鳶職人×異世界転生『俺の現場力が異世界を変える』〜鳶職人、勇者パーティの建築顧問になる〜
もしもノベリスト
第1章「ご安全に——最後の現場」
足場の上から見下ろす東京の街は、いつだって小さく見える。
地上二百メートル。風速十二メートル。湿度六十八パーセント。高倉健太は、体に染み付いた感覚で空気を読んでいた。二十年以上この仕事を続けていると、数字を確認するまでもなく、今日の現場が「やれる」かどうかが分かるようになる。
今日は、やれる日だ。
「親方、搬入完了しました」
若い作業員が駆け寄ってくる。まだ入社して三ヶ月の新人、山下という男だ。ヘルメットの下から覗く目は、緊張で強張っている。高所作業に慣れていない人間特有の、どこか落ち着かない視線。健太はそれを見逃さなかった。
「おう。で、お前の今日の作業は何だ」
「え、えっと……東側の足場の点検と、資材の移動です」
「その前にやることがあるだろう」
山下は一瞬きょとんとした顔をして、それからハッとしたように背筋を伸ばした。
「ご安全に!」
「声が小せえ。腹から出せ」
「ご安全にッ!」
健太は満足げに頷いた。四十二年の人生で、二十年以上をこの言葉と共に過ごしてきた。「ご安全に」。それは単なる挨拶ではない。自分と仲間の命を預け合う、現場の誓いだ。
夏の陽射しが鉄骨を焼き、素手で触れれば火傷するほどの熱を帯びている。空気は重く、汗が止まらない。それでも健太の動きに迷いはなかった。足場から足場へ、まるで地上を歩くように軽やかに移動する。鳶職人として身体に刻み込まれた感覚が、重力を忘れさせる。
この現場は、都心に建設中の複合商業施設だ。完成すれば、この街のランドマークになる。だが健太にとって、建物の用途や規模は関係ない。大切なのは、この現場を無事故で終わらせること。それだけだ。
「高倉さん、ちょっといいですか」
現場監督の田所が声をかけてきた。五十代半ばのベテランで、健太とは十五年以上の付き合いになる。
「工程の件なんですがね。上から、もう少し巻けないかって話が来てまして」
「無理だ」
健太は即答した。
「いや、まあそう言わずに。あと二週間早められれば、次の案件との兼ね合いが——」
「田所さん。俺はこの現場で二十年、無事故でやってきた」
健太は田所の目をまっすぐに見据えた。
「急いで事故が起きたら、誰が責任取るんです。上の連中ですか。違うでしょう。死ぬのは俺らだ」
田所は言葉に詰まった。この男もまた、現場を知っている人間だ。健太の言葉の重みを理解していないわけではない。ただ、上からの圧力と現場の安全、その板挟みになっているだけだ。
「……分かった。俺からもう一度掛け合ってみる」
「頼みます。その代わり、できることはやります。今日は少し残って、明日の段取りを済ませておきますよ」
田所が去った後、健太は空を見上げた。雲一つない青空。こんな日は、地上二百メートルの風景が格別に美しい。東京タワーもスカイツリーも、ここからなら同じ高さに見える。街を見下ろすこの感覚が、健太はたまらなく好きだった。
だが、それ以上に好きなものがある。
夕方、作業を終えた仲間たちが一人、また一人と現場を離れていく。健太は最後まで残り、明日の資材配置を確認していた。
「親方、俺も残りますよ」
山下だった。まだ帰っていなかったのか、と健太は少し驚いた。
「いい。お前は帰れ。新人が無理する必要はねえ」
「でも、俺も早く一人前になりたいんです。親方みたいに」
その言葉に、健太は一瞬動きを止めた。
「……俺みたいに、ね」
若い頃の自分を思い出す。無鉄砲で、怖いもの知らずで、高いところが好きなだけで飛び込んだこの世界。あの頃は「安全」なんて言葉、考えもしなかった。
変わったのは、十五年前だ。
先輩の落下事故。目の前で起きた。たった一瞬の油断が、一人の命を奪った。あの日から、健太は「安全」という言葉の重みを、身体で理解するようになった。
「いいか、山下」
健太は若者の肩に手を置いた。
「現場で一番大事なのは、腕じゃねえ。目だ。危険を見る目。それがなきゃ、いくら腕が良くても死ぬ。分かるな」
「はい……」
「今日の作業で、危ねえと思ったところはあったか」
山下は少し考えてから、首を横に振った。
「特には……」
「馬鹿野郎」
健太の声が厳しくなった。
「東側の足場、三番目の支柱。ボルトが一本緩んでた。気づかなかったか」
山下の顔が青ざめる。
「す、すみません……」
「謝るな。次から見逃すな。それだけだ」
健太は資材置き場に向かった。明日使う鉄パイプの数を確認し、配置を頭に叩き込む。この作業が、現場の効率と安全を決める。
気づけば、陽が傾いていた。作業員たちはほとんど帰り、現場には健太と山下だけが残っている。
「よし、今日はここまでだ。帰るぞ」
健太がそう言いかけた時だった。
ガコン、と鈍い音が響いた。
振り返ると、山下が足を滑らせていた。東側の足場——さっき健太が指摘した、あの場所だ。緩んだボルトに足を取られ、バランスを崩している。
「山下ッ!」
身体が勝手に動いた。
二十年の経験が、最短距離を導き出す。足場を蹴り、手すりを掴み、落ちかけた山下の腕を掴む。その反動で、健太自身の身体が大きく揺れた。
「掴まれ! 離すな!」
山下の目は恐怖で見開かれている。その手が、必死に健太の腕にしがみつく。
だが、健太には分かっていた。このまま二人分の体重を支え続けることは、物理的に不可能だ。
一瞬の判断。
健太は山下を足場の上に押し上げ、自らの身体を犠牲にした。
手すりから手が離れる。
空が、遠ざかっていく。
「親方ァァァァッ!」
山下の絶叫が、どこか遠くに聞こえた。
落下する感覚。風が耳元で唸る。地上二百メートル。落ちれば、間違いなく死ぬ。
それでも、健太の胸に後悔はなかった。
——俺は、間違ってねえ。
目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、二十年間の現場の風景。仲間たちの顔。「ご安全に」と言い合った、無数の朝。
——ああ、でも。
最後に思ったのは、意外なことだった。
——もう一度、現場に立ちたかったな。
意識が、闇に沈んでいく。
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