一時間だけ記憶を消せる僕は、失敗を笑う先輩に恋をした

@antomopapa

一時間だけ「失敗」を消せる僕は、失敗を消さない彼女に恋をした。


 僕のスマホには、誰にも知られてはいけない秘密がある。

 LINEで友達登録している相手に対して、ブロックして、すぐブロックを解除すると、僕の記憶が一時間だけ消えるのだ。


 完全に消えるわけじゃない。

 一時間後には、何事もなかったように思い出される。

 でも、その一時間があれば十分だった。


 失言をした直後。

 空気を壊した瞬間。

 誰かを不快にさせてしまったと気づいたとき。


 僕はスマホを取り出し、静かに指を動かす。

 ブロックして、すぐ解除。

 それだけで、その場にいた相手の中から、「今の僕」が消える。


 相手は首を傾げる。

 さっきまでの違和感を忘れた顔で、会話を続ける。


 最初に気づいたのは中学二年の頃だった。

 教室で盛大に滑ったギャグを言ってしまい、耐えきれずに操作した。

 一時間後、その友達は「さっき何か言った?」と不思議そうに聞いてきた。


 その瞬間、僕は悟った。

 この力があれば、失敗しなくていい、と。


 高校に入ってからの僕は、完璧だった。

 空気を読み、場を回し、誰からも嫌われない。

 女子にもモテたし、クラスの中心にも自然と立っていた。


 もし何か失敗しても、一時間だけ消せばいい。

 その一時間をやり過ごせば、失敗は「なかったこと」になる。


 だから僕の周りには、いつも好意的な記憶だけが残った。


 クラスで一番人気の女の子に囲まれても、心は動かなかった。

 どんな関係も、壊れそうになったら修正できたからだ。


 ――そんな僕が、恋をしてしまった。


 吹奏楽部の副部長、篠原紬先輩。

 トランペット担当で、音を外すことが多い。


 でも先輩は、失敗するたびに笑った。


「ごめん、今のなし! もう一回!」


 恥ずかしそうなのに、逃げない。

 なかったことにしない。


 演奏会前の合奏で、僕がリズムを大きく間違えたときも、先輩は怒らなかった。


「分かりやすかったよ。ここ、難しいよね」


 その言葉に、胸の奥がざわついた。


 篠原先輩の家は貧乏だった。

 スマホを持っていない。

 連絡手段は、学校か家の固定電話だけ。


 最初は不便だと思った。

 でも、ある日、はっきりと気づいてしまった。


 ――先輩には、僕の力が使えない。


 友達登録ができない。

 ブロックも解除もできない。


 つまり、先輩の前での失敗は、一時間でも消せない。


 それに気づいてから、僕は先輩の前でぎこちなくなった。

 言葉を選びすぎて、表情を作りすぎて、完璧な自分を演じた。


 そんな僕を、先輩はあっさり崩した。


 ある日、僕が楽譜を忘れて落ち込んでいると、先輩は笑って言った。


「誰でもあるよ。私なんて毎日失敗してるし」


「恥ずかしくないんですか?」


「恥ずかしいよ。でも、覚えておきたいじゃん」


 覚えておきたい。

 失敗を、消さない。


 その言葉が、頭から離れなかった。


 家に帰って、スマホを見る。

 そこには、数えきれないほどの友達がいた。

 僕が失敗を消し続けてきた証拠。


 でも、先輩は違う。

 失敗も、貧しさも、弱さも、全部引き受けて笑っている。


 ある日の部活帰り、夕焼けの中で先輩が言った。


「私さ、貧乏だけど、そんなに悪くないよ」


 少し照れた笑顔で、続ける。


「失敗しても、覚えてるから。次、ちゃんと頑張れるんだよ」


 その瞬間、はっきりと思った。

 この人が好きだ、と。


 同時に、怖くなった。

 このままじゃ、告白できない。


 僕はずっと逃げていた。

 一時間だけ消せる力に頼って、生き方を誤魔化していただけだった。


 翌日、僕はスマホショップに入った。

 理由はうまく説明できなかったけれど、機種変更をした。


 新しいスマホ。

 新しいLINE。

 もう、秘密はない。


 失敗は消せない。

 でも、それでいいと思えた。


 放課後、音楽室の前で、篠原先輩を呼び止めた。

 心臓がうるさいくらい鳴っていた。


「篠原先輩。好きです」


 声は震えた。

 完璧でも、格好よくもなかった。


 先輩は驚いて、それから困ったように笑った。


「それ、失敗したらどうするの?」


「……ちゃんと覚えてます」


 少しの沈黙のあと、先輩は頷いた。


「じゃあ、よろしくね」


 その言葉は、一時間経っても消えなかった。

 消せないからこそ、大切だった。


 失敗を恐れない生き方を、

 僕は、ここから探していく。

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