていた。
「入れ」
扉の向こうから、低く重みのある声が響いた。
執務室の中は、書類の山と魔導書で埋め尽くされていた。その中央にある巨大な執務机の向こうに、国王フリードリヒが座っている。
父は書類から目を離さず、ペンを走らせていた。私は部屋の中央まで進み、深く頭を下げた。
「お呼びにより参上いたしました、陛下」
「……面を上げよ」
ゆっくりと顔を上げる。父の瞳は冷ややかで、何の感情も読み取れない。その表情は、先ほどの正妃たちが見せた悪意とは違う、もっと底知れない「無」のようなものだった。
父の隣には、宰相と数人の高官が控えている。その空気は張り詰めており、まるで裁判の場に引き出されたような圧迫感があった。
「リリアナ。お前に王命を下す」
父は淡々とした口調で切り出した。
「来月より、隣国であるガルガディア帝国へ留学せよ」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出た。
留学? 私が?
ガルガディア帝国といえば、ここから海を隔てた東の大国だ。軍事力と魔導技術において世界をリードする強国だが、徹底した実力主義で知られ、我が国とは政治的な緊張関係にある。
それに、王族としての教育を一切受けていない私が留学など、正気とは思えない。
「あ、あの……それは、どういう……」
「言葉通りの意味だ。あちらの皇帝とは話がついている。王立魔導学院への入学許可も取り付けた。お前はそこで、我が国の代表として学ぶことになる」
父の言葉に、私は混乱した。
王族としての教育を受けていない私を、他国の、それも緊張関係にある大国の学院へ送る? それは「留学」という名の、事実上の「追放」ではないのか。
あるいは、厄介者である私を体好く追い出すための口実なのか。
「……正妃殿下は、ご存知なのでしょうか」
「あやつも了承している。『薄汚い娘が目の前から消えるなら、どこへでも行けばいい』とな」
父は隠そうともせずにそう言った。その言葉の刃が、胸に深く突き刺さる。
やはり、そういうことか。
正妃にとって私は目障りな存在。そして父にとっても、正妃との関係を波風立てないためには、私は邪魔なだけなのだ。
今まで、どんなに冷遇されても、いつか父は私を見てくれると信じていた。いつか「よく耐えた」と頭を撫でてくれる日が来ると、淡い期待を抱いていた。
けれど、現実は残酷だ。父は私を守るためではなく、切り捨てるために動いたのだ。
「……承知いたしました。謹んで、お受けいたします」
私は震える声で答えた。拒否権などないことは分かっている。
それに、この王宮で一生泥にまみれて生きるよりは、見知らぬ土地で野垂れ死ぬ方がマシかもしれない。そう自暴自棄に考えるしかなかった。
「出発は三日後だ。準備をしておけ」
「はい」
もう、話すことはない。そう思って踵を返そうとした時だった。
「待て」
父が私を呼び止めた。
振り返ると、父は立ち上がり、机の引き出しから一本の万年筆を取り出した。
黒檀で作られた、古めかしいが手入れの行き届いた万年筆だ。軸には王家の紋章が彫り込まれているが、使い込まれて金箔が剥げかけている。
父は机を回り込み、私の目の前まで歩いてきた。
間近で見上げる父は、記憶よりもずっと大きく、そして老けて見えた。目元には深い皺が刻まれ、その瞳の奥には、先ほどまでは感じなかった奇妙な光が宿っているように見えた。
「これを持っていけ」
父は私の手に、無理やりその万年筆を握らせた。
ひんやりとした金属の感触と、父の手の温もりが同時に伝わってくる。
「これは……?」
「私が即位する前、学生時代に使っていたものだ。古いものだが、魔力伝導率は悪くない」
父は私の目を真っ直ぐに見つめた。その視線は鋭く、私の心の奥底まで見透かすようだ。
「リリアナ。お前はこの城で、誰よりも王宮の『下』を見てきたはずだ」
「……はい」
「華やかな舞踏会の床下で何が起きているか。美しい噴水の水を循環させるために、どれほどの泥が必要か。お前はそれを知っている」
父の声が、わずかに震えているように聞こえた。それは怒りなのか、それとも別の感情なのか、私には分からなかった。
「帝国は厳しい土地だ。だが、あそこでは血筋や身分は意味をなさない。あるのは『何ができるか』という実力のみだ」
父の手が、私の肩を強く掴んだ。痛いほどに。
「よく見て、学びなさい。表面の輝きではなく、その本質を。お前が泥の中で培った目が、必ず役に立つ時が来る」
「父、上……?」
「行け。もう二度と、この腐った王宮(おり)には戻ってくるな」
父は突き放すように私の肩から手を離し、背を向けた。
その背中は拒絶を示しているようで、しかしどこか、泣いているようにも見えた。
私は呆然とその背中を見つめていたが、宰相に促され、深く一礼して部屋を後にした。
廊下に出ても、手のひらに残る万年筆の感触が消えなかった。
『腐った王宮には戻ってくるな』
父の最後の言葉が、頭の中で何度も反響する。
あれは、私を追放する言葉だったのか。それとも、私を逃がすための言葉だったのか。
今の私には、まだ分からない。
ただ確かなのは、私がこの国を去る日が決まったということだけだった。
***
三日後の早朝、私は最低限の荷物だけを持って王宮の裏門に立っていた。
見送りはマーサと、下水掃除の仲間だった数人の老婆たちだけだ。正妃や兄はもちろん、父の姿もなかった。
空はどんよりと曇り、冷たい小雨が降っている。まるで私の門出を悲しんでいるのか、それとも嘲笑っているのか。
「リリアナ様、どうかお達者で……! 向こうでも、ご飯をちゃんと食べるんですよ」
「ありがとう、マーサ。みんなも元気でね」
涙ぐむマーサを抱きしめ、私は迎えに来た質素な馬車に乗り込んだ。王家の紋章すら入っていない、ただの辻馬車だ。最後まで、私は王女として扱われることはなかった。
馬車が動き出す。ガタガタと揺れる車窓から、遠ざかる王宮を見上げた。
灰色の空の下、尖塔が威圧的に聳え立っている。あの中で私は生まれ、泥にまみれ、そして捨てられた。
もう未練はない。そう自分に言い聞かせても、胸の奥が張り裂けそうに痛かった。
私は懐から、父に渡された万年筆を取り出した。
使い込まれた黒檀の軸を指でなぞる。微かに、父の愛用していたインクの匂いがした気がした。
「……行ってきます」
誰にともなく呟き、私は万年筆を胸に抱きしめた。
私の目には、もう涙はなかった。あるのは、冷たく燃えるような決意だけだ。
泥の王女は死んだ。
帝国で何を学び、何を得るのかはまだ分からない。けれど、もう二度と誰にも踏みつけられない力を手に入れる。
いつか必ず、私を嘲笑った者たちを見返してやる。
馬車は雨の中、東へと続く街道を走り去っていく。
泥濘(ぬかるみ)の道に残った轍は、やがて雨に洗われて消えていった。
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