連れていかれた午後

朝凪 つばき

第1話

 電車の揺れに身を任せながら、何か大事なものを置いてきた気がしていた。

 思い出せないのではなく、すでに連れていかれたあと――。

 そんな感覚だけが、胸の奥に残っている。

 窓に映る自分の肩越しを、白い影が一度だけ低い位置で横切った気がした。


 日曜の夕方で、車内はそれなりに混んでいた。買い物袋を下げた人や、仕事帰りらしい人が混ざっている。窓が少しだけ開いていて、暖まりきらない風が通り抜けた。冬の名残のような冷たさはあるが、コートが必要なほどではない。季節が変わり始めている、その途中の空気だった。


 スマホを取り出して、昼に観た映画の感想を読み返す。B級と呼ばれるタイプの作品で、筋は雑だったが嫌いではない。投稿にはいくつか反応がついていた。いいねの数を確認してから、もう一度、画面を閉じる。

 その瞬間、昼のことを思い出そうとしたわけでもないのに、ふと引っかかるものがあった。

 

 誰かと会った気がする。

 

 そう思った理由ははっきりしない。ただ、一人で過ごしたにしては、時間の手触りが違う。昼から夕方までが、ひと続きの線になっていない感じがした。

 思い出そうとすればできそうなのに、その気にならない。そんな距離感だった。

 

 電車が減速し、降りる駅が近づく。立ち上がる準備をしながら、何かを座席の横に置いたままにしているような気分になった。実際に置いた覚えはない。それでも、忘れ物をしているとき特有の、落ち着かない感じだけが残る。

 

 家に帰るまでの道は、いつもと変わらなかった。駅前の通りを抜け、住宅街に入る。アスファルトの隙間から伸びた雑草が、昼の名残を引きずるように青い。

 その景色を見ているうちに、昼の断片が、少しだけ形を持って浮かび上がった。

 

 昼ごろ、電車に乗る前だったと思う。 

 駅近くで、何か食べようとしていた。

 

 白いものが、足元のほうで視界を横切った。

 

 はっきりとした輪郭はない。動きだけが印象に残っている。足元をすり抜けるような、軽い気配。

 それを追うように、誰かがいた。

 

 女性だった気がする。

 

 顔は思い出せない。正面から見た記憶がないせいかもしれない。眠そうな雰囲気と、少し急いだ動きだけが残っている。徹夜明けだったのだろうか、と後から思った。

 彼女は、何かを取られたような様子だった。

 

 白いものを捕まえたのが、自分だったのかどうかは分からない。気づいたときには、追うのをやめて、近くのテラス席のあるカフェに入っていた。

 腹が減っていた、という感覚だけは確かだ。

 

 テラス席は静かで、風が心地よかった。上着を脱いでも寒くはない。季節がちょうどいいところに来ている。

 彼女と向かい合って座っていたはずなのに、会話の内容は思い出せない。コーヒーの湯気と、食器の音だけが記憶に残っている。

 

 テーブルの脚のあたりに、白い影があった気がする。

 誰も気に留めていなかった。それが当たり前のように、そこにいた。

 

 そこから先が、うまく繋がらない。

 時間が進んだのか、飛んだのか、判断がつかない。

 

 帰宅して、玄関で靴を脱ぐ。無意識にポケットの中を確かめたが、何も入っていなかった。何かを持っていたはずの感触だけが、指先に残る。

 部屋の空気は、まだ昼の温度を引きずっている。

 

 腕に赤い線があるのに気づいたのは、そのあとだった。細く、引っかいたような跡。いつついたのか分からない。日常のどこかに紛れ込む程度の傷だった。

 理由を考えるほどのことでもない、とそのときは思った。

 

 簡単に食事を済ませ、ソファに腰を下ろす。テレビはつけない。スマホを開くと、映画の感想にまた反応が増えていた。

 読み返しても、映画の内容より、書いたという事実のほうが遠く感じられる。

 

 洗濯を終え、干す前に、上着の袖口に目が留まった。

 洗い落としたはずなのに、細く白い糸のようなものが一本、残っている。理由は分からない。視線を逸らして、そのままにした。

 

 電気を消して横になる。

 昼の記憶は、もう形を失っていた。代わりに、誰かにそっと持ち去られたような感覚だけが、午後の重さを残している。

 

 遠くで電車が通り過ぎる音がした。

 身体がわずかに揺れた。

 

 連れていかれたのが記憶だったのかどうかさえ、もう揺れの中に紛れてしまっていた。

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連れていかれた午後 朝凪 つばき @Tsubaki_Asanagi

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