第一話 王国暦21年8月下旬 オルロフ本邸
オルロフ本邸の回廊は、午後の光を受けて静かに暖まっていた。
窓辺の長椅子に、リディアは書類を広げて座っている。士官学校の1年を終えたばかりの休暇だが、完全に手が空くわけではない。筆記具を走らせる指の動きは淡々としていた。
その横に、小さな影が寄る。
「リディアお姉さま」
アニェラだった。まだ5歳の、柔らかな声。
「結婚するの?お嫁さんになるの?」
リディアは、すぐには顔を上げなかった。問いの内容を確認するように一拍置き、穏やかに答える。
「結婚はしますが、お嫁さんにはなりません。婿を取ることになります」
アニェラは首を傾げる。
「結婚するのに、お嫁さんにならないの?
ドレス着れないの?」
その言葉に、リディアはようやく視線を向けた。子ども相手だということを意識して、口調を少し和らげる。
「式を行うならば、士官学校を卒業してからになります。
その場合は、軍の礼装が適切だと思います」
アニェラは、納得した様子も困惑した様子もないまま、さらに重ねる。
「ドレス着ないの?
お祝いしないの?
ケーキ食べないの?」
「多分、式はすると思います。ケーキも出ると思います」
「私、チョコケーキがいい」
「その件は、お父さまに頼みましょう」
少し安心したように頷いたあと、アニェラはふと真顔になる。
「なんでお嫁さんにならないの?」
リディアは考えを整理するように、一瞬視線を外した。
「私はオルロフを継ぐので、この家に残る必要があります」
「……わかんない」
「私はとても強い転移の能力を持っているので、偉い立場になります。
そのため、婿を取ります」
アニェラは眉を寄せる。
「強かったら、お嫁さんにならないの?」
「人によります。
私は、この家のきょうだいの中で一番強いので、お嫁さんになりません」
少し間を置いて、アニェラはまた尋ねた。
「私はお嫁さんになるの?」
「まだわかりません」
その返答に、アニェラは何かを思い出したように目を輝かせる。
「リディアお姉さま、前にドレス着てたでしょ?
もうお嫁さんになったから、ドレス着ないの?」
話の飛躍に、リディアはわずかに困惑した。
「私は、お嫁さんになっていません」
「……ケーキ食べてないの?」
「イリーナの式の時に食べました」
「ちがうの。
お姉さま、小さい時にドレス着てたでしょ?
ケーキ食べてないの?」
そこでようやく、リディアは理解した。
「能力発現祝いの時の話ですか?」
アニェラは首を傾げたまま頷く。
「お祝いしたでしょ?」
「お祝いはしましたが、ケーキは出ていません。
その時は、焼き菓子と飴細工が出ました」
「ケーキ食べてないの?」
「その時は、王国が今ほど豊かではありませんでした。
砂糖を大量に使っていると分かる形にする方が、良いとされていたのです」
アニェラがさらに首を傾げるのを見て、リディアは説明を足す。
「お金がない人が多かったので、
“砂糖をたくさん使えます”と見せること自体が、
すごい家だという印になりました。
ケーキでは、それが分かりにくいので、飴細工が出ました」
「……お金なくて、ケーキ買えなかったの?」
「違います。
お金があったので、ケーキではなく飴細工を選びました。
当時は、飴細工の方が好む人が多かったのです」
「みんな、飴が好きだったの?」
「はい」
少し考えてから、アニェラははっきり言った。
「私はケーキがいい」
リディアは小さく頷く。
「そうですね」
それ以上、説明を重ねることはしなかった。
午後の光の中で、二人の会話はそこで静かに途切れた。
冷戦幻想アルトラート @strangerayano
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