音響エンジニア冴島ミミの怪異解析録 ―― 不可視の残留エネルギー

ソコニ

第1話「最初の音」

1

引っ越し作業を終えたのは、午後九時を回っていた。


段ボール箱が無造作に積まれた六畳一間の部屋で、僕は床に座り込んでいた。築四十年、鉄筋コンクリート造、家賃四万二千円。ユニットバスの水圧は弱く、畳は日焼けで色褪せ、壁紙は所々剥がれかけている。決して良い物件とは言えない。それでも、ここは僕にとって必要な場所だった。


静かだった。


それが何より重要だった。


僕は音響エンジニアとして十二年、音と向き合ってきた。レコーディングスタジオで楽器の音を拾い、映画の効果音を編集し、時には企業のサウンドロゴを制作する。音は僕の仕事であり、生活であり、呪いでもあった。


職業病、と言えば簡単だ。だが実際はもっと厄介だった。僕の耳は、望まなくても周囲のあらゆる音を拾い、分析し、記憶してしまう。電車の中では車輪とレールの摩擦音から速度を計算し、カフェでは空調の周波数帯域を無意識に測定している。


前のアパートは耐えられなかった。上階の住人の足音、隣室のテレビの音、廊下を歩く人の靴音。すべてが僕の神経を削っていった。不眠が続き、やがて仕事にも支障が出始めた。


だからこの「桜ヶ丘アパート」を選んだ。駅から徒歩二十五分。周囲に繁華街はなく、夜は人通りも少ない。内見の時、不動産屋は「古いけど、静かですよ」と言った。その言葉だけで十分だった。


僕は立ち上がり、部屋の隅に置いた機材ケースを開いた。中から取り出したのは、ハンドヘルド型の音響測定器だ。スマートフォンほどの大きさで、リアルタイムで周波数スペクトルを表示できる。これを使って、この部屋の「音紋」を記録する。


電源を入れる。液晶画面に波形が浮かび上がった。


まず目立つのは、低周波帯域の連続音。58Hz、振幅は比較的安定している。冷蔵庫のコンプレッサーだ。部屋の隅に設置された小型冷蔵庫が、一定のリズムで低いうなり声を上げている。この音は消えることはない。冷蔵庫が稼働している限り、ずっとここにある。


次に、不規則なパルス音。窓の外から聞こえる雨だれだ。測定器の画面を見ると、間隔は約1.2秒。完全にランダムではない。屋根の形状と雨の強さが生み出す、ある種のパターンだ。この音は雨が止めば消える。一時的なものだ。


そして、遠くから届く低い警告音。踏切だろう。この部屋からは見えないが、おそらく五百メートルほど離れた場所にあるはずだ。電車の通過時刻から逆算すれば、最終電車は午前零時四十分。それ以降、この音は消える。


他には――


僕は測定器の画面を凝視した。


何か、もう一つある。


ごく微かな、不規則なノイズ。周波数帯域は420Hzから440Hzあたりを揺らいでいる。音楽で言えば、A♭(ラの♭)の周辺だ。自然界の環境音にしては、妙に「整っている」周波数だ。


電気機器のノイズだろうか。いや、電磁ノイズなら50Hzか60Hzの倍音として現れるはずだ。水道管の共鳴? それにしては周波数が高すぎる。


何だろう、これは。


僕は部屋の中を歩き回り、音源を特定しようとした。だが、どこに近づいても音圧は変わらない。まるで、部屋全体から聞こえているかのようだ。


いや、部屋全体ではない。


壁から、だ。


隣室と接する壁に耳を当ててみる。かすかに、その謎の周波数が強く感じられる。


おそらく隣人が何か楽器でも弾いているのだろう。ピアノか、キーボードか。


気にする程度の音量ではない。むしろ、このレベルの生活音なら許容範囲だ。


僕は測定器の電源を切り、簡易ベッドに横になった。天井を見上げる。古い蛍光灯がかすかに震えている。おそらく安定器の劣化だ。耳を澄ませば、ごく微かに50Hzの電磁ノイズが聞こえる。でも、気にならない程度だ。


この部屋で、ようやく眠れる。


そう思いながら、僕は目を閉じた。


2

目が覚めたのは、深夜二時四十七分だった。


スマートフォンの画面が暗闇の中で青白く光っている。僕は反射的に時刻を確認し、それから音に耳を傾けた。


何かが聞こえる。


いや、「聞こえた」のだ。それが僕を目覚めさせた。


冷蔵庫の58Hz、雨だれの1.2秒間隔、遠くの踏切音。それらは相変わらずそこにある。だが、それとは別の音だ。


壁の向こうから。


僕はベッドから起き上がり、隣室と接する壁に近づいた。薄暗い部屋の中で、壁だけが不気味に白く浮かび上がっている。古い壁紙には、細かいひび割れが走っていた。


耳を澄ませる。


最初に聞こえたのは、足音だった。重く、不規則なリズムで床を踏む音。誰かが部屋の中を歩き回っている。いや、「歩き回っている」というより、「何かを探している」ような動きだ。方向が定まらない。行ったり来たりしている。


次に、物が動く音。引き出しを開ける音、クローゼットの扉が軋む音、何かを引きずる音。


そして、声。


低く、掠れた男の声。何を言っているのかは聞き取れない。だが、明らかに怒気を含んでいる。


別の声が返す。女性だ。その声は震えている。懇願するような、何かを否定するような調子だ。


僕は壁から一歩引いた。心臓が早鐘を打っている。


これは、夫婦喧嘩だろうか。それとも――。


ドン、という鈍い音が響いた。


何かが倒れた音だ。それも、重いものが。


僕は息を止めた。


その後、しばらく沈黙が続いた。冷蔵庫の音、雨だれの音、踏切の音。それだけが変わらず続いている。隣室からの音は消えた。


いや、消えていない。


かすかに、何かが擦れる音が聞こえる。布が床を滑るような、重いものを引きずるような音。それが徐々に遠ざかっていく。おそらく部屋の奥へと。


やがて、その音も消えた。


完全な静寂。


僕は壁の前に立ち尽くしていた。手が震えている。これは何だったのか。本当に人が倒れたのか。それとも、ただ家具が倒れただけなのか。


携帯電話を手に取る。警察に電話すべきだろうか。だが、何を伝えればいい。「隣の部屋から物音がした」? それだけで警察は動くのか。そもそも、これは本当に事件なのか。


僕は迷った。


そして、結局何もしなかった。


ベッドに戻り、毛布を被る。だが眠れるはずもなかった。壁の向こうに意識が吸い寄せられる。あそこで何が起きたのか。今も何かが起きているのか。


時計を見る。午前三時十二分。


外はまだ暗い。雨は止んでいた。


3

朝七時、僕は隣室のドアをノックしていた。


廊下には誰もいない。古いアパート特有の、カビ臭い空気が漂っている。204号室のドアは薄い緑色で、表札には「柴田」と書かれていた。


返事はない。


もう一度ノックする。今度は少し強く。


「はい」


中から声が聞こえた。男性の声だ。昨夜聞いた声とは違う。もっと若く、明るい調子だ。


ドアが開いた。


現れたのは、三十代半ばと思われる男性だった。短髪で、カジュアルなジャージを着ている。目の下に薄くクマがあるが、表情は穏やかだ。


「あ、新しい入居者の方ですか」男は笑顔で言った。「柴田といいます。よろしくお願いします」


「あ、はい。203号室に昨日越してきた冴島です」僕は名乗った。「あの、ちょっとお聞きしたいことが」


「どうぞどうぞ」柴田は人懐っこい笑顔を浮かべた。


僕は一瞬躊躇したが、口を開いた。「昨夜、こちらの部屋から物音がしたように思ったんですが」


柴田の表情が一瞬曇った。「物音?」


「ええ、深夜二時過ぎに。何か、物が倒れるような音が」


「ああ」柴田は納得したように頷いた。「すみません、それ、僕じゃないんですよ」


「え?」


「昨日は夜勤だったんです。朝六時まで会社にいました」柴田は申し訳なさそうに言った。「このアパートの管理会社で働いてるんですけど、設備トラブルがあって。防犯カメラにも映ってないはずですよ。確認できますけど」


僕は言葉を失った。


「もしかして、上の階じゃないですか?」柴田は天井を指差した。「304号室、最近引っ越してきた学生がいるんですけど、夜中に帰ってくることが多くて。壁薄いから、上の音が横から聞こえることもあるんですよ、このアパート」


「そう、ですか」


「何か困ったことがあったら、いつでも言ってください。管理会社勤務なんで、一応」柴田はまた笑顔を見せた。「あ、そうだ。最近このアパート、ちょっと変な噂があって」


「変な噂?」


「ええ。古い建物だから、時々変な音がするって。配管の音とか、建物の軋みとか。特に雨の日はね」柴田は少し声を潜めた。「昔、このアパートで事故があったって話もあるんです。まあ、古い建物にはよくある話ですけど」


僕は背筋が冷たくなるのを感じた。


「事故?」


「ああ、いや、詳しくは知らないんですけどね」柴田は手を振った。「気にしないでください。とにかく、何かあったらいつでも声かけてくださいね」


僕は礼を言って、自分の部屋に戻った。


ドアを閉め、壁に背中を預ける。


上の階、だろうか。


いや、違う。


僕の耳は間違えない。あの音は確かに、壁の向こうから聞こえた。真横から。上からではない。


だが、柴田は夜勤だったと言った。防犯カメラにも映っていない、と。


では、あれは何だったのか。


4

その日の夜、僕は測定器を壁際に設置した。


もし再び音が聞こえたら、それを記録する。主観ではなく、客観的なデータとして。


午後十時、僕はベッドに入った。だが眠るつもりはなかった。ただ横になり、耳を澄ませている。


冷蔵庫の58Hz。


雨だれは今夜はない。天気予報では晴れだった。


踏切の音が遠くから届く。


そして、あの謎の周波数。420Hzから440Hzを揺らぐ、微かな音。今夜も変わらず、壁の向こうから漏れてくる。


まるで、何かが呼吸をしているような、生命のリズムを持った音だ。


午前二時四十七分。


それは始まった。


足音。昨夜と同じ、重く不規則な足音。


引き出しを開ける音。クローゼットの扉が軋む音。


男の声。女の声。


そして、ドン。


何かが倒れる音。


僕は測定器の画面を見た。


波形が激しく揺れている。明確な音のパターンが記録されている。これは幻聴ではない。物理的な音だ。確かに、壁の向こうで何かが起きている。


女性の声が途切れた。


引きずる音。


そして、静寂。


僕は立ち上がり、壁に近づいた。ゆっくりと、耳を壁に当てる。


冷たいコンクリートの感触。


そして、聞こえた。


囁き声。


「……見つけたぞ」


低く、掠れた声。それは壁のすぐ向こうから聞こえた。まるで、誰かが壁に耳を当てているかのように。


僕は飛び退いた。


心臓が破裂しそうなほど激しく打っている。


見つけた? 何を? 誰を?


そのとき、音が聞こえた。


自分の部屋のドアノブが、ゆっくりと回る音。


カチャリ。


金属が擦れる、乾いた音。


僕は凍りついた。ドアを見つめる。


ドアノブが、ゆっくりと、右に回転している。


誰かがドアを開けようとしている。


外から。


廊下から。


だが、廊下には誰もいないはずだ。深夜三時に、誰が。


カチャリ、カチャリ。


ドアノブが回り続ける。


だが、ドアは開かない。鍵がかかっているからだ。引っ越してすぐ、習慣的にかけた鍵が。


回転が止まった。


沈黙。


僕は息を殺して、ドアを凝視していた。


足音が遠ざかっていく。


廊下を、ゆっくりと。


やがて、その音も消えた。


僕は床に崩れ落ちた。手が震えている。全身が冷や汗でびっしょりだ。


測定器の画面を見る。


記録されていた。すべてが。


壁の向こうの音。


そして、ドアノブの音。


データは嘘をつかない。


これは、現実だ。


5

翌朝、僕は記録した音声ファイルをパソコンで開いた。


波形編集ソフトで、細部まで分析する。


まず、壁の向こうから聞こえた足音。周波数帯域を見ると、80Hzから200Hzの範囲に集中している。これは確かに人間の足音だ。しかも、体重のある成人男性のものだ。


次に、物が倒れた音。衝撃音の特性から判断すると、質量のある物体が硬い床に倒れた音。床材はおそらくフローリング。


そして、女性の声。


僕はヘッドフォンを装着し、音量を上げた。


心拍が上がっている。スマートウォッチの表示を見ると、120bpm。異常な数値だ。深呼吸をして、落ち着こうとする。


声紋パターンを見る。基本周波数は約220Hz。成人女性の平均的な声だ。


だが、何かおかしい。


音質が妙に「薄い」のだ。


通常、人間の声には倍音成分が豊富に含まれる。それが声の「豊かさ」や「リアリティ」を生む。だが、この声にはそれが少ない。まるで、古い録音を再生しているような。


僕はスペクトログラムを拡大した。


そして、気づいた。


この音声には、高周波成分が18kHz以上ほとんど含まれていない。


現代のデジタル録音なら、少なくとも20kHz以上までカバーする。だが、これは18kHzで綺麗に切れている。


これは、古い録音方式の特徴だ。


さらに調べると、背後にかすかなノイズが混入している。テレビの音だ。それも、地上アナログ放送特有のノイズパターン。あの独特の「ザー」という音。


地上アナログ放送は、二〇一一年に終了した。


つまり、この音声は少なくとも七年以上前に録音されたものだ。


僕は椅子に深く座り込んだ。


壁の向こうで聞こえた音は、「今」起きていることではない。


「過去」の録音だ。


誰かが、過去に録音された音を、今、再生している。


では、なぜ。


何のために。


そして、最も恐ろしい疑問。


昨夜、僕のドアノブを回したのは誰だ。


音声ファイルを早送りして、その部分を探す。


ドアノブの音。金属が擦れる乾いた音。


周波数解析をかける。


その瞬間、僕は画面を凝視したまま動けなくなった。


ドアノブの音に、別の音が重なっていた。


ごく微かな、息遣いのような音。


人間の呼吸音だ。


僕は音量を上げ、ノイズリダクション処理をかけた。心拍がまた上がってくる。120、125、130――。


だが、ヘッドフォンから聞こえる音の奥に、それとは別の、もっと静かで一定のリズムが混じっている。


72bpm。


人間の平均的な安静時心拍数だ。


これは何だ。録音した時の、誰かの心臓の音なのか。


いや、違う。


この72bpmのリズムは、録音の「全体」に微かに重なっている。まるで、この音を「今、聴いている人間」の鼓動が――


僕は慌ててヘッドフォンを外した。


自分の手首に指を当てる。脈を測る。


速すぎて正確には測れないが、明らかに120を超えている。72ではない。


では、あの72bpmは誰のものだ。


録音の中に紛れ込んだ、別の誰かの。


それとも――。


もう一度、ヘッドフォンを装着する。


囁き声の部分を再生する。


「……見つけたぞ」


そして、その直後。


ごく微かに、別の声が重なっていた。


僕はボリュームを最大にして、ノイズリダクション処理をかけた。


囁き声が浮かび上がる。


「……ミミ」


僕は椅子から転げ落ちそうになった。


ミミ。


それは、僕の幼少期のあだ名だった。


耳がいいから、「ミミ」。小学生の頃、同級生たちがそう呼んでいた。


誰も知らないはずのあだ名。


少なくとも、このアパートの誰も知らないはずの。


いや、違う。


僕は立ち上がった。


七年前。


僕は、このアパートに住んでいた。


小学二年生の時。母と二人で、ここに。


301号室に。


記憶が、堰を切ったように溢れてくる。


古い畳の部屋。狭い廊下。錆びた郵便受け。


そして、隣の部屋。


302号室。


あの夜、僕は壁越しに何かを聞いた。


争う声。物が倒れる音。女の子の泣き声。


だが、怖くて、誰にも言えなかった。


翌朝、302号室の女の子――ユイちゃんは、いなくなっていた。


警察が来て、母が事情を聞かれて、僕も「何か聞かなかったか」と訊かれた。


でも、僕は首を横に振った。


何も聞いていない、と。


嘘をついた。


怖かったから。


巻き込まれたくなかったから。


なぜ、それを。


なぜ、壁の向こうから。


僕は窓の外を見た。


朝の光が、古いアパートの壁を照らしている。


隣の204号室の窓は、カーテンが閉まっていた。


6

その夜も、音は聞こえた。


午前二時四十七分。


寸分違わぬ時刻に。


同じ足音。同じ争いの音。同じ、物が倒れる音。


そして、「……見つけたぞ」という囁き。


ドアノブが回る音。


足音が遠ざかる音。


すべてが、昨夜と同じだった。


完全に、同じだった。


まるで、同じ録音を繰り返し再生しているかのように。


僕は測定器のデータを見た。波形パターンが、昨夜のものと完全に一致している。揺らぎもなく、完璧に。


これは録音だ。間違いない。


だが、なぜ。


なぜ、誰かがこんなものを繰り返し再生しているのか。


そして、なぜ僕のドアを。


僕は決心した。


明日、もう一度柴田に会う。


今度は、はっきりと聞く。


あなたは本当に、昨夜いなかったのか、と。


翌朝、僕は204号室のドアをノックした。


返事はない。


もう一度ノックする。


やはり、反応がない。


おかしい。朝の八時だ。出勤前のはずだ。


僕は廊下を見回した。誰もいない。


ドアノブに手をかける。


鍵はかかっていない。


ノブが、抵抗なく回った。


僕は躊躇した。これは不法侵入だ。だが、何かが僕を駆り立てた。


ドアを押し開ける。


部屋の中は、薄暗かった。


カーテンが閉まっている。


「柴田さん?」


声をかける。返事はない。


僕は一歩、中に踏み込んだ。


部屋は、僕の部屋と同じ間取りだった。六畳一間。


だが、様子が違う。


家具が、ほとんどない。


あるのは、簡易ベッドと、小さなテーブルだけ。


そして、壁際に置かれた機材。


大きな黒いケースが三つ。その上に、見慣れた形状の装置が並んでいる。


僕は息を呑んだ。


それは、音響機器だった。


指向性スピーカー、デジタルアンプ、そして録音再生装置。


プロ仕様の機材だ。


テーブルの上には、ノートパソコンが開かれていた。画面には、波形編集ソフトが起動している。


そして、その画面に表示されているファイル名。


「2018_03_15_0247.wav」


僕は画面に近づいた。


マウスを操作し、ファイルを開く。


波形が表示された。


見覚えがある。


これは、僕が昨夜録音した音と同じパターンだ。


いや、同じではない。


これが「原本」だ。


二〇一八年三月十五日、午前二時四十七分に録音された音声。


七年前の録音。


僕は部屋の中を見回した。


壁に、何かが貼り付けられている。


近づいて見ると、それは写真だった。


少女の写真。


十歳くらいだろうか。笑顔で手を振っている。


写真の下に、手書きのメモがあった。


「ユイ 2018年3月15日 失踪」


そして、その下に。


「隣室の住人(当時):冴島 ミミ(8歳)」


僕の名前。


僕の、幼少期のあだ名。


心臓が止まりそうになった。


なぜ、僕の名前が。


なぜ、ここに。


そのとき、背後で何かが床に落ちる音がした。


振り返ると、機材の陰に何かが転がっている。


金属製の、小さな物体。


僕はそれを拾い上げた。


音叉だった。


「A=440Hz」と刻印されている。ピアノの調律に使う、標準的な音叉だ。


だが、表面には錆と傷が無数についている。相当古いものだ。


なぜ、こんなものが。


柴田は管理会社勤務だと言っていた。音楽とは無縁のはずだ。


そして、部屋の隅に目が留まった。


大きな布で覆われた、四角い物体。


僕はゆっくりと近づき、布を引き剥がした。


現れたのは、古いアップライトピアノだった。


鍵盤の蓋を開ける。黄ばんだ象牙の鍵盤。


試しに中央のA(ラ)の鍵を叩いてみる。


音が鳴った。


だが、その音は――。


422Hz。


正しい440Hzではない。18Hzも低い。完全に調律が狂っている。


そして、僕は気づいた。


この422Hzという周波数。


それは、僕が初日の夜に測定した、あの謎の周波数に近い。


420Hzから440Hzを揺らぐ、微かな音。


このピアノが、ずっと鳴り続けていたのか。


いや、違う。


ピアノは鍵盤を叩かなければ音は出ない。


では、なぜ。


そのとき、背後でドアが閉まる音がした。


振り返る。


そこに、柴田が立っていた。


だが、その表情は昨日までとは違っていた。


笑顔はない。


ただ、静かに僕を見つめている。


その目には、涙が浮かんでいた。


「やっと、来てくれましたね」


柴田の声が、部屋に響いた。


「ずっと、待っていたんです。冴島ミミさん」


僕は言葉を失った。


「七年前、あなたは、隣の部屋にいた」


柴田は一歩、近づいてくる。


「301号室で、壁越しに何かを聞いたはずだ」


また一歩。


「僕の娘が、最後に発した声を」


柴田の目から、一筋の涙が流れた。


「教えてください。あの夜、あなたは何を聞いたんですか」


僕は壁に背中を押し付けた。


口が、震えている。


七年前。


僕がこのアパートに住んでいた頃。


隣の部屋、302号室。


その夜、確かに、何かを聞いた。


だが、僕は。


怖くて。


誰にも言えなかった。


「思い出してください」


柴田が囁く。


「あなたの記憶の中に、真実がある」


そのとき、部屋中のスピーカーから、音が流れ始めた。


争う声。


物が倒れる音。


そして、少女の声。


「……おじさん、やめて」


僕の膝が、崩れ落ちた。


その声を、僕は知っている。


七年前、壁越しに聞いた声を。


記憶の奥底に封じ込めていた声を。


でも、そのとき僕が聞いたのは、それだけじゃなかった。


もう一つ、別の音が。


ピアノの音が。


誰かが、下手くそにピアノを弾いていた。


調律の狂ったピアノで。


422Hzの、A♭の音を。


何度も、何度も。


「あの夜」


柴田の声が、遠くから聞こえる。


「あなたは、何を聞いたんですか」


僕は、震える手で耳を塞いだ。


だが、音は止まらない。


壁から、床から、天井から。


すべてが、あの夜の音を再生し続けている。


少女の悲鳴。


争う音。


そして、調律の狂ったピアノ。


同じ音を、繰り返し、繰り返し。


まるで、建物そのものが、あの夜を記憶しているかのように。


「ピアノ…」


僕は呟いた。


「誰かが、ピアノを弾いていた」


柴田の目が、見開かれた。


「ピアノ?」


「ええ。下手な演奏で。同じ音を何度も」


柴田は震える手で、壁のメモを指差した。


「この建物には、当時、ピアノ調律師が住んでいた」


彼の指が、一枚の名簿を辿る。


「101号室。一階の角部屋。今も、そこに」


僕たちの視線が、交錯した。


第1話 了


次回、第2話「録音された過去」へ続く

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