今日の天気

虫十無

 天気がいい日は上を見る。会社に着いてふと窓から空を見上げて、天気がいいなと思う。そこで目に入るあのビルに登りたい、急にそんな風に思う。どうしてだろう。あんな高いビル、普段の私なら視界に入るだけで少し怖い。高所恐怖症だからあの上に行くことを考えただけで落ちたらどうしようというところまで思考が行ってしまう。それなのに登りたいと思うなんて、おかしい。

 それからたまにあのビルに登りたいと思うようになった。それは決まって晴れている日の朝、私があの窓からあのビルを見たときだけ。それ以外の場所ではあんまり高いビルを見上げないし、朝じゃなかったり晴れていなかったりするタイミングであのビルを見ても登りたいとは思わない。でも晴れていてもあのビルに登りたいと思わない日だってある。基準はわからない。ただちょうどビルの近くに月が見えたことが数回あったからもしかしたら月も関わるのかもしれない。例えば月が同じくらいの大きさのタイミングは月に一回か二回くらいだろう、それはあのビルに登りたいと思う頻度と同じだから。月に気づいたのは数回だけれど気づかないだけであのビルに登りたいと思うときには毎回見ているのかもしれない。

 あのビルに登りたいと思うことを繰り返しているうちにじわじわと高所恐怖症が軽減してきた気がする。というより私が自分の高所恐怖症に対して本当にあるのだろうかと疑っているのかもしれない。怖いという気持ちはまだある。けれどそれは発生源のよくわからない登りたいという衝動に対するものに変わっていって、高いところが怖いというわけではないのかもしれないくらいの感覚になってきた。


 今日は――が降るでしょう。テレビから天気予報が聞こえる。朝の用意をしながらだから画面は見ることができない。けれどどうも一部聞き取れなかった。降ると言うのだから雨だろうとは思う。思うけれどなぜかそうは聞こえなかった。

 今日も晴れている。雨の予報のはずなのにと一瞬思ったけれどそんな思考はすぐに消える。天気がいいなと窓を見て、あのビルに登りたいと思う。この思考にももうそろそろ慣れてきたと思っていたけれど、なんだかそわそわする。我慢できない。あのビルに登りたいという衝動がいつもより強い。このまま仕事をするなんてできない気がする。走り出す。あのビルに、行かなければ。仕事なんかより重要だ、と思ってしまう。行かないといけない。あのビルに、登らなければいけない。

 走ってたどり着けるほど体力があるわけじゃない。へろへろになりながらあのビルにたどり着く。エレベーターには誰でも乗れる。偶然誰もいない。一人でエレベーターに乗る。けれど屋上行きのボタンはない。屋上に行かなければいけない。でも知っている。ボタンを正しい順番に押せば屋上にたどり着けることを知っている。なんで知っているんだろう、このビルに来るのは初めてのはずなのに。そんな風に考えている間にもエレベーターは屋上に着いて、私はまた走り出す。真っ直ぐ進もうとしてこっちじゃないと右手に行く。ビルの端に立って空を見上げる。月だ。天気がいいな。

 呼ばれていたんだ、と気づいたときにはもう足裏はなににもついていなかった。

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