汚れた天秤

@raputarou

汚れた天秤

第一章


私の名前は水原麻衣。三十二歳、地方新聞『東陽日報』の社会部記者だ。


「水原さん、これ見てください」


デスクの向かいに座る後輩の田中が、興奮した様子でモニターを指差した。画面には、市の入札情報が表示されている。


「新庁舎建設の入札結果です。落札したのは桐生建設。でも、他の応札企業との価格差が異常に小さいんです。まるで事前に調整されたみたいに」


私は眉をひそめた。桐生建設——市長の親族が経営する中堅ゼネコンだ。


「落札率は?」


「九十八・二パーセント。予定価格とほぼ一致しています」


それは限りなく黒に近い灰色を意味していた。


その日の夕方、私は市役所に向かった。古い友人で、現在は市の財政課に勤める佐々木に会うためだ。学生時代からの付き合いで、彼女は数少ない信頼できる情報源の一つだった。


喫茶店で待っていると、佐々木が慌てた様子で入ってきた。いつもの落ち着いた雰囲気とは違う。


「麻衣、ごめん。今日は長く話せない」


彼女は声を潜めた。


「でも、あなたに伝えておきたいことがある。新庁舎の入札、おかしいのよ。予定価格の算定に関わった職員が、急に異動になったの。建設部の古川さん。二十年以上、同じ部署にいた人が、突然、環境課に」


「それっていつ?」


「入札の三日前」


私の背筋が冷たくなった。


「古川さんに話を聞けないかしら?」


佐々木は首を横に振った。


「それが……彼、今、休職中なの。精神的に参っているって」


私たちの会話を遮るように、佐々木の携帯が鳴った。画面を見た彼女の顔が蒼白になる。


「市長室から。私、戻らなきゃ」


立ち上がろうとする佐々木の腕を、私は掴んだ。


「ねえ、あなた何か知ってるんじゃないの?」


彼女は私の目を見つめ、小さく頷いた。


「入札情報が漏れてる。でも証拠がないの。証拠を掴める人間は……」


そこで言葉を切り、佐々木は店を出て行った。


その夜、私は古川という人物について調べた。五十五歳、妻と大学生の息子が一人。真面目一筋で通っている職員だと、複数の関係者が証言していた。そんな人間が突然休職するとは。


翌朝、私は古川の自宅を訪ねた。郊外の静かな住宅街。インターホンを押すと、疲れた様子の中年女性——おそらく妻だろう——が出てきた。


「古川さんのご主人にお話を伺いたいのですが」


「取材はお断りしています」


扉が閉まりかけた瞬間、奥から男性の声がした。


「誰だ?」


「新聞記者だそうです」


しばらく沈黙があった後、扉が開いた。やつれた中年男性が立っていた。


「……何の用ですか」


「新庁舎の入札について、お話を」


古川の顔が強張った。


「私は何も知りません。お引き取りください」


「でも、あなたは予定価格の算定に——」


「知らないと言っているでしょう!」


彼は叫び、扉を閉めようとした。その時、私は彼の手首に痣を見た。新しい、紫色の痣が。


「それ、どうしたんですか?」


古川は慌てて袖を引っ張り、何も言わずに扉を閉めた。


帰り道、私の携帯が鳴った。田中からだ。


「水原さん、大変です。桐生建設の社長、桐生隆志が記者会見を開くそうです。今から三十分後」


「何の会見?」


「それが……入札の不正疑惑に対する説明だって」


私は走り出した。




第二章


会見場は報道陣で溢れていた。私が到着した時、すでに桐生隆志は壇上にいた。六十代半ば、白髪交じりの髪を撫でつけた、いかにも地方の名士といった風貌だ。その隣には、市長の北條誠一が座っていた。


「本日は、一部で報道されております入札に関する疑惑について、事実をご説明させていただきます」


桐生の声は落ち着いていた。


「当社は正当な手続きに則り、適正な価格で入札に臨みました。予定価格に近い金額での落札となったことで憶測を呼んでおりますが、これは当社の長年の実績と、緻密な積算能力の賜物です」


隣で北條市長が頷いている。


「また、一部で報じられている情報漏洩については、断固として否定いたします。当社と市の関係は、あくまで——」


「質問があります」


私は手を挙げた。桐生が私を見る。


「東陽日報の水原です。入札の三日前に、予定価格の算定担当だった古川課長補佐が突然異動し、その後休職しています。このタイミングについて、どうお考えですか?」


会場がざわついた。桐生の表情が一瞬強張る。


「それは市の人事の問題であり、当社には関係ありません」


「では市長にお伺いします」


私は北條に視線を向けた。


「古川氏の異動と休職の理由を教えてください」


北條は不快そうに眉をひそめた。


「個人のプライバシーに関わることはお答えできません。ただ、人事は適切に行われています」


「古川氏の身に何かあったのではないですか? 私が確認した限り、彼の腕には新しい痣がありました」


会場が静まり返った。北條の顔が紅潮する。


「根拠のない憶測で人を中傷するのはやめていただきたい。本日の会見はこれで終了します」


そう言うと、北條と桐生は足早に会場を後にした。


その夜、私は編集長の大塚に呼び出された。五十代後半、この道三十年のベテランだ。


「水原、今日の会見での質問、やりすぎだ」


「でも、明らかにおかしいじゃないですか」


「証拠はあるのか?」


私は黙った。確かに、決定的な証拠はない。状況証拠だけだ。


「いいか、水原。俺たちは事実を報道する仕事だ。憶測で記事は書けない。今回の件は、もう少し慎重に進めろ」


「……わかりました」


オフィスを出ると、田中が待っていた。


「水原さん、これ」


彼が差し出したのは、一通の封筒だった。


「さっき、受付に届いたんです。水原さん宛で」


封筒を開けると、中には一枚の写真と手紙が入っていた。


写真には、桐生と市の幹部職員らしき男性数人が、料亭で酒を酌み交わしている様子が写っていた。日付は、入札の一週間前。


手紙にはこう書かれていた。


『真実を知りたければ、旧工業団地の廃倉庫に来てください。明日の夜十時。一人で。——正義を求める者より』


「罠かもしれません」


田中が心配そうに言った。


「でも、これが本物なら——」


私は写真を見つめた。もし、これが証拠になるなら。


その時、私の携帯が鳴った。佐々木からだった。


「麻衣、大変なの。古川さんが……古川さんが、自殺未遂したって」




第三章


病院の廊下は、消毒液の匂いが充満していた。


古川は集中治療室にいた。妻が待合室で泣き崩れている。私が声をかけると、彼女は顔を上げた。


「あなた……記者の」


「すみません。でも、お話を聞かせていただけませんか」


彼女は疲れ果てた目で私を見た。


「主人は……主人は追い詰められていたんです」


そう言って、彼女は話し始めた。


入札の二週間前、古川は深夜に帰宅するようになった。いつもと違う様子に妻が問い詰めると、彼は「仕事のことで少し問題がある」とだけ言った。


そして入札の四日前の夜、古川は帰宅すると震えていた。腕には痣があった。


「殴られたの?」と妻が聞くと、古川は首を横に振った。


「自分で……壁に打ちつけた」


「なぜそんなことを?」


「言えない。絶対に誰にも言えない」


それから三日後、古川は突然異動を命じられた。そして、その夜から口をきかなくなった。食事も喉を通らず、夜も眠れない。精神科を受診すると、重度の鬱状態と診断された。


そして今朝、妻が目を覚ますと、古川は浴室で手首を切っていた。


「主人は何かに怯えていました。でも、何も話してくれなかった」


妻の言葉に、私の胸が締め付けられた。


病院を出ると、佐々木が待っていた。


「麻衣、私も限界なの」


彼女の目は充血していた。


「私、知っていたのよ。入札情報が漏れていることを。でも、証拠がなかった。証拠を掴もうとした人間は、みんな……」


「みんな?」


「去年、同じようなことがあったの。公共事業の入札で不正の疑いがあった。それを調査しようとした監査課の山岡さんが、突然辞職したの。家族ごと、この街を出て行った」


私は息を呑んだ。


「それって——」


「脅されたのよ。確実に。山岡さんの奥さんは、辞める前に私に言ったわ。『この街では生きていけない』って」


佐々木は震える手で携帯を取り出した。


「これ、見て」


画面には、メッセージが表示されていた。


『余計な詮索はやめろ。家族のことを考えろ』


「いつ来たの?」


「今日の昼。会見の直後」


私たちは凍りついた。


その夜、私は警察に相談することを考えた。しかし、市長と警察署長は旧知の仲だ。まともに取り合ってもらえるかどうか。


そして明日の夜十時、旧工業団地の廃倉庫。


田中は強く反対した。


「危険すぎます。警察に一緒に行ってもらうべきです」


「でも、『一人で来い』って」


「だからこそですよ。罠かもしれない」


私も怖かった。正直に言えば、行きたくなかった。でも、このまま何もしなければ、古川のような犠牲者が増えるだけだ。


翌日、私は一日中、不正の証拠を探し続けた。桐生建設の過去の受注実績、市との契約内容、関係者の証言。しかし、決定的なものは何も見つからない。


午後八時、私は自宅に戻った。シャワーを浴び、着替える。鏡に映る自分の顔は、疲労で青白い。


午後九時三十分、私は車で出発した。旧工業団地は市の外れにある。かつては工場が立ち並んでいたが、今は廃墟と化している。


暗い道を車で進むと、前方に廃倉庫のシルエットが見えた。


私は車を止め、懐中電灯を手に倉庫に近づいた。錆びついた扉が、わずかに開いている。


中に入ると、広い空間が広がっていた。月明かりが、壊れた窓から差し込んでいる。


「……誰かいるんですか?」


私の声が、倉庫内に反響した。


返事はない。


その時、背後で音がした。


振り返ると、そこには——




第四章


桐生建設の営業部長、西田が立っていた。


「西田さん……?」


五十代前半、細身で神経質そうな男だ。彼の手には、厚い封筒が握られていた。


「水原さん、よく来てくれました」


西田の声は震えていた。


「あなたが? 手紙を送ったのは?」


彼は頷いた。


「私には、もう時間がありません。だから、これをあなたに」


そう言って、西田は封筒を差し出した。中には、大量の書類が入っていた。


懐中電灯で照らすと、それは入札に関する内部資料だった。予定価格の詳細、他社の入札予定額、そして——市の幹部と桐生建設の間で交わされた密約の記録。


「これは……」


「すべての証拠です。古川さんを追い詰めたのも、山岡さんを辞職に追い込んだのも、すべて社長の指示でした」


西田の目に涙が浮かんでいた。


「私は、最初は知らなかったんです。でも、気づいてしまった。そして、気づいたら共犯者になっていた。古川さんに予定価格を聞き出せと命じられたのは私でした」


「どうやって?」


「脅迫です。古川さんの息子さんが、ある事件に巻き込まれたことがあって。それをネタに」


私は言葉を失った。


「でも、古川さんは最後まで抵抗した。だから、社長は直接……暴力を使った。そして、口封じのために異動させた」


西田は震える手で、もう一枚の写真を取り出した。


そこには、桐生が古川の腕を掴み、壁に押し付けている姿が写っていた。


「これは……」


「私が撮りました。いつか、これを告発する日のために」


その時、倉庫の入口で車の音がした。ヘッドライトの光が、倉庫内を照らす。


西田の顔が蒼白になった。


「まずい……尾行されていたのか」


車から降りてきたのは、二人の男だった。がっしりとした体格で、明らかに普通の人間ではない。


「西田、何をしている」


一人が低い声で言った。


「社長の命令で、お前を連れ戻しに来た」


西田は私の腕を掴んだ。


「逃げてください! その資料を、必ず——」


男たちが走ってきた。私は封筒を抱えて、倉庫の奥へと走った。


暗闇の中、足元の瓦礫につまずきながら、必死に逃げる。背後から、男たちの足音が迫ってくる。


倉庫の裏口を見つけ、外に飛び出した。そのまま、茂みに身を隠す。


男たちの声が聞こえた。


「どこに行った?」


「探せ! 資料を取り返すんだ!」


私は息を殺して、じっとしていた。心臓が激しく打っている。


しばらくして、男たちは倉庫の中に戻って行った。私はその隙に、茂みを抜けて駐車場に向かった。


車に乗り込み、エンジンをかける。アクセルを踏み、全速力で走り出した。


バックミラーを見ると、男たちが倉庫から飛び出してきた。しかし、もう追いつけない距離だ。


私は市内に戻り、田中に電話をかけた。


「田中、今から行くから。絶対に一人にならないで」


「水原さん、何があったんですか?」


「説明は後。とにかく、待ってて」


田中の自宅に着くと、彼は青い顔で待っていた。


「これを見て」


私は封筒を開け、資料を広げた。


田中の目が見開かれた。


「これは……決定的な証拠じゃないですか」


「そう。でも、西田さんが……」


私は倉庫での出来事を話した。


「すぐに警察に届けましょう」


田中が言ったが、私は首を横に振った。


「警察署長は市長の息がかかっている。下手に動けば、証拠を握り潰されるかもしれない」


「じゃあ、どうするんですか?」


私は考えた。そして、一つの決断をした。


「記事にする。明日の朝刊で、すべてを暴露する」


「でも、編集長は——」


「編集長を説得する。この証拠があれば、大塚さんだって動かざるを得ない」


私たちは徹夜で記事を書き始めた。事実を、証拠を、すべて紙面に載せる。


しかし、夜中の二時、私の携帯が鳴った。


番号は非通知。


恐る恐る出ると、低い男の声が聞こえた。


「水原麻衣だな。いい加減にしろ。お前の母親が、今どこにいるか知っているか?」


私の血の気が引いた。


「母に……何をした?」


「まだ何もしていない。だが、お前が余計なことをすれば——」


電話は切れた。


私は震える手で、実家に電話をかけた。


呼び出し音が鳴り続ける。


出ない。


もう一度かける。


やはり出ない。


「水原さん……」


田中が心配そうに見ている。


私の頭の中で、すべてが渦巻いていた。


正義か、家族か。


その時——




第五章


インターホンが鳴った。


私と田中は顔を見合わせた。夜中の三時に、誰が。


恐る恐るモニターを見ると、そこには佐々木が立っていた。そして、その隣には——母がいた。


私は慌ててドアを開けた。


「お母さん!」


母は無事だった。ただ、怯えた様子で私にしがみついてきた。


「麻衣……怖かったわ。突然、知らない男が家に来て」


佐々木が説明した。


「私、あなたのお母さんを保護したの。さっき、匿名の通報があって。『水原の母親が狙われている』って」


「誰から?」


「わからない。でも、その通報のおかげで、間一髪で間に合った」


私は母を抱きしめた。


佐々木は続けた。


「麻衣、もう限界よ。警察も、市役所も、みんな腐ってる。でも、あなたには武器がある」


彼女は私が広げた資料を見た。


「それを、世に出して」


私は頷いた。


「必ず」


夜明け前、私は編集長の大塚に電話をかけた。叩き起こされた大塚は不機嫌そうだったが、事情を話すと、すぐに出社すると言った。


午前五時、編集部に大塚が現れた。私は資料のすべてを見せた。


大塚は黙って目を通していた。ページをめくるたびに、その表情が厳しくなっていく。


最後の一枚を読み終えると、彼は深く息を吐いた。


「……本物か」


「はい」


「西田はどこにいる?」


「わかりません。でも、彼が命がけで渡してくれたものです」


大塚は腕を組んだ。


「これを載せれば、この街は大騒ぎになる。市長は辞職、桐生建設は倒産。影響を受ける人間は数百人じゃ済まない」


「でも——」


「だが」


大塚は私を見た。


「それが、俺たちの仕事だ。権力の腐敗を暴く。それが新聞記者の使命だ」


彼は立ち上がった。


「一面トップで行く。水原、お前が書け。田中、写真の選定を頼む」


私たちは動き出した。


記事は午前八時に完成した。見出しは『市長・大手建設会社の癒着を示す内部文書 入札不正の全貌』。


証拠の写真、西田の証言、古川の件、すべてを載せた。


午前九時、輪転機が回り始めた。


そして午前十時、新聞が配達され始めた。


反応は即座だった。


市役所に報道陣が殺到し、市長は緊急記者会見を開いた。しかし、証拠を突きつけられた北條は、何も答えられなかった。


桐生建設の本社前にも、カメラが集まった。


午後二時、警察が動いた。検察と合同で、市役所と桐生建設に家宅捜索が入った。


北條市長と桐生隆志は、その日のうちに逮捕された。


そして夕方、西田が警察署に自首した。彼は無事だった。


「あの後、ビジネスホテルに隠れていました」


西田は疲れた顔で言った。


「でも、もう逃げるのはやめようと思って」


彼の証言で、事件の全貌が明らかになった。


入札の不正は、五年前から組織的に行われていた。市長と桐生建設が結託し、公共事業を独占。その見返りに、市長は多額の賄賂を受け取っていた。


邪魔な人間は、脅迫や暴力で排除された。古川や山岡は、その犠牲者だった。


一週間後、古川は意識を回復した。私が病室を訪ねると、彼は小さく微笑んだ。


「ありがとうございます」


「私は何も」


「いえ、あなたが諦めなかったから。私は……もう、あの地獄から解放されました」


彼の目には、涙が浮かんでいた。


事件から一ヶ月。市議会は解散し、市長選が行われることになった。桐生建設は破産し、関係者は次々と逮捕された。


この街は、ゆっくりと変わり始めていた。


ある日、編集部に一通の手紙が届いた。差出人は、西田だった。


『水原さんへ。


私は今、すべてを失いました。仕事も、地位も、自由も。

でも、一つだけ手に入れたものがあります。

それは、良心です。


あの夜、あなたに資料を渡した時、私は初めて人間らしい気持ちを取り戻しました。

長い間、私は自分を偽り続けてきました。

でも、もう終わりにします。


これから先、長い裁判が待っています。

でも、私は真実を語り続けます。

それが、私にできる唯一の償いだから。


ありがとうございました。


西田より』


私はその手紙を、大切に机の引き出しにしまった。


窓の外では、新しい朝が始まろうとしていた。


この街は傷ついた。多くの人が犠牲になった。


でも、それでも人は、正義を求め続ける。


真実は、いつか必ず明らかになる。


そして私たちは、その真実を伝え続ける。


たとえ、どんな困難があろうとも。


それが、新聞記者としての、私の使命だから。


私は新しい取材ノートを開き、ペンを走らせ始めた。


次の真実を、追い求めて。

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