赤い街

須戸コウ

赤い街

あれからどれくらい日がたっただろう?


週末はとうに過ぎたが、俺は学校には行かず、ベッドの上に寝そべって、灯りのついていない天井の照明をぼんやりと眺めている。


それすらも今はうっとうしい。俺は目をつぶり、動かすのも面倒に思いながら、自分の腕で目元を覆った。


暗い視界の中に、あの日の情景が浮かび上がってくる。


心を抉り取るような、悲鳴にも似た少年の泣き叫ぶ声。

焦燥と絶望が混じった警官たちの顔。


手のひらを滑る血の、生ぬるい感触。



――友だちの死。



現実味のない映像のはずなのに、やけに鮮明に思い出せるその光景が、それを現実のものだと突きつけてくる。


最後はいつも友だちが死の間際に見せた、あの心底安心しきったような微笑みを思い出す。

俺はその微笑みの意味がわからなくて、理由を探してまた映像の最初に記憶を巻き戻す。

それをずっと繰り返す。


どうしてこんなことになってしまったんだろう?

どうすればよかったんだろう?


…………。



もう夕方だ。


「兄ちゃん、大丈夫? 無理しちゃダメだよ」


頭の中で弟の優しい声が響いた。


……わかっている。

ずっとこうしているわけにはいかないんだ。


そろそろみんなが帰ってくる時間だ。もうこれ以上迷惑はかけたくない。


せめて外面だけでも前を向こう。


俺はけだるい体を無理やり動かしてキッチンに向かい、冷蔵庫の中を物色する。

俺は母ちゃんに、今から買い物に行くことをメッセージアプリで伝えてから家を出た。



外はもう、だいぶ日が落ちてきている。


目に映るものすべてがやけに濃い茜色に映る。いつもなら「綺麗だ」なんて思うのかもしれないが、今の俺にはへばりつく様な赤が心底気色悪い。


いっそ早く日が落ちてしまえばいいのに。


俺はまぶしくて目をそむけたくなる夕日を睨みつけて、早く消えろと心の中で悪態をついた。


でもすぐに、自分のしていることがくだらなく思えてくる。


車のブレーキ、人が行き交う足音と話し声。すべてがいつもより騒がしく感じる。

俺は周りの景色も騒音も感じないで済むように、左右交互に進んでいく自分の靴先をぼんやり見つめ、その靴音だけに意識を集中させて歩く。


…………。



コツン……コツン……コツン……。



自分の足音が耳の中で反響する。


スーパーには行きなれている。下を見ていたってたどり着けるだろう。

そう思っていたのに……。



コツン……コツン……コッ。



俺は足を止めた。



――赤。



目を背けたはずの気色の悪い夕日が、足元にいくつも転がっていた。


……なんだこれ?


その疑問はすぐに解消された。俺の中に根強く残るあの記憶が、すぐにそれがなんなのか正確に導き出したからだ。


血だ。



足元に無数の小さな血だまりが飛び散っている。


なんでこんなところに……?


心臓が跳ねる。


俺はゆっくりと視線を足元からあげていく。


あたり一面、血の池だ。


人……人……血にまみれた無数の人が、地面に転がっている。


それを認識した途端、頭に騒音が響く。


車のクラクション。黒板を引っ掻いたような、耳障りな急ブレーキの音。衝突音。人の泣き叫ぶ声、怒鳴り声。すべてが一斉に押し寄せる。



「あっ……あああああああ……!」


自分の声も騒音の一つとなって重なる。


なんだよこれ! 何が起きてるんだよ!


包丁を持った男が叫びながら、逃げ惑う人々を刺している。


通り魔!?


違う! それだけじゃない。


店の看板のようなものを振り回して車を破壊する人。

血を吐きながら殴り合う人。

倒れている人の頭をコンクリートブロックで何度も打ち付けている人。

ありとあらゆる破壊行為が目の前で行われている。


まるでニュースで見た海外の暴動のような……いや、それ以上に残酷で、もう取り返しのつかないような何かが目の前で行われている。


怖い……。


たじろいだ足の踵が血だまりを踏んで、ぴちょんと小さな音を鳴らす。


「……!」


いやだっ! 怖い! 気持ち悪いっ!


耳に届いたその小さな音から遠ざかるため、俺は俯きながら走り出した。


早く……早くここから離れたい!


俺は夕日から逃げるように走る。


だが、走っても走っても行く先々で視界の端に赤色が映る。


人の叫び声も怒鳴り声も、何かわからないものがガシャガシャと壊されていく音も、すべて心臓に突き刺さるように響いて俺の恐怖心を煽る。


せめてこの音が聞こえない静かなところにっ!


俺は滲んだ視界の中を必死に泳いで、音のしない方へ音のしない方へと進んでいく。



早く……早く……っ!


やがて小さな公園にたどり着いた。ここには人はいない。耳を引き裂く様な嫌な音も、ときどきどこか遠くで他人事のように聞こえてくる程度だ。


気持ちを少し落ち着かせたい。


公園内の一番近くのベンチに腰を掛ける。一呼吸おいて少し前を見上げると、公園中央にある、夕日を跳ね返して赤く染まった滑り台が真っ先に目に入った。


また心臓がピクリと跳ねる。


すぐにただの滑り台だと理解したが、今はそれすら視界に入れたくない。

俺は恐る恐る公園内を見渡し、滑り台の奥、公園の隅に植えられた木を見つけた。

あそこなら少し落ち着けるかもしれない。


俺は足早に木のところまで移動すると、道路側から見えないよう、木の裏に回り込んで座り込んだ。


足元には少し硬めの土の地面、前を向いても公園の塀があるだけだ。ここには心をざわつかせるものは何もない。


俺は目をつぶって数回深呼吸をした後、膝を抱えてそのまま顔をうずめる。


…………。


やっと少し気分が落ち着く。


少し落ち着いた頭で、最初に浮かんだのは『どうしてこんなことになっているのか』という疑問だった。

数日家から出ていなかったが、それでも1週間は経っていない。

そんな短い期間で、街中で暴動や殺人が起こるなんてどう考えてもおかしい。

今朝も家族と会話したが、こんな状況になっているなんて話は出ていない……。


「……!」


俺の心臓がまたドクドクと激しく脈打つ。


颯真! 一真兄ちゃん! 母ちゃん! 父ちゃん!


自分が逃げることだけに気を取られて、それ以外に気がまわっていなかった。


みんなちゃんと無事なのか!?


心臓の鼓動がどんどんうるさくなる。早く無事を確かめたい!


俺はポケットからスマホを取り出そうとするが、手がまるで自分の手じゃないみたいに冷たくかじかんでいて、力が入らず上手く取り出せない。焦れば焦るほど時間がかかる。

やっとの思いでスマホをつかみ取り、すぐに颯真に電話をかける。


……つながらない!


何度かけてもつながらない!



発信中のコールすら鳴らず、すぐにプーップーッっと接続が切れてしまう。


なんで!


苛立ちながらスマホの画面を確認する。電波は圏外になっていた。


「クソッ!」


俺はすぐに立ち上がり、家への道を全力で駆け走る。


この時間ならもう家に帰っているかもしれない! もしいなかったら学校に!


どこを探すか考えながら、とにかく前に突き進む。

もう周りの景色も騒音も、どうでもよかった。ひどく憎たらしく感じていた夕日も、今は沈まないでいてほしい。みんなを探しづらくなる。


とにかく今はみんなの無事を知りたい。



頼む……! 無事でいてくれ……!



…………。



やっとの思いで家にたどり着いた。

走ってきた勢いのままリビングに駆け込む。


――そして俺は見た。



知らない男が、知らない女を殴り殺しているところを。



最初に見たとき、それが一瞬母ちゃんと父ちゃんに見えた。でもすぐにそれが別人だと気づいた。

父ちゃんがそんなことするわけないし、母ちゃんがあんな風に、顔が見えなくなるほどグチャグチャな姿にされるわけがない。


でも、だったらどうしてこの人たちは俺の家にいるんだろう?

頭の中に疑問が浮かぶが、その間もまだ、男は女にまたがり顔を殴り続けている。

あんなに勢いよくリビングに俺が入ってきたっていうのに、男は全然俺に気づかず殴り続けている。

まるでネジを回して動くおもちゃを見ているようだ。


気づかれていないならまぁいい。

このまま家を出て颯真たちを探しに行こう。


俺は殴り続ける“おもちゃ”に背を向けて、リビングを出ようとする。


だが、すぐに違和感を覚えて足を止める。


さっきまで同じ間隔で続いていた、おもちゃの音が聞こえなくなったからだ。

ゆっくりと振り返る。


さっきまで女に跨っていた男がこちらを見つめて立っている。


瞳孔が開いた男と目が合う。

いや、目が合っているかわからない。

男は確実にこちらを見ているはずなのに、まるで俺の後ろにいる何かを見ているようにも思えてくる。


目を見ただけでわかる。この男はやばい。

「どこに行くんだ?」


瞬きひとつしない男が声を発しながら、こちらに近づいてくる。


……ダメだ。


たぶんこの男はここでなんとかしておかないと。俺の家族に危害が及ぶ。


男が一歩近づく。


コイツはここで、俺がなんとかしないと。


男がまた一歩近づく。


俺がやらなきゃいけないんだ。



ドカッ……!



俺は近づいてくる男の顔面を力一杯に殴る。


男は一撃で後ろに倒れ込む。床に頭をぶつけたのか、鈍い衝撃音がリビングに響く。


「う……うぅ……!」


男が呻き声を上げる。まだ動いている。まだ息がある。


俺がなんとかしないと!


床の上に転がっている男は、俺が殴った右頬を手で押さえながら「うーうー」と唸っている。俺は男に跨り、もう一度顔面を狙って拳を入れる。


「ぐはぁ!」


男がまた奇声を上げている。まだ動いている。まだ息がある。


コイツをこのままにしておけない。


もし俺が学校に探しに行っている間に家族が帰ってきて、コイツと鉢合わせでもしたら大変だ。


俺はまた、男の顔面を殴る。


「うぅ!」


男がまた変な声を漏らす。まだ動いている。まだ息がある。


コイツをこのままにしておけない。


俺はまた……。


「……うぅ!」


男がまた短くうめく。まだ息がある。


「……うっ」


だんだん男の声が小さくなってきた。

いい調子だ。


このまま声が聞こえなくなるまで。

男の身体が動かなくなるまで続けよう。

俺は一定の間隔で男を殴り続ける。

あれ? どこかでこの光景を見た気がする。



「あああああああああああ!」



突然、リビングの入り口の方で新しい声が響いた。


……颯真だ。


よかった、無事だったんだ。


「母ちゃんっ! 父ちゃんっ!」


颯真が泣き叫ぶような声で叫ぶ。


そうか、颯真も俺と同じように勘違いしているんだ。


違うんだ颯真。

コイツらは母ちゃんと父ちゃんじゃない。


ちゃんと説明して安心させてあげないと……。


俺は馬乗りになっている男が動かなくなったことを確認してから、颯真の方へ近づく。


だが、颯真は俺が近づくとなぜか後ずさってしまう。


「どこに行くんだ?」


俺は颯真に声をかける。

こんな状況で怖がるのも無理はない。


でも、もう大丈夫だ。俺がお前を守ってやる。


颯真は俺の呼びかけには答えず、リビング入り口横のカウンターキッチンの中に入る。


ドタドタ、ガシャガシャ。


戸棚にぶつかったり開いたり、金属同士が擦れたような耳障りな音が響き渡る。


やっぱりまだ気が動転しているんだ。


ちゃんと説明してあげないと……。


俺は颯真を追いかけるようにカウンターキッチンへ近づく。


そして、

「ああああああああああああああああああああああああああああ!」


颯真がでかい声を出しながら俺に近づいてきた。


瞬間、キッチン横の柱や壁に赤色の斑点模様が散らばる。


なんだこれ?


考える間もなく、呼吸が苦しくなる。

息ができない!

喉が苦しい!


苦しい箇所を見遣ると、喉に包丁が突き刺さっていた。

苦しい! 息ができない! 喉が熱い!

まるで心臓が喉に移動したみたいにドクドク脈打っていて、血がどんどん溢れ出している。


「な……ん……でっ……颯真……っ」


もう喋れなくなる。俺は最後の力を振り絞って颯真に問いかけた。


颯真はなにも応えてくれない。


意識が遠のく中で俺が最後に見たのは、弟が肩を振るわせながら怯えたように泣いている姿だった。


真っ暗な視界の中、すすり泣く声に混じって颯真の小さな声が聞こえた。



「……あなた……誰ですか?」




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