手帳の続きを、君に

@Rsiteisunnna

第1話 おばあちゃんと翔太

八十七歳の春。


佐伯晴子は、毎年この時期になると、ひとりで小さな鞄を持って家を出る。


畑の脇を抜け、細い坂道をゆっくり上る。


膝が痛むから、途中で何度も立ち止まる。


でも、今日は止まらない。


今日は、絶対に。


丘の上にある小さな公園。


桜の木が一本だけ、ぽつんと立っている。


もう枝は半分以上枯れ、残った花もまばらだ。


それでも、毎年、晴子はこの木の下に来る。


鞄から古い座布団を取り出して地面に敷く。


腰を下ろすと、息が少し荒くなる。


「今年も……来たよ」


誰もいない公園に、独り言。


晴子は、袖口から小さな手帳を取り出した。


表紙はすっかり色褪せ、角が擦り切れている。


中を開くと、びっしりと書かれた文字。


全部、孫の翔太の字だ。


翔太は、晴子が五十一歳の頃に生まれた。


一人息子の嫁が産んだ、待望の男の子。


でも、その嫁は出産後すぐに体調を崩し、翔太が三歳のときに亡くなった。


息子は仕事で海外を飛び回り、翔太はほとんど晴子に預けられた。


あの頃の翔太は、いつも晴子の後ろをついて回った。


「おばあちゃん、おばあちゃん」って。


桜の季節になると、二人でこの丘に上って、


おにぎりを食べながら花を見た。


ある年、翔太が小学五年生のとき。


いつものように桜の下で座っていると、翔太が突然言った。


「おばあちゃん。僕、大きくなったら絶対、おばあちゃんのこと守るからね。


おばあちゃんが死ぬまで、ずっと一緒にいるよ」


晴子は笑って頭を撫でた。


「ありがとね。翔太のその気持ちだけでもうれしいよ。」


翔太は真剣な顔で首を振った。


「約束だよ。


だから、これ書いて」


そう言って、翔太は手帳を差し出した。


晴子が持っていた小さなメモ帳だ。


「僕が、おばあちゃんに伝えたいこと、全部書いておく。おばあちゃんが寂しくなったら、これ読めばいいよ」


晴子は最初、冗談だと思った。


でも翔太は本気だった。


その日から、翔太は時々手帳に何かを書き足した。


「おばあちゃんの作った卵焼きが世界一好き」「おばあちゃんの笑顔が一番きれい」「大きくなったら一緒に旅行に行こう」など。


高校生になると、翔太は忙しくなった。


部活、受験、友達。


でも、桜の季節だけは必ず帰ってきた。


手帳に新しいページを追加して、


「おばあちゃん、まだ元気?」「今年も桜きれいだね」と。


大学に入り、就職してからも。


毎年、四月になると、翔太は飛行機に乗って帰ってきた。


最後に会ったのは、翔太が三十一歳のとき。


あの桜の下で、翔太は言った。


「おばあちゃん。僕、来年は結婚するよ。


だから、来年は彼女も連れてくるね」


晴子は頷いて、笑った。


「楽しみだわ」


でも、その「来年」は来なかった。


翔太は、結婚式の三ヶ月前。


海外出張先で、交通事故に遭った。


二十四時間後、息を引き取った。


晴子は、病院にも行けなかった。


息子が連れて帰ってきたのは、遺骨と、手帳だけ。


手帳の最後のページに、翔太の字でこう書かれていた。


「おばあちゃんへ


もし僕がいなくなっても、毎年桜を見に行ってね。


僕も、そこにいるから。


ずっと、守ってるから。


大好きだよ」


それから五年。


晴子は、毎年この桜の下に来た。


手帳を開いて、翔太の字をなぞる。


涙は、もう出なかった。


乾ききった涙腺は、泣くことを忘れたようだった。


今年も、そうなるはずだった。


でも、今日は違った。


公園の入り口から、誰かがゆっくり歩いてくる。


若い女性。


三十代前半くらい。


小さな子を抱いて、もう一人、男の子が手を繋いでいる。


女性は、晴子の前に立って、深く頭を下げた。


「……佐伯晴子さん、ですよね?


私、翔太の妻です。」


晴子は、目を見開いた。


葵は、そっと男の子を前に出した。


六歳くらいだろうか。


翔太に、そっくりだった。


「この子は、翔太くん。


翔太さんが、亡くなる前に……私のお腹にいたんです。」


小さな翔太くんが、恥ずかしそうに晴子を見上げた。


「おばあちゃん……?


僕、お父さんから聞いたよ。


おばあちゃんの卵焼きが、世界一おいしいって」


晴子は、息を止めた。


葵が、手帳をもう一冊、差し出した。


新しい手帳。


表紙には、翔太の字で。


『おばあちゃんへ 続き』


中を開くと、翔太の最後のページの続きから、


葵の字で、毎年書かれていた。


「今日も桜を見に行きました。おばあちゃんの分まで」


「翔太くんが歩けるようになりました。おばあちゃんに見せたい」


「翔太くんが、『おばあちゃん』って言いました」


……そして、今年のページ。


「おばあちゃん、今年は会いに行きます。


ずっと、待っててくれてありがとう」


晴子は、手帳を抱きしめた。


声が出なかった。


涙腺が、五年ぶりに動き出した。


最初は一粒。


次に二粒。


そして、堰を切ったように。


晴子は、泣いた。


静かに、でも深く、


嗚咽を漏らしながら。


葵が、そっと晴子の肩を抱いた。


翔太くんが、小さな手で晴子の手を握った。


「おばあちゃん、泣かないで。


僕、ずっと一緒にいるよ。


お父さんみたいに、約束する」


晴子は、泣きながら笑った。


桜の花びらが、一枚、


晴子の白い髪に落ちた。


春の風が、優しく吹いた。


五年分の時間が、


ようやく、温かくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

手帳の続きを、君に @Rsiteisunnna

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画