第12話 エピローグ
好海さんがアパートに来ていた。
今日は僕がパスタを作って、二人にご馳走をすることになっていた。
「早太子さんがすっかり元の姿に戻って、本当に良かった。」」
茹で上がったパスタを皿に盛り付けながら僕は言った。
「最初に見たときは、全然早太子さんに見えなくて。でも声が早太子さんだった。」
「ご心配をおかけしました。」
早太子さんは申し訳なさそうに言った。
「それに、私たちがが関わった人たちも、みんな取り敢えず良い方に人生が進んでいるようでホッとしましたね。」
早太子さんは、僕たち二人のためにホッとしているのだ。
「今野もきっと治療を受ければ改善するでしょう。」
「そうなるといいですね。」
早太子さんが入れたお茶を飲みながら好海さんは言った。好海さんは僕たちの二人のためというよりも、その人の人生のことを気にかけているのだ。どうしてそんなに他人のことを気にかけることができるのか、僕には少し謎だった。若さゆえだろうか。まだ十分に余裕のある、責任をあまり問われない生活をしているせいだろうか。それでも、そういう日々を過ごすことができるということが、いずれ大人になってからの生き方に少なからず影響があるだろうなんて、上から目線のことを僕は考えていた。
いやいや、素直に脱帽しよう。ミートソースをパスタの上にかけながら反省した。
僕はチーズグレーターとチーズの塊をまな板にのせてテーブルに運んだ。
「はい、こちら、パルミジャーノレッジャーノ、36ヶ月熟成させております。お好みで。」
「うわ、本格的!」
好海さんを驚かそうと思って、早太子さんと準備したものだった。狙い的中!
「これだけあると、しばらくチーズ三昧が続きそうだよね。」
「色々とレシピを考えないといけませんね。」
「いただきまーす。」
話題は好海さんの進路の話になった。
「年明けに受験するの?」
「その前に推薦をもらおうと思ってる。」
「何か目標のようなものがあるのですか?」
早太子さんの質問は、答えを知っている人の聞き方だった。好海さんにもその空気が伝わって、恥ずかしそうに笑いながら言った。
「警察官になりたいと思ってます。」
これには僕は飛び上がってしまった。もう少しでフォークを取り落としそうになった。
「櫂さん、驚きすぎ。」
好海さんは頬を真っ赤にしながら言った。
「いや、ご、ごめん。」
僕は動揺を隠しきれずに、しどろもどろになってしまった。
「やはり、合宿所の事件の時の、女性警察官さんの印象が良かったのですね?」
「そうです。それに八井田さんも藍田さんも、素敵な人ばかりだったから。」
「どんな仕事を希望しているの?」
恥ずかしながら、僕は異常な不安に駆られていた。ドラマなどでよく見るのは刑事課の強行犯係の刑事たちの活躍で、危ないことだらけの世界としか思えなかったのだ。
藍田さんに親近感を憶えていたことは、うかつにも僕の中からすっかり消えてしまっていた。
「機動隊とか、強行犯係とかじゃないからね。」
好海さんは正確に僕の心配を感じ取ったらしい。
「生活安全課って分かる?」
「少しは知ってる。DVとかストーカーとか、普段の暮らしに中で起きる事件に対応する?」
「うん、地域の中で連続的に起こる事件に対応したり、未然に防いだり。住民の普段の生活に寄り添って活動する仕事。そういう仕事がしたいと思って。」
「素敵ですね。好海さんに合っていると思います。私が酷い目に遭わせてきた人たちのことを、好海さんはしっかりと心配してくれました。私はとても感謝しています。」
「早太子さんにそんな風に言ってもらえると、とても嬉しいです。」
「僕も、周りの人たちのことを丁寧に気にすることが、幸福の条件なんだって、教えてもらった。好海さん、生活安全課に向いているような気がする。」
生活安全課と聞いて、僕はホッとしたのだ。
でも、次に浮かんできたのは、大柄な逞しい警察官たちに囲まれる好海さんの姿だった。
このイメージには参った。まだまだ十分な自信が持てていないらしい。
僕は改めて、二人の関係を強固に育ててゆく覚悟を決めた。その上で、好海さんの志望を応援できるようになりたいと思った。
「大学は行くの?」
「行く。Ⅰ類の試験は大卒の人が受ける試験なんだって。社会学とか法律とかを学んで受験するの。」
良かった。まだ時間的な余裕があるんだ。
「警察官採用試験は、ペーパーもあるんだけど、二次試験で体力テストもあるの。だから、これから少し身体を鍛えたいと思って。武道もやらないといけないから、柔道を習おうかな。」
また、柔道の得意な巨体の男たちに囲まれた好海さんのイメージが浮かび上がってきたのを僕は必死で消し去った。
「僕も一緒に道場に通いたいな」と思わず言ってしまった。
「ホント! 行こうよ、一緒に!」
好海さんは一挙に盛り上がった。
「あと、体力テスト合格を目指して、ジムにも通いたい。試験でね、腕立て伏せとバーピーテストと上体起こしと反復横跳びがあるの。腕立ては十五回、パーピージャンプが二分間完全実施で、上位起こしが三十秒間で十五回以上、反復横跳びは147センチ以上を三十七回以上やらないといけないんだけど。」
「バーピージャンプって何?」と聞くと、好海さんは隣の部屋に行って見せてくれた。気をつけの姿勢からしゃがんで、腕立ての姿勢になって、また元に戻ってくる、あれのことだった。
「これを正確な姿勢でできないと一回にカウントされないの。上体起こしは、櫂さん手伝って。」と呼ばれて、隣の部屋に行った。
「足を押さえて。」
膝を立てて寝そべった好海さんは、胸の前で腕を交差して、腕立てをした。スカートがめくれ上がっていたけれど、結構平気で手伝えた。
「肘が膝に付くと一回。これを十五回、三十秒以内で。」
と言ったものの、好海さんは七回でギブアップだった。
「まだ道のりは遠い」と言って笑った。
「櫂さん、ジム探して、一緒に行こうよ。」
「いいよ。」
さっきまで胸の内に漂っていた不安はどこかに吹き飛んでいて、なんだかこれから楽しくなりそうな予感まで湧き起こってきた。
男って単純なものだ。それ以上に女の力って偉大だ。
楽しい食事だった。好海さんを家まで送り届けて、アパートに戻ってくると、早太子さんはお酒を作って待っていてくれた。
「櫂さん、好海さんとはうまくいきそうですね。」
「ありがとう。早太子さんのお陰です。」
「いいえ。櫂さんが真剣に努力した結果です。好海さんというとても良い方と出会えた幸運もありますね。」
「ほんとにそうだね。」
「これ、チーズを使った料理のレシピをまとめておきました。」
早太子さんはテーブルの上に置かれていた手書きのレポートを僕の方にずらして言った。
「ありがとう。仕事が早いね。」
これからゆっくりと二人で考えるのだと思って、僕は少し楽しみにしていたのだ。
でも、早太子さんは思いもかけないことを言った。
「それで、一段落したようにも思うので、私は翠さんのところに一度戻ろうかと思います。」
「え?」
早太子さんが居なくなる節目が、いずれはやってくるのは分かっていた。でもそれは、僕が結婚したり、充実した家庭生活を営めるようになったりした時の、もっと先の話だと思っていた。
「僕はまだ本当の幸せを手にしたかどうか、分からないよ?」
「ええ。人生は山あり谷ありですものね。けれども、それを言っていては、私は櫂さんが死ぬ時までずっとお側に居なければいけなくなりますよ。それはとりわけ好海さんにとっては、不都合なことでしょう。この先は、櫂さんと好海さんのお二人で、行けるところまで行くことが望ましいのだと思います。それが、人が生きるということではありませんか?」
僕は返事ができなかった。何か言えば必ず僕の我が儘にしかならないように感じた。
「ですから私は翠さんの元に戻りますね。」
「それは早太子さんが役目を終えて、もうこの世界から居なくなるってことなの? もう二度と会えなくなるってことなの?」
僕は心底焦っていた。自分でも信じられないくらいの恐怖に襲われていた。
「翠さんのところに戻ることが、どういう意味を持つのか、私自身には分かりかねます。私に分かるのは、今が翠さんのところに戻るタイミングだということだけです。藍田さんには、くれぐれもよろしく言っておいてください。きっと悲しい思いをさせてしまうでしょうね。それから藍田さんを通じて公安部にもお伝えしてもらって、山口さんにも安心してもらいましょう。ずいぶん厄介な存在と思われてしまいましたから。」
早太子さんの判断を変えることはできそうもなかった。
「今、これから、行っちゃうんだね?」
急に涙が溢れてきた。
「はい。」
「近いうちに、あの、事故現場に行くよ。もしその時まだこの世界に居たら、会えるかな?」
「もちろんです。その時は翠さんと一緒に少しだけ、お話ししましょう。」
「好海さんと藍田さんと三人で行く。」
「櫂さん、それではお元気で。好海さんと一緒に、幸福を目指していきましょう。」
「さよなら・・・」
僕は溢れてくる涙に気をとられていたのか、いつの間にか「さよなら」と言っている自分に気づいた。
言ってはいけない言葉だったのに。
でも、僕には分かっていたのかもしれない。
今の自分がとても幸せだということが。
幽霊の早太子さんは、僕の「さよなら」の言葉を合図にして、そのまま綺麗にスッと消えていった。
後には一人分のお酒のグラスと簡単なおつまみが残されているだけだった。
グラスの氷が青白く輝いて見えた。
世話焼き幽霊の早太子さん @J-Grin-T
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