母の背中
@raputarou
母の背中
第一章 電話
深夜十一時、スマートフォンが鳴った。
私の名前は佐藤美咲。三十五歳、都内の広告代理店で働くキャリアウーマンだ。一人暮らしで、仕事中心の生活を送っている。
「もしもし?」
電話の相手は、弟の健太だった。
「姉さん、母さんが倒れた」
心臓が止まりそうになった。
「え? どういうこと?」
「脳梗塞。今、病院にいる。父さんも来てる」
私は、すぐに実家のある横浜に向かった。
実家とは、五年間ほとんど連絡を取っていなかった。理由は――母との確執だった。
病院に着くと、待合室に父と健太がいた。
「美咲、来てくれたのか」
父は、疲れた表情で言った。父の名前は佐藤正夫。六十五歳、定年退職した元会社員だ。
「母さんは?」
「集中治療室。まだ意識が戻らない」
健太が説明した。健太は三十二歳、実家近くでIT関係の仕事をしている。既婚で、妻の由美と二人暮らしだ。
「原因は?」
「過労とストレスだって」
健太の言葉に、私は胸が痛んだ。
母の名前は佐藤千鶴子。六十三歳、専業主婦だった。だが最近は、祖母の介護をしていると聞いていた。
「おばあちゃんは?」
「今、叔母さんが見てる」
父が答えた。
祖母——母の実母である田中静江——は八十七歳で、認知症を患っていた。ここ二年、母が一人で介護していた。
「なんで、もっと早く助けを求めなかったの」
私は、誰にともなく呟いた。
「母さん、頑固だからな。誰にも頼りたくないって」
健太が苦笑した。
その時、医師が出てきた。
「佐藤千鶴子さんのご家族ですか?」
「はい」
父が立ち上がった。
「一命は取り留めましたが、右半身に麻痺が残っています。リハビリが必要です」
医師の言葉に、私たちは息を呑んだ。
「いつ、意識は戻りますか?」
「早ければ明日には」
医師が去った後、沈黙が続いた。
「これから、どうする?」
健太が尋ねた。
「母さんの介護と、おばあちゃんの介護......二人分だぞ」
父が頭を抱えた。
「私、仕事があるから......」
私は、言い訳をした。
健太も言った。
「俺も、由美も働いてるし......」
私たちは、現実から目を背けようとしていた。
その時、父が言った。
「美咲、お前、実家に戻ってこないか?」
第二章 帰郷
「え? 実家に?」
私は、信じられないという表情で父を見た。
「無理だよ、父さん。仕事があるし」
「分かってる。でも、母さんには誰かが必要だ」
父の目には、涙が浮かんでいた。
「健太は家庭があるし、俺は母さんの介護とおばあちゃんの世話で手一杯だ」
「でも......」
「頼む、美咲。せめて、母さんが回復するまででいい」
父の懇願に、私は何も言えなくなった。
翌日、母が意識を取り戻した。
「千鶴子、分かるか?」
父が、母の手を握った。
母は、ゆっくりと頷いた。だが、右手は動かなかった。
「美咲も来てるぞ」
父が言うと、母は私を見た。
その目には、複雑な感情が浮かんでいた。
五年前、私は母と大喧嘩をして家を出た。
理由は、私の生き方だった。
「女は結婚して、家庭を持つべきだ」
母はそう言い続けた。だが、私は仕事を優先したかった。
「母さんみたいになりたくない」
私がそう言った時、母は深く傷ついた表情を見せた。
それ以来、私たちは疎遠になった。
「母さん......」
私は、何を言えばいいか分からなかった。
母は、小さく首を振った。
まるで、「来なくていい」と言っているようだった。
病室を出ると、健太が待っていた。
「姉さん、決めた?」
「......一ヶ月だけ。それ以上は無理」
「ありがとう」
健太が、安堵の表情を浮かべた。
こうして、私は五年ぶりに実家に戻ることになった。
実家は、小さな二階建ての一軒家だった。
玄関を開けると、懐かしい匂いがした。
「ただいま......」
誰もいない家に、私は呟いた。
リビングには、祖母が座っていた。
「おばあちゃん、私よ。美咲」
祖母は、私を見たが、誰か分からない様子だった。
「あなた、誰?」
認知症が、かなり進んでいた。
「母さんの娘だよ」
「千鶴子の? ああ、そう」
祖母は、すぐに興味を失った様子で、テレビを見始めた。
私は、二階の自分の部屋に上がった。
部屋は、五年前のまま残っていた。
本棚には、大学時代の教科書や、昔読んだ小説が並んでいる。
ベッドに座り、深く息を吐いた。
「一ヶ月......耐えられるかな」
その夜、父が帰ってきた。
「美咲、来てたのか」
「うん。おばあちゃん、見てた」
「ありがとう。夕飯、作ったから一緒に食べよう」
父が作った夕飯は、簡単なカレーだった。
「母さん、料理上手だったのにな」
父が、しみじみと言った。
「これから、どうするの?」
「リハビリ病院に転院する。三ヶ月くらいかかるって」
「三ヶ月......」
私の一ヶ月という期限は、意味をなさなかった。
「美咲、母さんのこと、恨んでるか?」
父が、突然尋ねた。
「......分からない」
「母さんはな、お前のことをずっと心配してたんだぞ」
「心配? 私の生き方を否定してたくせに」
「それは、お前に幸せになってほしかったからだ」
父の言葉に、私は何も答えられなかった。
その時、祖母が部屋から出てきた。
「千鶴子、ご飯まだ?」
祖母は、私を母と間違えていた。
「おばあちゃん、私は美咲だよ」と言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。
第三章 日常の重み
翌朝、私は早起きして祖母の世話を始めた。
「おばあちゃん、朝ご飯だよ」
祖母は、ぼんやりとした表情で座っていた。
「あなた、誰?」
「美咲よ。千鶴子の娘」
「ああ、そう」
祖母は、食事を始めた。だが、途中で手が止まった。
「これ、誰が作ったの?」
「私よ」
「千鶴子は?」
「母さんは、入院してるの」
「入院? なぜ?」
同じ会話を、一日に何度も繰り返した。
昼間、私は会社にリモートワークの許可を申請した。
上司は、渋々了承してくれた。
「一ヶ月だけですよ、佐藤さん」
「はい、ありがとうございます」
だが、心の中では不安だった。
本当に一ヶ月で済むのか?
午後、健太が妻の由美を連れて訪ねてきた。
由美は二十九歳、優しそうな女性だった。
「初めまして、美咲さん。いつも健太がお世話になってます」
「こちらこそ」
由美は、祖母の世話を手伝ってくれた。
「おばあちゃん、お茶どうぞ」
「ありがとう。あなた、誰?」
「由美です。健太の妻」
「健太? ああ、あの子」
祖母は、健太のことは覚えているようだった。
夕方、健太が私を呼んだ。
「姉さん、ちょっと話がある」
二人で外に出た。
「実は、由美が妊娠してるんだ」
「え? 本当?」
「ああ。三ヶ月」
「おめでとう!」
私は、心から祝福した。
「でも、それで困ったことがあって......」
健太の表情が曇った。
「由美、つわりがひどくて。だから、おばあちゃんの世話、あまり手伝えないんだ」
「そっか......」
「ごめん、姉さん。負担が増えて」
私は、健太の肩を叩いた。
「気にしないで。赤ちゃんのこと、大事にしてあげて」
だが、心の中では焦りが募っていた。
母の介護、祖母の世話、そして仕事。
全てを一人で背負うのは、無理だ。
その夜、父と話した。
「父さん、私、限界かも」
「そうか......」
父も、疲れた表情だった。
「施設に入れることを考えてるんだ。母さんとおばあちゃん、両方」
「でも、お金は?」
「貯金を使う。年金もあるし、何とかなるだろう」
翌日、私たちは介護施設を見学に行った。
清潔で、スタッフも親切だった。
「ここなら、安心できそうです」
施設長が説明してくれた。
だが、費用は高額だった。
「月に二十万円......」
父が、ため息をついた。
「二人分だと、四十万円。年金だけじゃ足りない」
私は、提案した。
「私も、少し出すよ」
「美咲、いいのか?」
「家族だもん」
父が、涙ぐんだ。
「ありがとう、美咲」
その時、私のスマホが鳴った。
母の病院からだった。
「佐藤千鶴子さんが、リハビリ中に転倒されました」
第四章 母の涙
病院に駆けつけると、母はベッドに横たわっていた。
「大丈夫ですか?」
医師に尋ねた。
「骨折はありませんが、打撲がひどいです。リハビリは一時中断します」
母は、悔しそうな表情だった。
「母さん......」
私が声をかけると、母は顔を背けた。
「一人にして」
母の声は、弱々しかった。
病室を出ると、父が廊下で待っていた。
「母さん、落ち込んでるな」
「うん......」
「美咲、母さんと話してくれないか? お前の方が、母さんの気持ち分かるかもしれない」
私は、躊躇したが、再び病室に入った。
母は、窓の外を見つめていた。
「母さん、私だけど」
「......」
母は、答えなかった。
「何か、話したいことある?」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、母が小さな声で言った。
「私、役立たずになっちゃった」
「そんなことない」
「右手、動かない。歩くのも、誰かの助けが必要。こんなんじゃ、おばあちゃんの世話もできない」
母の目から、涙が流れた。
「私、おばあちゃんを守らなきゃいけないのに」
私は、初めて母の弱い姿を見た。
いつも強く、私に厳しかった母が、今は涙を流している。
「母さん、一人で抱え込まないで」
「でも......」
「私たちがいるでしょ。父さんも、健太も、私も」
母は、私を見た。
「美咲、ごめんね」
「え?」
「あなたの生き方、否定して。でも、私、怖かったの」
「怖い?」
「あなたが、一人で生きていくのが。女一人で生きるのは、大変だから」
母の言葉に、私は驚いた。
「母さん......」
「私ね、若い頃、夢があったの。デザイナーになりたかった」
母は、遠い目をした。
「でも、結婚して、あなたたちを産んで、専業主婦になった。それが、悪いとは思わない。幸せだったから」
「うん......」
「でも、時々思うの。もし、デザイナーになっていたら、どうなってたかなって」
母の告白に、私は言葉を失った。
「だから、あなたには私みたいになってほしくなかった。でも、それが逆にあなたを苦しめてたのね」
私の目からも、涙が溢れた。
「母さん、私、分かってなかった」
「いいの。私も、あなたの気持ち分かってなかったから」
母と私は、五年ぶりに心を通わせた。
「母さん、一緒に頑張ろう。リハビリも、おばあちゃんの世話も」
「美咲......ありがとう」
母が、左手で私の手を握った。
その夜、私は父と健太に報告した。
「母さんと、和解した」
「本当か!」
健太が喜んだ。
「良かったな、美咲」
父も、安堵の表情だった。
「それで、これからどうする?」
「施設は、やっぱり入れよう。でも、母さんがリハビリで回復したら、また考えよう」
私の提案に、みんなが頷いた。
数日後、祖母を施設に入れた。
祖母は、最初は戸惑っていたが、徐々に慣れていった。
「ここ、いいところね」
祖母が、珍しく笑顔を見せた。
母も、リハビリ病院に転院した。
私は、毎日のように母を訪ね、リハビリを励ました。
「頑張って、母さん」
「うん、頑張る」
母の右手は、少しずつ動くようになってきた。
そして、三ヶ月後——
第五章 新しい家族の形
母が、退院した。
右手はまだ完全には動かないが、日常生活には支障がないレベルまで回復していた。
「ただいま」
母が、実家の玄関をくぐった。
「おかえり、母さん」
私と父と健太が、出迎えた。
リビングには、由美もいた。お腹が大きくなっていた。
「お義母さん、おかえりなさい」
「由美ちゃん、お腹大きくなったわね」
母が、優しく微笑んだ。
その日の夜、家族全員で食卓を囲んだ。
私が作った料理を、みんなが美味しそうに食べてくれた。
「美咲、料理上手になったな」
父が言った。
「この三ヶ月、毎日作ってたからね」
「母さんに教わったのか?」
「ううん。YouTubeで勉強した」
みんなが笑った。
食事の後、母が言った。
「美咲、ありがとう。三ヶ月も、こっちにいてくれて」
「いいよ、母さん。私も、色々学んだから」
「仕事、大丈夫?」
「うん。来週から、東京に戻る」
少し寂しそうな表情を浮かべた母に、私は言った。
「でも、週末は帰ってくるよ。母さんや、おばあちゃんに会いに」
母が、涙ぐんだ。
「ありがとう」
健太が言った。
「姉さん、来月、出産予定なんだ。その時、また来てくれる?」
「もちろん! 叔母さんになるんだから」
由美も嬉しそうだった。
「美咲さん、お願いします」
その夜、私は自分の部屋で荷造りをしていた。
ノックの音がして、母が入ってきた。
「美咲、ちょっといい?」
「どうしたの?」
母は、古い写真を持っていた。
「これ、あなたが小さい頃の写真」
写真には、幼い私と母が写っていた。
「可愛かったわね」
「母さんも、若いね」
「そうね。この頃は、子育てに必死だった」
母は、懐かしそうに写真を見つめた。
「美咲、あなた、幸せ?」
「うん。今は、幸せだよ」
「そう......良かった」
母が、私の手を握った。
「これからも、自分の道を歩いていいからね。私、応援してるから」
「ありがとう、母さん」
私たちは、抱き合った。
一年後
健太と由美の子供——男の子——が生まれた。
名前は、太郎。
私は、週末ごとに実家に帰り、太郎の成長を見守っていた。
母は、リハビリを続けながら、太郎の面倒を見るのを楽しみにしている。
「太郎、おばあちゃんだよ」
母が、太郎を抱っこしている。
右手はまだ不自由だが、左手でしっかり支えている。
祖母は、施設で穏やかに過ごしている。
時々、認知症が進んで私たちのことを忘れるが、笑顔は変わらない。
父は、母の介護を続けながら、趣味の園芸を楽しんでいる。
「美咲、見てみろ。このトマト、立派だろ」
父が、嬉しそうに自慢する。
私は、東京での仕事と、実家との往復を続けている。
大変だが、充実している。
なぜなら、家族の大切さを、改めて知ったから。
ある日、母が言った。
「美咲、あなた、結婚しないの?」
「母さん、また始まった」
私は、笑った。
「いや、無理にとは言わないけど。でも、幸せになってほしいから」
「私、今、十分幸せだよ」
「そう? なら、いいけど」
母も、笑顔になった。
私たちは、リビングで太郎を囲んで団欒していた。
家族の形は、変わった。
完璧ではないかもしれない。
でも、これが私たちの家族だ。
そして、私は母の背中を見て育ち、今、自分の道を歩いている。
母の背中 @raputarou
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