白紙のおみくじ
陽炎
第1話
元旦の朝、私は近所の八幡神社を訪れた。
正月の澄んだ空気が境内を満たし、吐く息が白くほどけていく。
初詣の人波はすでに引き、境内には落ち着いた静けさが戻りつつあった。
石畳を踏む足音が、思いのほか大きく響く。
注連縄の張られた鳥居をくぐり、本殿へ向かう間、私は新年らしい高揚感よりも、奇妙な空白を胸に抱えていた。
賽銭を投げ、手を合わせる。今年も無事に一年を過ごせますようにと願いをこめる。
参拝を終え、私はおみくじの筒から一枚引き抜いた。この神社では、一回だけ無料でおみくじをひくことができた。
中から取り出した紙を広げた瞬間、私は思わず動きを止めた。
――何も、書かれていない。
罫線も、文字も、印もない。
大吉も凶もなく、祝詞の一行すら存在しない、完全な白紙。
一瞬、目の錯覚かと思い、角度を変えて光に透かす。
それでも、紙はただ白いまま。印刷ミスだろうか。
私は軽い調子で社務所に向かった。
「すみません。これ、不良品みたいなんですが」
声をかけると、白髪の神主がゆっくりと顔を上げた。
差し出したおみくじを受け取った、その瞬間だった。
神主の表情が、はっきりと変わった。
血の気が引いていくのが、こちらからも分かるほどだった。
紙を持つ手が、わずかに震えている。
「……これは……」
掠れた声が、言葉にならずに落ちる。
「あなた……これを、引いたのですか?」
「ええ。……何か問題でも?」
神主は答えず、白紙のおみくじを見つめ続けていた。
「白紙のおみくじは……百年に一度ほど、偶然混ざることがあるのです。ですが、それは印刷ミスではありません。私たちが入れたわけでもないのです」
「意図的に?入れたわけでもないって…そんなことありえないでしょう」
思わず聞き返すと、神主は一度、深く息を吸った。
神主は私の目をまっすぐに見た。
「すぐに、お祓いを受けてください。今すぐにです」
あまりの剣幕に、私は思わず苦笑した。
「いえ、大丈夫ですよ。白紙なら、凶事も書かれていないわけでしょう?むしろ、縁起がいいくらいじゃないですか」
私は根っからの理系。科学的根拠がないものは信じない主義だ。
神主は何か言いかけるように口を開き――それでも言葉を飲み込み、神主は黙り込んだ。
翌朝、目覚ましよりも先に、携帯電話の振動で目を覚ました。
画面には、母からの着信履歴がいくつも並んでいる。普段めったにかかってこない母からの電話。イヤな予感がして慌ててかけ直すと、呼び出し音の途中で通話が繋がった。
「……もしもし」
返ってきたのは、母の嗚咽。
言葉にならない息遣い。
「お父さんが……」
その一言で、頭の中が真っ白になった。
「……階段から落ちて……」
病院へ向かう道すがら、景色は流れているのに、まるで現実感がなかった。
信号の色も、車の音も、遠くで起きている出来事のように感じられる。
病室に入ると、父はベッドの上に横たわっていた。
意識はなく、呼吸音だけが機械的に規則正しく響いている。
頭には包帯が巻かれ、顔色は土気色に近い。
医師は淡々と説明した。
「ご自宅の階段で足を踏み外し、頭部を強く打ったようです。急変する可能性もありますが…」
その声を聞きながら、私はただ頷くことしかできなかった。
病院から戻ったあと、私はしばらく玄関に立ち尽くしていた。
靴を脱ぐタイミングさえ分からなくなり、ドアの鍵を閉めた音だけが、やけに大きく耳に残る。
何かをしなければと思いながら、結局何もできず、私はソファに腰を下ろした。
テレビをつける。
画面では正月特番が流れている。賑やかな笑い声が響くが、音は頭の表面を滑るだけで、意味を結ばない。
そのとき、不意に、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
おみくじ。
昨日、八幡神社で引いた、あの白紙のおみくじ。
私は財布から取り出して、広げる。
その紙は、昨日見た「白」ではなかった。
白地の上に、まるで時間が染み出してきたかのように、薄い文字が浮かび上がっている。
強く主張するわけでもなく、しかし確かにそこに存在する文字。
『身内に不幸あり』
白い紙にたった一行。
それだけなのに、呼吸の仕方を忘れた。
背中を、冷たいものがゆっくりとなぞる。
凍る、というよりも、体温を奪われていく感覚に近い。
私は何度も瞬きをし、もう一度、紙を見た。
昨日は、確かに何も書かれていなかった。
それだけは、はっきりと覚えている。
これは錯覚だ。きっと最初から書いてあったのだ。
印刷が薄く、光の当たり具合で見えなかっただけ。
そう考えれば、説明はつく。…つく、はずだ。
偶然だ。父の事故も、この文字も、ただ重なっただけだ。
意味を結びつける必要など、どこにもない。
私は急いでおみくじを折り畳み、財布の奥へ押し込んだ。
それから三日後には地下鉄でスリにあい、財布もカードもなくし、その夜には四十度近い熱を出した。
慌てて夜間病院に駆け込んだが、医師は首を傾げるばかりだった。
血液検査。
レントゲン。
インフルエンザの簡易検査。
どれも、異常なし。
「原因は分かりませんが……とにかく、水分をとって安静にしてください」
それから三日間、私はほとんど意識のないまま過ごした。
熱に浮かされ、夢と現実の境界が曖昧になる。
父の顔。
白紙のおみくじ。
墨が滲む文字。
それらが、混ざり合い、溶け合い、何度も繰り返された。
四日目の朝、ようやく体の熱が引いた。
机の引き出しを開け、震える指で、あの紙を取り出す。
広げた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
『身内に不幸あり』
『金銭を失う』
『病に倒れる』
三つ目の文字が、はっきりと刻まれている。
疑いようがなかった。
これは、後から現れた文字だ。
指先が痺れ、紙を持つ手が制御できなくなる。
喉の奥から、掠れた息が漏れた。
「……もう、いい」
私は紙を引き裂いた。
何度も、何度も。
破れた紙片を便器に投げ込み、
レバーを引く。
水が渦を巻き、白い紙を飲み込んでいく。
一度。
二度。
三度。
完全に流れ去ったことを確認してから、私は蓋を閉めた。
これで終わりだ。
ただの偶然だ。
気のせいだった。
もう、二度と見ることはない。
そう、信じたかった。
翌朝。新しく買った財布のメンテナンスをしようとひらいた。
全身の血の気が引いた。
財布の中に、折り畳まれた紙が入っている。
ゆっくりと、それを取り出す。
広げる前から、結果は分かっていた。
破いたはずのおみくじが、何事もなかったかのように、元の形に戻っていた。
そして、文字が増えている。
『身内に不幸あり』
『金銭を失う』
『病に倒れる』
『友を失う』
四行目の文字が、確かに刻まれていた。
喉が、ひくりと鳴った。
「……やめろ……」
声は掠れ、ほとんど自分の耳にしか届かない。
「……やめてくれ……」
私は紙を強く握りしめた。
爪が食い込み、指先に痛みが走る。
――ならば、消してやる。
今度こそ、完全に。
ライターを取り出し、火を点ける。
小さな炎が、紙の端を舐める。
おみくじは、あっけないほど簡単に燃え始めた。
文字が黒く縮れ、白紙が灰へと変わっていく。
私は、灰になるまで、目を逸らさなかった。
完全に燃え尽きたことを確認し、その灰を庭へ持ち出す。
風に乗って散るのを待たず、土を掘り、埋めた。
上から踏み固める。これで終わりだ。
これ以上、戻りようがない。
次の日。
財布の中に、おみくじがあった。
もはや驚きはなかった。ただ、静かな絶望が胸に広がる。
『身内に不幸あり』
『金銭を失う』
『病に倒れる』
『友を失う』
『職を失う』
五つ目の文字。
その日の午後、会社から呼び出しがあった。
会議室の空気は、異様に乾いていた。
上司は目を合わせようとせず、書類を机の上に置いたまま言った。
「すまない。人員削減でね。君には、辞めてもらうことになった」
言葉は丁寧だったが、内容は冷酷だった。
私は、何も言えなかった。反論する理由も、怒りも、悲しみすら湧かなかった。
――もう、分かっていたからだ。
このおみくじは、未来を予言しているのではない。
未来を、削っている。
そう理解した瞬間、足が勝手に動いていた。
八幡神社へ。
境内に駆け込み、社務所の前で息を切らしながら叫んだ。
「助けてください!これを……これを、何とかしてください!」
白髪の神主は、私の差し出したおみくじを見て、深く溜息をついた。
「……やはり」
その声は、諦めに満ちていた。
「もう、始まっていますね」
「これは一体、何なんですか!」
私の声は、悲鳴に近かった。
神主は、しばらく沈黙したあと、重い口を開いた。
「白紙のおみくじは、『空白の運命』と呼ばれています」
「……空白?」
「これを引いた者は、神の帳簿から、名前が消されるのです」
頭が、理解を拒んだ。
「どういう……意味ですか……」
「あなたの運命は、一度、白紙に戻された。そして今、そこにあったものが、一つずつ消されている」
神主は、おみくじを指差す。
「浮かび上がる文字は、その消去の順番です。まず、周囲のものから」
淡々と、宣告するように。
「家族。財産。健康。友人。仕事。住む場所。そして最後は…」
私は唾を飲み込んだ。
「……最後は?」
神主は、私を見た。
その目には、同情と恐怖が混ざっていた。
「存在そのものです」
視界が、白くなった。
「あなたは、忘れられていく。誰の記憶にも残らなくなる」
「……」
「そして最後には、あなた自身も、自分が誰なのか、分からなくなる」
私は神主の言葉を遮るように、踵を返した。
嘘だ。
そんなことがあるわけがない。
世界が、人を一人、消すだなんて。
私は神社を飛び出した。
家に帰ると、玄関に明かりがついていた。
靴が揃えられている。
胸の奥に、わずかな安堵が生まれた。
――母がきたのだ。
少なくとも、ここには帰る場所がある。
そう思いながら、私はドアを開けた。
玄関に、母が立っていた。
買い物袋を手に、ちょうど外出しようとしていたらしい。
「母さん!」
声が、思った以上に大きく響いた。私は縋るように駆け寄った。
しかし、母は一歩、後ずさった。
その動きが、あまりにも自然で、
あまりにも――他人行儀だった。
母は私の顔をじっと見つめ、首を傾げる。
その目に浮かんだのは、驚きではない。
困惑だ。
「……あなた、誰?」
一瞬、意味が理解できなかった。
言葉が、耳を通り抜けるだけで、頭に届かない。
「何を言ってるんだよ。息子だよ!」
声が裏返る。笑って誤魔化そうとしたが、頬が引き攣る。
「息子……?」
母は、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
記憶の引き出しを、必死に探っている表情。
そして、静かに首を横に振った。
「……私、息子なんて、いたかしら……」
床が、ふっと遠のいた気がした。
「母さん!」
私は衝動的に母の肩を掴んだ。その細い体が、びくりと震える。
次の瞬間、母は私の手を振り払った。
「やめて!」
怯えた声。見知らぬ男に触れられた人間の反応。
「ここは私が借りた部屋よ!出て行って!」
「何言ってんだよ!俺だよ!分からないのか!?顔を見てくれ!」
必死に訴えるが、母の目は、最後まで私を映さなかった。
そこにあるのは、警戒と恐怖だけ。
――本当に、分かっていない。その事実が、刃物のように胸に突き刺さる。
私は何も言えなくなり、逃げるように廊下を駆け抜けた。
鍵のかかる部屋に飛び込んだ。息が荒い。胸が痛い。
机の上の、家族写真が目に入った。
子供の頃、三人で撮った写真だ。
父と母、そして、その間に立つ――私。
震える手で、写真立てを掴み、引き寄せる。
そこに写っている父と母、その二人の間の私が、不自然に歪んでいる。
輪郭が、ぼやけている。
人の形はあるのに、顔が判別できない。
まるで、誰かが意図的に消しゴムをかけたように。
「……嘘だろ……」
喉の奥から、かすれた声が漏れた。
スマートフォンを取り出す。
震える指で、友人の名前を押す。
「もしもし。俺だけど」
沈黙。
『……どちら様ですか?』
「ふざけるな。俺だよ。声で分からないのか?」
『すみません……その番号、登録されていないようなんで…あまりしつこいようだったら警察に行きますよ』
通話は、一方的に切られた。
別の友人。
さらに別の友人。
返ってくるのは、同じ反応。
全員が、私を知らない。
私は、最後の拠り所に縋るように、SNSを開いた。
――ない。アカウントが、存在しない。
投稿も、写真も、フォロワーも、
最初からなかったかのように消えている。
指先が、画面の上で空を掴む。
「あ……ああ……」
声にならない音が、喉から溢れた。
「ああああああっ!!」
叫び声が、部屋に響いた。だが、その声を、誰も聞こうとはしなかった。
私は確かに、ここにいる。息をしている。叫んでいる。
それなのに、世界はもう、私を「存在しないもの」として扱っていた。
私は、震える手で財布からおみくじを取り出した。燃やしたはずのそれは、やはり財布の中にあった。かたちを一切かえないままで。
紙を広げる。
『身内に不幸あり』
『金銭を失う』
『病に倒れる』
『友を失う』
『職を失う』
『家を失う』
『名を失う』
七つ目の文字が、そこにあった。
墨は乾ききり、最初から刻まれていたかのように、動かない。
――名を、失う。
言葉の意味を理解した瞬間、頭の奥で、何かが音もなく切れた。
私は自分の名前を思い出そうとした。
だが、思考を巡らせようとした瞬間、そこに何も掴めるものがない。
私の名前は――……え?何だった?
喉が動き、声を出そうとする。
「俺の名前は……」
だが、音にならない。言葉が、形を結ぶ前に霧散していく。
私は、鏡の前に立った。そこに映っているのは、確かに「人の形」をした何かだった。
だが、輪郭が曖昧だ。顔の境界が滲み、目も鼻も口も、はっきりと定まらない。
焦点を合わせようとすればするほど、像は崩れていく。
「俺は……」
言葉が続かない。
「……俺は、誰だ……」
翌朝、私は外に出た。無意識に、会社へ向かおうとしたのだと思う。
だが、途中で立ち止まった。
――会社?
もう、そんな場所はない。では、どこへ行けばいい。家?ここは、本当に私の家だったのか。母は、私を知らないと言った。
ならば、私は、ここにいていい存在なのか。
答えは出なかった。私は街を彷徨った。
行き交う人々は、私を避けもしない。ぶつかりもしない。
ただ、最初から存在しないもののように、通り過ぎていく。
視線が、私を素通りする。
「……ここにいる」
声は、驚くほど小さかった。
「ここにいるんだ……」
私は、再びおみくじを見る。
そこに、新しい文字が増えている。
『顔を失う』
『記憶を失う』
私は……。私は、何をしていたのだろう。なぜ、ここにいるのだろう。
……私は、誰なのだろう。答えは、もう浮かばなかった。
最後の行に、文字が滲み出る。
『一月三十一日、存在を失う』
今日は、何日だ。携帯を見る。
一月三十日。
――明日。明日、私は消えるのか。
夜になった。
気づくと、私は八幡神社にいた。
なぜ、ここに来たのか。理由は分からない。
ただ、ここに来なければならない気がした。
境内は、音を失っていた。
おみくじ箱の前に立つ。
向こう側が、透けている自分の手を見つめる。
「ああ……」
私は、もう消え始めている。
おみくじを取り出す。
そこにあった文字は、すべて消えていた。
再び、白紙。
最初から、何も書かれていなかったかのように。
私の存在も、同じだ。
最初から、なかったことになる。
誰も覚えていない。
記録にも残らない。
私は――
言葉にならないまま、
手から、おみくじが落ちた。
白い紙が、夜風に舞う。
そして、誰もいない境内に、静かに落ちた。
翌年の初詣に訪れた若い女性が、おみくじを引いた。
筒を振り、紙を取り出し、広げる。
女性は、首を傾げた。
真っ白だった。
何も、書かれていない。
「すみません、これ……不良品みたいなんですが」
社務所の白髪の神主が、それを受け取る。
次の瞬間、その顔から、血の気が引いた。
「……これは……」
神主の手が、わずかに震える。
「あなた……これを、引いたのですか?」
その問いに、
境内の空気が、ひどく重くなった。
白紙のおみくじ 陽炎 @kagerouss
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