けなげな彼女の手紙

@159roman

けなげな彼女の手紙

 伯爵家の三男レオンがミアを見つけたのは、冬の午後だった。

 男爵家の裏庭。

 薄い陽光の下で、少女は壊れた皿の破片を拾い集めていた。


「ごめんなさい。わたしが落としました」


 声は静かで、表情は変わらず、口元だけがかすかに笑っていた。

 その笑顔は、痛みを隠すためのものではなく、痛みそのものを受け入れているような、奇妙な均一さがあった。


 レオンは胸の奥がざわついた。


「君、名前は?」


「ミアです。お手伝いです」


 その言い方は、まるで“自分”ではなく“役割”を答えているようだった。

 レオンはその場で決めた。彼女を連れ出す、と。



 ***



 伯爵家に来てからも、ミアはよく笑った。

 怒られなくても、殴られなくても、同じ笑顔だった。


 レオンはその笑顔を見るたびに、胸をなでおろした。


「よかった……本当に、うちに来て幸せなんだな」


 ミアは「はい」と答える。

 その声は淡々としていて、喜びも戸惑いも含んでいない。

 だがレオンは気づかない。


「無理しなくていいんだよ。ここでは、君は自由なんだ」


 ミアはまた笑う。

 その笑顔は、何かを感じているわけではなく、ただ“笑うべき場面だから笑っている”だけだった。


 レオンはその笑顔を見て、さらに安心した。


「やっぱり嬉しいんだな。よかった……本当に、よかった」



 ***



 夜中、レオンは廊下で物音を聞いた。

 そっと覗くと、ミアが床を磨いていた。


「ミア? こんな時間に……」


 ミアは振り返り、いつもの笑顔を浮かべた。


「すみません。きれいにしたくて」


「そんな……働かなくていいんだよ。君はもう、あの家の子じゃないんだ」


「はい」


「うん、分かってくれたならいいんだ」


 ミアはまた笑った。

 レオンはその笑顔を見て、満足げにうなずいた。


「やっぱり、嬉しいんだな。自由になれて」


 ミアは何も言わない。

 ただ、笑っていた。


 レオンはその沈黙を、肯定だと信じた。



 ***



 翌朝、レオンはミアが庭の落ち葉をすべて拾い終えているのを見つけた。


「ミア! こんなに早くから……」


 ミアは笑った。


「きれいにしたかったので」


「そうか……そうか! ありがとう。君は本当に、うちに来てよかったんだな」


 ミアはまた笑った。

 その笑顔は、昨日と同じ。

 一昨日とも同じ。

 男爵家で殴られていた時と同じ。


 レオンは気づかない。

 その笑顔が“喜び”ではなく、“習慣”であることに。


 むしろ、彼はその笑顔を見るたびに、

「救えた」と確信を深めていった。


 ミアは、ただ笑っていた。



 ***



 そして、ある朝。

 ミアの部屋は空だった。

 机の上に、一通の手紙だけが残されていた。


 レオンは震える指で封を切った。



 『助けてくれて、ありがとうございました。

 食べる物も寝る所も、よくしてもらって、

 わたしには、じゅうぶんすぎました。


 でも、わたしは、あの家のままでよかったです。

 仕事も言われることも、なれていました。


 あなたのやさしさは、わたしにはいらないものでした。


 わたしは、わたしの好きな不幸をまたさがします。

 心配しないでください。』



 読み終えても、レオンは意味が分からなかった。


「……どうして。あんなに笑っていたのに」


 彼は呟いた。

 その声は、誰にも届かない。


 ミアの笑顔は、喜びではなかった。

 救われた証でもなかった。

 ただ、彼女が“そうするように生きてきた”だけの、空っぽの笑顔だった。


 レオンはそのことに、最後まで気づけなかった。


 静かな朝の空気の中で、

 ミアの笑顔だけが、薄い膜のように思い出に貼りついていた。


 それは、優しさにも、悲しみにも属さない。

 どこにも向いていない。

 ただ、そこにあるだけの笑顔だった。


 レオンはその笑顔を思い出すたびに、

 自分が何も理解していなかったことだけを、

 静かに思い知らされるのだった。

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