忘却の博物館
桜月夜
I
揺れる赤色。1歩踏み出す。
縦横無尽に巡るカラスの声。
真っ赤に燃え上がる夕焼け。
風の冷たさも今はどうでもよかった。
何も感じない。なんで存在しているんだろう。
消えてしまえ、誰も気づかないよ。
誰かが叫んだ。
私はひとりだ。
そして彼女はひとりそこに居た。
古びた大きな時計の前に彼女はうずくまっていた。顔を上げて辺りを見回すが、見知らぬ景色だけが広がっている。何か声を発しようと口を開く。しかしそこから言葉が発せられる前に声が降ってきた。
「いらっしゃいませお客様。どう言ったご用件で?」
慌てて見回すが人影は見当たらない。
「おや、申し訳ない。私はこの建物そのものなのさ。ある変わり者が山の中に博物館を建てた。時間が経つにつれて私は忘れ去られ、思い出されることはなくなった。そしていつの間にか私はこの空間に建つ記憶の博物館になったんだ。」
その声は不思議と心を落ち着かせてくれる。
「どうやら君は...まだ生きているのに連れてこられたようだね。どうやらイレギュラーが発生したようだ。仕方ないのさ。記憶とは不確かなものだから。」
声はこの場所について説明してくれた。
ここは『忘却の博物館』というらしい。大切な人に忘れ去られた存在が集められ、展示されている。もし何かのきっかけで思い出されたら、博物館からは消え本来あるべき場所に戻る。死んでから思い出し、共に天界に旅立つために探しに来る者も幾らか居るそうだ。
ここには見境なく色々な存在がある。実体を持つ物はもちろん、記憶や思い出も展示されている。時には生き物でさえも招かれるという。
「君がここに来たのはあながち間違いではないのかもしれないね。君は大切な何かを忘れている。それを見つけられたらここから出られるかもしれない。」
博物館はそう言った。するとひらりと目の前に紙が降ってくる。彼女が不思議そうにそれを拾うと、最後にこう言った。
「忘れないように名前を書いておきなさい。名前を持つものはこの博物館から出る権利があるから。...では、幸運を祈っている。」
彼女はその声に従って紙に名を書いた。
『
守られた未来を生きられますように、誰かの未来を守ることができる人になりますように。そんな願いが込められていると随分昔に教えてもらった。その両親はもう居ないのだが。
紙を折りたたんでポケットに入れる。
さて、どうしようか。
実のところ、ずっとここに居てもいいと思っていた。帰っても孤独に苛まれた日常が待っているだけ。今の守未に生きる理由は見つけられなかった。
とは言ってもここにずっと居ても思考は回り続ける訳で、孤独から逃れられる訳ではない。じゃあここから出て確実に終わらせた方がいい。その結論に至ると手始めにその辺を歩いてみることにした。
ボロボロになってよれたぬいぐるみ、すっかり色褪せた絵画。歪んで擦り切れたチェスボード。片脚が欠けた椅子。
統一感はないが綺麗に並べられたそれらは静かにそこに鎮座していた。先程の話が本当ならば、この物達は全て誰かの忘れた物なのだろう。
時折人も見かけた。彼らはひとつずつ丁寧に見ていき、やがて立ち止まると手に取った。そして心底幸せそうな顔をしたり安心したような顔をするのだ。
迷子の子供が母親を見つけたように、くしゃっと表情を崩して笑うのだ。忘れられて、でもずっと待ち続けている。少し自分に似ていると思った。
宛もなくぶらぶらと歩いていると、木製の長机に青い表紙の分厚い本が置かれているのを見つけた。金色の装飾は少し錆びている。試しに開いてみるとそこには誰かの日記のようなものが書かれていた。それも1人の人間ではなく、複数で書いたもののようだった。
「気になるのかい?」
突然声を掛けられて守未はばっと振り返る。するとロングコートを羽織った男性が立っていた。
「すまない、驚かせてしまった。俺はトワ。説明を聞いたならわかると思うけれど、『忘れ去られた作家』さ。」
トワはそう言って頭を下げる。
「...守未です。」
つられて名乗る。すると彼はふわっと笑った。
「名前を覚えているのはいいことだ。忘れないようにしなさい。」
「貴方も名前あるじゃないですか。」
「俺のはペンネームさ。本名はすっかり忘れてしまった。だからここから出ることはできない。」
そう言う彼に悲壮感はなかった。むしろどこか楽しんでいるようだ。
「帰りたいと思わないんですか?」
「ん?もう俺は死んでいるからね。こんな非現実的な世界にいられるならそっちの方がずっといい。」
結構居心地いいんだよね、ここ、と言ってトワはぐるりと見渡した。つい、現実のことを考えて守未の表情が暗くなる。不謹慎だがトワのことを羨ましく思った。それに気づいてか否か彼がペンを差し出した。
「この本は何を書いてもいい。まあ、感情や思い出の置き所って感じだ。...何かあったなら書いてみるといい。文字にすることで心が少し軽くなるかもしれない。」
促されて、守未はペンを手にとった。そのまま、ずっと心を支配していた言葉を書きつける。
『お兄ちゃんが死んだ。』
想いが溢れてきて止まらなくなり、気づけば夢中で書き連ねていた。
兄は
璃音は病気だった。
風の噂で聞いたのは、その病気のせいで両親がいなくなってしまったこと。でも何処か同情できて責められずにいた。だって自分たちの息子が絶対に死んでしまう病気に罹っていたら、その悲しみから逃げたくもなるだろう、と。
知っていたのだ。兄が自分よりも先にいなくなってしまうこと。わかっていたはずなのに、いざ現実になったら受け入れられなかった。天涯孤独になった私を可哀想だと言う人の声も、助けようと手を伸ばしてくれる人の声もノイズにしか聞こえなかった。
振り払って必死に顔を背けた。取り繕って表向きは平気なフリをした。強いね、頑張っているね。そんな声ににっこり笑って。両親が戻ってきてくれるんじゃないかと待っていた時期もある。でもいつまで経っても戻ってくることはなかった。私達兄妹は完全に見放されてしまったという事実を突きつけられた。辛くて、寂しかった。でも次第に何も感じなくなった。深海に沈んだみたいに真っ暗で、生きているのではなく死んでないだけってこういうこと言うのかと思った。
ぽたぽたと紙の上に染みができた。無意識のうちに泣いていたようだ。そんな守未をトワは見守っていた。そしてそっと近づくとぽんと頭に手を置いた。
「悲しいことがあったんだね。こんなヘンテコな場所に来たのにやけに落ち着いているなと思ったんだ。...君は心が死んでしまったから、ここに来たんだな。」
心が死んだ。
そうか、そうなんだ。守未は酷く納得した。何も感じなくなって、悲しいも寂しいも薄くなった、同時に嬉しいも楽しいもなくなってしまった。それは心が死んでしまったからなんだ。
「でもまだ君自身は死んでいない。きっと君が来たのは、心のどこかで生きていたいと思っているからさ。」
トワを見上げると、彼は優しく微笑んだ。
「思い出してごらん?時間を掛けてもいい。お兄さんとのあたたかい思い出を。絶対あるはずだ。今の君に見えていないだけだよ。」
守未は涙を拭って目を閉じる。今なら何か掴める気がした。
暗い記憶を掻き分けて、小さな頃の私の背を追う。兄が、璃音がいた頃の日常。短い時間だったけれど何もなかったはずがない。そうじゃないとこんなに寂しくも、悲しくも、ならないはず。
そうだよ、ここは「忘却の博物館」。私が忘れてしまっているのならここにあるのではないか...?
思い出せ。記憶の奥に深く潜り込んでいく。
守未の前にあった青い本がひとりでにパラパラと捲れる。そしてぴたりと止まるとキラキラと輝きを放って文字が浮き上がった。
……
「お兄ちゃん!」
白い部屋に声が響いた。ベットの上の少年が振り返ってパッと顔を明るくした。
「守未!来てくれたんだ?」
璃音は笑顔で守未を迎える。病院には毎日通っていた。学校終わりに行くのであまり長い時間居ることはできないけれど、とても幸せな時間だった。
「楽しく生きて、たくさん思い出作って。そして僕に教えてね。」
ある時、璃音はそう言った。
「外の世界を教えてくれるのは守未だけだ。だからすっごく楽しいんだ。」
守未は兄が喜んでくれるのが嬉しかった。
「わかった。たくさん思い出作る!お兄ちゃん、またお話聞いてね」
約束!と小指を立てた守未に軽く目を瞬かせると、心の底から幸せそうな顔をして自分の小指を絡めた。
「うん。約束。」
あたたかい思い出。
私と現実を繋いでいた細くて見えなくて、でも強い糸。知らないうちに支えてくれていた小さな約束。
「思い出した...」
呆然としながら呟く。何故忘れてしまっていたのかわからないくらいに大切な約束。
守未は忘却していた大切なものを思い出した。
何処かで鍵の開く音がする。
「おめでとう。君は見つけられた。」
トワが肩を叩いた。そしてすっとある方向を指差す。そこには今までなかったはずの扉があった。木製の豪勢な扉。
「あそこから現実世界に帰ることができる。道中は決して後ろを振り返ってはいけないよ。振り返ったら戻れなくなる。」
「私は……」
咄嗟に守未の口から言葉が零れた。トワが首を傾げる。
「私は、現実に帰って生きることができるでしょうか…」
守未には自信がなかった。思い出を見つけることはできたけれど、それがより兄がもう居ない事実を突きつけてきて、また自分は生きることをやめようとするのではないか、と。不安げな彼女に彼は言う。
「大丈夫だ。君はそんなに弱くない。その思い出は君が生きるのを助けてくれる。絶対に。」
何故そう断言できるのかと思う守未にトワは言葉を重ねる。
「何故断言できるんだ、って言う顔しているね。...今は上手く説明できないけれど、本当だ。俺は知ってる。本当だよ。」
根拠のない言葉だけれど、それは背中を押してくれる気がした。守未は小さく頷くと扉の方に歩み寄る。やけに大きくて威圧感があるが、そっと押すとそれはすんなり開いた。1歩後ろに立つトワが言う。
「そのまま真っ直ぐ進みなさい。そうすれば現実に戻ることができる。」
「……ありがとうございました。」
守未はぺこりと頭を下げた。約束を思い出すきっかけをくれたトワに。そして忘れていた約束を護っていてくれたこの博物館に。
彼は笑ってひらりと手を振る。
「お役に立てて何よりだよ。君の人生が意味を見い出せるものになることを祈っている。…また、こんな所に迷い込まないようにね。」
その言葉を受け取ると守未は扉を押して博物館の外に出た。長い廊下が続いている。壁に付けられたライトが守未が通り過ぎたところから消えていく。ひたすら前を向いて歩き続けた。胸に手を当ててぎゅっと握る。見つけた大切な約束を掴むように。独りぼっちじゃない。大丈夫。
だんだん視界が明るくなっていく。眩しくて思わず目を閉じた。
カァー、カァー、
耳に飛び込んできたのはカラスの声。恐る恐る目を開ければ燃えるような夕焼けがアスファルトに反射していた。
「帰って来られた...?私は...」
突然の悲鳴のようなクラクションの音に思わず身を引く。トラックが目の前を走り去り、風で前髪が乱された。
ようやく自分が赤信号になった横断歩道に足を踏み入れていたことに気づいた。慌てて歩道に戻る。固唾を飲んで見ていたのであろう人達が安堵するのがわかった。
『楽しく生きて、たくさん思い出作って。そして僕に教えてね。』
誰かとした約束。それが心の中で灯火となって燃えていた。その言葉だけが確かにそこにあって、守未を支えてくれる気がした。暗い絶望がいつの間にか晴れていることに気づく。
私は生きなくては。いえ、私はこの約束のために生きたい。
信号が青になり、守未は歩いていく。その足取りに迷いはない。
心に残った僅かな空白が何なのかは分からない。それでもひとつだけ確信があった。それが守未を前に進ませる。
「私は1人だけれど、独りじゃない。」
……コツ、コツ
足音が響く。1人の少年が1冊の本の前で立ち止まる。金色の装飾が施された青い無地の分厚い本。この本はただの思い出を書き記す日記帳ではない。
この本は思い出を置いていく場所だ。
形なき存在を文字にして残す。本来は勝手に記入されていくものだが、それは直接書いても同様の意味を持つ。
パラパラと捲ってとあるページでふと手を止めた。
「彼女が前に進むのを邪魔してしまうのなら、忘れられて構わない。」
少年は呟く。その声は何処か守未に似ていた。ふっと笑う。
「それに、きっとアイツはまた僕を探しに来る。」
この本に置いていけるのは形の無いものだけ。形のあるものは残っているはずだから、きっといつかは気づく。そうしたら彼女はまた探しにやって来るだろう。そのページを愛おしそうに撫でた。
「…またね守未。思い出、待ってるよ。」
桜木守未が書いた記憶により、桜木璃音は招かれた。
ここは『忘却の博物館』
大切な人に忘れられた全ての存在が集まる場所。
...或いは大切な人との再会を待つ場所。
忘却の博物館 桜月夜 @Hoshi910
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