「金勘定など下賤」と蔑む義母と義姉へ。あなた方の優雅な生活、全て私の『汚れた金』が支えております〜平民公爵夫人の家政改革〜

@jnkjnk

第1話:沈みゆく泥船と、誇り高き乗客たち

分厚いベルベットのカーテンの隙間から、埃っぽい陽光が差し込んでいる。歴史あるラヴァン公爵家の朝は、重苦しい静寂とともに始まるのが常だった。磨き上げられたマホガニーの長テーブルには、銀食器だけが無意味に輝き、肝心の料理は冷え切ったスープと、端の乾いたパンだけ。それが、この屋敷の「若奥様」である私、エレナに用意された朝食の全てだ。


使用人たちは私の背後を無言で行き交うが、誰一人として目を合わせようとはしない。彼らが悪いわけではない。この屋敷の真の支配者である義母、ベアトリス先代公爵夫人が、「平民上がりの娘に傅く必要はない」と厳命しているからだ。


私は音を立てないよう慎重にスプーンを動かし、冷たいポタージュを口に運んだ。味はしない。ただ、胃の中に何かを入れておかなければ、今日という戦場を生き抜けないことだけは分かっていた。


「あら、まだ居たの? 空気のような存在かと思ったら、案外しぶといのね」


食堂の扉が乱暴に開かれ、甲高い声が静寂を切り裂いた。現れたのは、豪奢なレースをふんだんに使ったドレスを纏った義姉、ソフィアだ。一度嫁いだが、その浪費癖が原因で離縁され、実家であるこの公爵家に出戻ってきている。


彼女の後ろから、扇子を優雅に揺らしながら義母のベアトリスがゆっくりと入ってきた。その視線は、道端の汚物を避けるかのように私を舐める。


「おはようございます、お義母様、義姉様」


私は椅子から立ち上がり、完璧なカーテシーを見せた。王城の礼法教師からも褒められた所作だが、彼女たちの目には滑稽な猿芝居にしか映らないらしい。義母は鼻を鳴らし、私の挨拶を完全に無視して上座の席についた。


「ねえお母様、今度のサロンのことなんだけれど」


ソフィアが私の存在などなかったかのように、焼きたてのクロワッサン――私には提供されないものだ――を千切りながら話し始めた。


「わかっているわ、ソフィア。ラヴァン公爵家の威信にかけても、他家に見劣りするような真似はできませんものね」

「でしょう? 先日の侯爵家のサロンなんて酷いものだったわ。出し物が古臭い弦楽四重奏だけだなんて。私たちはもっと華やかに、そうね、東方の国から珍しい舞姫を呼ぶのはどうかしら? それと、飾り花はすべて温室育ちの白薔薇で統一して……」


彼女たちが口にする計画は、夢物語のように華やかで、そして悪夢のように金がかかるものばかりだった。私は心の中で、その出費を瞬時に計算する。舞姫の招聘費用、季節外れの白薔薇の調達コスト、それに伴う会場設営費、招待客への土産物……。


ざっと見積もっても、金貨五百枚は下らない。


「あの、お義母様。少しよろしいでしょうか」


私は意を決して口を挟んだ。義母の柳眉がピクリと跳ね上がる。


「……何かしら? 食事中に、小銭の音がするような声を聴きたくはないのだけれど」

「今月の家計についてですが、先日の夜会での出費が嵩んでおり、これ以上の支出は……」

「お黙りなさい!」


義母の鋭い声が響き、給仕をしていたメイドがびくりと肩を震わせた。


「貴女、自分が何を言っているのか分かっていて? 公爵家の社交は、国の文化そのものなのよ。それを『出費』だの『嵩む』だの、商人の帳簿みたいな物差しで測るなんて、浅ましいにも程があるわ」

「ですが、現状のままでは使用人への給金も遅配する恐れがあります。それに、領地の補修工事も控えておりまして……」

「だから! それを何とかするのが、貴女の実家の役目でしょう?」


ソフィアが口元のパン屑をナプキンで拭いながら、蔑むような視線を投げつけてくる。


「大手貿易商だか何だか知らないけれど、平民が公爵家に娘を嫁がせられたのよ? その名誉に対する対価を払うのは当然じゃない。お父様に手紙を書きなさいよ。『公爵家が困っています、すぐにお金を送りなさい』ってね」


彼女たちの論理はいつもこうだ。公爵家という「ブランド」に嫁がせてやったのだから、その維持費は嫁の実家が負担すべきだという、あまりにも身勝手な理屈。


「父からの持参金は、すでに屋敷の修繕と、お義父様の借金返済に充てられました。これ以上の援助は、実家の経営にも関わります。それに、公爵家としても、自領からの収入でやりくりをするのが筋かと存じますが」


私が努めて冷静に正論を述べた、その時だった。


バシャッ、という冷たい音と共に、視界が歪んだ。

顔から首筋、そして質素なドレスの胸元にかけて、水が滴り落ちる。冷たい感触に息を呑むと、目の前には、空になったグラスを手にした義母が立っていた。


「……口答えをするなんて、いい度胸ね」


義母の手は震えていた。怒りで。


「汚らわしい。本当に汚らわしいわ。金、金、金! 貴女の口からは腐った銅貨の臭いしかしないのよ! そんなに金が惜しいなら、貴女が着ているそのみすぼらしいドレスでも売ればいいじゃない!」

「お母様、やめて差し上げて。水が勿体ないわ。その女にかけるくらいなら、庭の雑草にあげたほうがまだ有意義よ」


ソフィアが甲高い声で嘲笑う。義母はハンカチで指先を神経質に拭うと、汚いものを見る目で私を見下ろした。


「さっさと下がりなさい。貴女がいると、食事が不味くなるわ。サロンの予算は必ず用意すること。それができなければ――この屋敷に貴女の居場所なんてないと思いなさい」


滴る水を拭うことも許されず、私は無言で一礼し、食堂を後にした。背後から聞こえる高笑いが、廊下にまで響いてくる。


惨めだった。悔しかった。けれど、不思議と涙は出なかった。

濡れたドレスが肌に張り付く不快感を覚えながら、私は自室には戻らず、真っ直ぐに屋敷の奥にある「開かずの間」――もとい、埃被った執務室へと向かった。


そこはかつて、まともな当主たちが領地経営を行っていた場所だ。しかし、今の当主である夫のアレクセイは気弱で両親に頭が上がらず、義父のベルンハルトは隠居を決め込んで趣味の絵画収集に没頭しているため、この部屋は長らく使われていなかった。


重い扉を押し開けると、カビと古紙の匂いが鼻をつく。私はランプに火を灯し、ドレスが濡れていることなど気にも留めず、山積みになった書類の山へと手を伸ばした。


「……泣いている暇なんてないわ」


私はエレナ。大陸一の貿易商と言われた父の娘。

数字は嘘をつかない。感情で喚くあの人たちとは違う。


机の上に広げたのは、私が密かに書き留めていた「裏帳簿」ではなく、屋敷の公式な出納帳と、義父たちが隠しているつもりで隠しきれていない借用書の写しだ。


ページを捲るたびに、頭痛がするような数字が並んでいる。

義母のドレス代、月額金貨八十枚。

義姉の宝石購入費、月額金貨六十枚。

義父の絵画購入費、不定期だが一度に金貨三百枚以上。

対して、領地からの税収は年々減少しており、現在の公爵家の金庫は空っぽどころか、底が抜けている状態だ。


「……マイナス、マイナス、借入、また借入……」


父がこの帳簿を見たら、卒倒するか、あるいは激怒して公爵家の人間を全員海に沈めるかもしれない。これは経営ではない。ただの破滅への行進だ。


商人の娘として、幼い頃から叩き込まれた感覚が警鐘を鳴らしている。このままでは、あと半年も持たない。公爵家は破産し、爵位は返上、路頭に迷うことになるだろう。そうなれば、私を嫁がせた実家の顔にも泥を塗ることになる。


それだけは、絶対に阻止しなければならない。


「あら、そこにいたのかい?」


扉の方から間延びした声が聞こえ、顔を上げると、義父のベルンハルトが立っていた。手には真新しい、梱包されたばかりの絵画を抱えている。


「お義父様……」

「いやあ、素晴らしい出会いがあってね。新進気鋭の画家の作品なんだが、光の表現が絶妙で……。ああ、そういえば画商が支払いの件で後で来ると言っていたから、エレナちゃん、適当に処理しておいてくれ」

「お義父様、申し上げにくいのですが、もうこれ以上の支払いは不可能です。金庫には何も残っていません」


私は立ち上がり、毅然と告げた。しかし、義父は困ったように眉を下げ、子供のような言い訳を口にする。


「そんな堅いことを言わないでくれよ。芸術は心の栄養だ。それに、私はもう隠居した身だからね。金の話はアレクセイか、私の妻にしておくれ。私には難しくて分からないよ」


そう言うと、彼は逃げるように部屋を出て行ってしまった。都合が悪くなるとすぐに「分からない」「隠居した」と逃げる。この屋敷には、責任を取る大人が一人もいないのだ。


私は深いため息をつき、濡れたドレスの袖を強く握りしめた。

怒りを通り越して、冷徹な覚悟が胸の奥で固まっていくのを感じる。


夜になり、夫のアレクセイが王城での勤めを終えて帰宅した。

彼は私の部屋に入ってくるなり、私の濡れて乾いたドレスの惨状に気づき、青ざめた表情で駆け寄ってきた。


「エレナ! その服はどうしたんだ!? まさか、また母上が……」

「アレクセイ様」


私は夫の狼狽を遮るように、静かに、しかし力強くその名を呼んだ。

彼は優しく、誠実な人だ。私を愛してくれていることも知っている。けれど、優しさだけでは何も守れない。


「座っていただけますか。大切なお話があります」


普段とは違う私の剣幕に押され、アレクセイは大人しくソファに腰を下ろした。私は彼の間近に立ち、先ほどまで整理していた書類の束――公爵家の破滅を証明する書類――をテーブルの上に叩きつけた。


「これは……」

「我が家の現状です。ご覧ください。赤字、借金、未払い金の山。お義母様たちは今朝、さらに金貨五百枚のサロン開催費用を要求されました。お義父様は今日も新しい絵画を購入されています」


アレクセイの手が震えながら書類を捲っていく。彼の顔から血の気が引いていくのが分かった。彼は薄々気づいてはいただろう。だが、見て見ぬふりをしていた現実を、私は数字という凶器で突きつけたのだ。


「そんな……これほどまでとは……」

「アレクセイ様。はっきり申し上げます。このままでは、半年以内にラヴァン公爵家は破産します。貴族籍を剥奪され、私たちは全てを失うでしょう」

「破産……」


彼は絶望的な顔で頭を抱えた。


「父上も母上も、いくら言っても聞く耳を持ってくれないんだ。僕が言っても『親に意見するのか』と怒鳴られるだけで……僕はどうすれば……」

「方法なら、あります」


私は一歩前に踏み出し、夫の目を見据えた。


「私に、家政の全権を委任してください」

「全権?」

「はい。金庫の管理、領地経営の決定権、使用人の人事権、そして――お義父様やお義母様の支出を凍結する権限も含めて、全てです」


アレクセイは目を見開いた。それは親への完全な反逆を意味する。親孝行で気弱な彼にとって、それはあまりにも重い決断だろう。


「で、でも、そんなことをしたら母上たちが黙っていない。君がもっと辛い目に遭うかもしれないんだぞ!?」

「今でも十分に辛い目に遭っていますわ」


私は少しだけ微笑んでみせた。それは自嘲気味だったかもしれない。


「アレクセイ様。貴方は私を守りたいとおっしゃってくださいましたね? その言葉が真実なら、私に武器をください。権限という名の武器を。私は商人の娘です。泥にまみれて金を稼ぐことの尊さも、苦しさも知っています。この傾いた家を立て直せるのは、貴族の矜持に縛られた方々ではなく、金勘定ができる私だけです」


アレクセイは長い沈黙の後、苦しげに顔を歪め、そしてゆっくりと私の手を取った。その手は冷たかったが、確かに強く握り返してきた。


「……すまない。僕が情けないばかりに、君にこんな役回りを……」

「謝罪は不要です。必要なのは、貴方の署名と印章だけ」


私は懐から、あらかじめ用意していた委任状を取り出した。

アレクセイは震える手でペンを取り、しかし最後には決意を込めて署名をした。


インクが紙に染み込んでいく様を見つめながら、私は心の中で誓った。

お義母様、義姉様。あなた方は私を「金のことしか考えない卑しい女」と罵りましたね。

ええ、その通りです。私はその卑しいやり方で、あなた方の優雅な生活の首根っこを押さえて差し上げます。


「ありがとう、アレクセイ様」


委任状を胸に抱き、私は窓の外の闇を見つめた。

明日から、本当の戦いが始まる。

「金勘定など下賤」と蔑む彼女たちに、その下賤な金がなければ一日たりとも生きられない現実を、骨の髄まで教えてあげるのだ。


私の口元には、自然と冷ややかな笑みが浮かんでいた。それはきっと、今まで見せたことのない、商売敵を追い詰める時の父と同じ顔だったに違いない。

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