1-3. 治らぬ傷の予兆
午後の実戦演習は砂塵の舞う屋外闘技場で行われた。闘技場は直径三十メートルほどの円形で、周囲を石造りの観客席が囲んでいる。太陽は雲の切れ間から白く光り、剣を握る手のひらに汗が滲む。その汗が、木剣の柄を滑りやすくする。
対面に立つのはガルドの取り巻きの一人、デルンという大柄な少年だ。身長は僕より二十センチ以上高く、肩幅も広い。雷属性の派手さはないが、純粋な腕力で押し切るタイプで、僕のような非力な生徒には最も相性の悪い相手でもある。
クロウ教官が木札を鳴らして試合開始を告げると、デルンは砂を蹴り上げながら突進してきた。その足音が、地面を震わせる。僕は盾を構えたまま後退したが、背中に掲げた学院支給の魔刀の柄が揺れただけで何も起こらない。心臓が早鐘を打ち、息が浅くなる。
「本気を出せよ、リオ。いや、出せないんだったな」
デルンの揶揄に周囲が笑う。その笑い声が、耳に突き刺さる。その瞬間、クロウが砂煙を割って二人の間に飛び込み、刀身を横向きに構えた。
「手を抜いたのはどちらだ」
と低く叱責する。その声が、胸の奥に冷水を浴びたような感覚を広げる。背筋が冷たくなり、手のひらに汗が滲む。僕の動きの鈍さも、挑発に任せた攻撃も、戦場では即座に命を落とす隙だと指摘され、息をするたびに胸が締め付けられる。
クロウは木剣を僕の掌に押し戻し、
「恐れるのではなく、観ろ」
とだけ告げて離れる。視界の中心にデルンの肩の揺れが映り、呼吸のリズムも聞こえる気がした。彼の右肩がわずかに上がり、次の瞬間に左足を踏み出す──その予兆を捉えた僕は、意を決して踏み込んだ。木剣の切っ先がデルンの左腕を掠め、浅い切り傷をつけた。血はほとんど出ず、デルンは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに笑みを浮かべた。
たったそれだけのはずだった。血もほとんど出ず、デルンは
「この程度」
と笑って武器を下げた。試合は終わり、僕は一礼して退場した。デルンは傷口を軽く拭い、何事もなかったように次の試合に備えていた。
しかし、その傷口は時間が経つにつれて、じわじわと広がり始めていた。最初は三センチほどの浅い切り傷だったはずが、夕刻には五センチを超え、傷口の周りが黒ずんでいく。夕刻になって、彼は激痛を訴えて保健塔へ運ばれたという噂が瞬く間に広がった。
「治癒薬が効かない」
「呪いだ」
「リオが何かした」
──食堂で皿を運んでいた僕の耳にも、揶揄と恐怖が混ざった囁きが次々と突き刺さる。手の震えを隠そうとしても、木杓子がカタカタと音を立て、湯気を上げるスープがこぼれ落ちそうになる。胸の中心が凍えるように冷たくなり、息を吸い込むたびに肺が痛む。呼吸が浅くなり、目の前が少し暗くなる。
夜、シルヴァが寮の廊下で僕を待ち構えていた。廊下の壁には魔導灯が並び、その光が彼女の顔を照らしている。薄い外套のポケットから古い羊皮紙を取り出し、
「詠唱無しで残る呪痕」
の項目を指さす。その文字は、古いインクで書かれており、読みにくい。
「切り傷が時を越えて疼き続ける。施術者は自覚しない……今日の出来事に似てると思わない?」
彼女の声は震えていたが、僕を責める色はない。代わりに彼女は
「怖いよね。でも観察してみよう」
と静かに提案してくる。その声が、肩を軽く叩く。
「もし本当に呪いだったら、どこかに発動条件があるはず」
僕は
「そんな力なんてない」
と首を振るが、心臓の裏側で母の遺言が再び脈打った。その鼓動が、警告を鳴らすように響く。
「この力を使ってはだめ」
──何の力か分からないまま守ってきた言葉が、急に現実味を帯びてくる。その言葉を思い出すたび、胸の中心が凍える。
その夜は眠れず、窓の外に広がる月光が校庭を冷たく照らしていた。その光が、肌を刺す。気付けば手紙を取り出していた。父から届いたばかりの文字を読み返し、
「自分を信じろ」
の一文に指を滑らせる。信じようとすればするほど、足元が崩れ落ちそうになる。床が揺れ、立っていられない気がする。やがて夜半、寮の扉をノックする音がし、クロウが呼び出しに現れた。その音が、心臓の音と重なる。
彼は淡々とした口調で、
「保健塔でデルンの経過を見てこい」
と命じた。逃げることもできたが、僕は頷いて外套を羽織る。その動作が、肩を押しつぶす。
保健塔は薬草の匂いと消毒液の刺激臭が入り混じる独特の空間だ。その匂いが、鼻を突き、目がしみる。ベッドに横たわるデルンの腕には黒ずんだ線が走り、包帯の隙間からはまだ血が滲んでいる。血は黒く固まり、結晶のような粉が滲み出ている。
治癒術師が詠唱を繰り返しても光は弾かれ、魔力の波長が乱れているのが素人目にも分かった。その光が、まるで壁にぶつかって跳ね返るように散らばる。
デルンは僕を見ると、唇を震わせながら
「頼む……痛みが消えない」
と訴える。その声が、氷のように冷たい。恐怖と罪悪感に押し潰されそうになりながらも、僕は彼の手を握った。温かい鼓動が伝わり、同時に自分の掌が冷たくなっていく。冷たさが、腕から肩へ、そして胸へと広がる。
クロウは静かに立ち会い、
「恐れるな。結果だけを見ればいい」
と言い残して部屋を出た。その声が、背中を押す。
僕はデルンの傷口を凝視し、そこから立ち上る淡い黒煙のようなものを目にした気がした。その煙が、脈打つように動く。手を伸ばすと、空気が震え、指先に鋭い痛みが走る。指先が切り裂かれるような痛み。次の瞬間、デルンの呼吸が少し楽になったように見えた。だが僕の腕には同じ黒い紋が浮かび上がり、焼けるような疼きが始まる。腕が焼き尽くされるような疼き。
治癒術師が驚き、クロウが戻ってきて
「何をした」
と問うた。僕は答えられず、ただ腕を押さえて震えるだけだった。声が出ない。喉が詰まり、言葉がでない。
その夜、シルヴァの勧めで古文書を読み込んだが、難解な文字の羅列に頭が痛くなった。頭蓋骨を内側から押しつぶすような痛み。彼女は
「呪いは"媒介"を必要とする。もし君がそれになっているなら、いずれ王国が気付く」
と説明するが、僕にはその意味がよく分からない。ただ、何か恐ろしいことが起きていることだけは感じ取れた。恐怖が背筋を冷たく走る。
僕は窓の外の月を見上げ、
「僕は何もしていない。ただ、触れただけだ」
と呟いた。声が小さく、自分の耳にしか届かない。だが同時に、誰かが苦しむなら自分が痛みを引き受ければいいという、危うい決意も芽生え始める。僕は手を握りしめた。指先に力が入り、手のひらに爪が食い込む。
落ちこぼれと呼ばれてきた少年が、初めて"自分にしか出来ないこと"に触れた瞬間だった。恐怖と罪悪感に満ちた夜は明けず、ただ消えかけのランタンだけが机の上で揺れていた。その光が、かすかに輝いている。
腕に浮かぶ黒い紋は、まだ疼き続けている。母の遺言の意味を、僕はまだ理解していなかった。
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