雨に溶ける指先

南條 綾

雨に溶ける指先

 夜の雨が、アスファルトに落ちる前に一度だけ宙で躊躇うような音を立てていた。今日もまた、誰かの視線を避けるように歩いている。


 街灯の下で煙草をくわえた女が、濡れた前髪を指で乱暴にかき上げた。その仕草が妙に目に残る。

灰色のコートの下から覗く鎖骨のライン、雨に濡れて黒くなったシャツの襟、指先のタトゥーが滲んで見える距離。


 私は立ち止まってしまった。彼女は気づいている。

こちらを見ていないのに、確実に私の存在を捉えている。


 そういう女っているよね。獲物を追う前に、まず匂いを嗅ぐだけの獣みたいな。


「見すぎ」


 低い声。雨音に溶け込むように投げられた一言に、私は肩を震わせた。


「……ごめん」


 謝るしかなかった。だって本当に、見すぎていたから。

彼女は煙草を地面に落として踏み潰した。火はもうほとんど消えていたのに、まるで私の視線ごと焼き尽くすみたいに。


「謝る必要ないよ。見られたい顔してるって、自分でもわかってるから」


 そう言って初めて、真正面から私を見た。瞳が、予想よりずっと深い色をしていた。

黒とも灰色とも言えない、濁った夜の海みたいな色。

そこに映っている私は、びしょ濡れで、みっともなく震えていて、

それでもなぜか、逃げられない。


「名前は?」


「……綾」


「本名?」


「……うん」


 彼女は小さく笑った。あざけるでもなく、優しいわけでもなく、ただ事実を認めるような乾いた笑いだった。


「私は早紀。……まあ、呼ぶ機会なんてそうそうないだろうけど」


 その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。

まるで最初から終わりが見えているような言い方だったから。


 それでも私は、雨に濡れたままの彼女のコートの袖を、無意識につかんでいた。


「離して」


 私は、掴んだまま彼女を見ていた。

早紀はため息をついて、私の手首を掴んだ。


 冷たい指先だった。でもその冷たさが逆に熱を帯びているように感じた。


「こういうの、慣れてるの?」


「慣れてる……?」


「知らない女に、雨の夜に、こんな距離まで詰め寄られるの」


 私は首を振った。本当は、嘘だったかもしれない。

でも今この瞬間だけは、本当のことを言いたかった。


「初めてだよ」


「……ふぅん」


 早紀は私の手首を離さなかった。

それどころか、少し力を込めて引き寄せた。


 顔が近い。息がかかる距離。


「嘘ついてる顔してる」


「…………」


「可愛い嘘つき」


 その一言で、何かが決定的に崩れた。


 私はもう、

この雨の匂いも、街灯の薄黄色い光も、彼女の煙草の残り香も、ぜんぶ自分のものにしたくなった。

許されない欲望だって、わかっている。

こんな気持ちを抱く資格なんて、最初からないってこともわかっている。


「……触っても、いい?」


 自分でも驚くぐらい声が震えていた。

早紀は、一瞬だけ目を細めた。それから、ゆっくりと頷いた。


「好きにすれば」


 その言葉が、引き金だった。

私は震える指で、彼女の濡れた前髪に触れた。

冷たくて気持ちよかった。

でもその下にある頭は、確かに生きていて、熱を持っていた。


次に頬。顎のライン。首筋。鎖骨の上を、指先でなぞるように私は壊れ物を大事にするようにやさしく触れていた。


 早紀は微動だにしなかった。

ただ、じっと私を見ていた。まるで、私がどこまで堕ちられるのか、試しているみたいに。


「もっと下でもいいよ」


 ささやくような声。私は息を呑んだ。


 そして、ゆっくりと、彼女のコートの前を開けた。

雨に濡れたシャツが、肌に張り付いている。

透けたブラックのブラ。その下に、かすかに浮かぶ肋骨の影。

指を這わせる。冷たい肌。

それなのに、触れるたびに熱が生まれる。


「もっと強く触れて」


 言われて、私は初めて力を入れた。早紀の吐息が、わずかに乱れた。


 その瞬間、私は完全に理解した。

これは恋じゃない。救いでもない。

赦しでも、癒しでもない。

ただの、互いを壊すための合意。


 それでも私は、この壊れ方を、

誰よりも深く味わいたかった。


 雨はまだ、降り続いている。


 私たちは、街灯の下で、

互いの境界を溶かすように触れ合っていた。


 何も言葉はいらない。だって言葉にした瞬間、

この歪んだ美しさが、急速に色褪せてしまうから。


 だからただ、沈黙と雨音と、互いの体温だけが、今この夜のすべてだった。



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