もしも円城塔先生が異世界に転移したら

LucaVerce

第1話:エンジョーとシン




円城塔賞の選考委員を務めるというのは、ある種の苦行であり、同時にテクストの海原への徒手空拳でのダイビングでもある。


私の手元にあるのは、応募総数四千二百通の中の、最終選考に残った一作だった。タイトルはない。表紙にはただ、「応募作」とだけ印字されている。


私は愛用のマグカップ(中身は冷めたコーヒーであり、それはつまり、熱を失った液体である)をデスクに置き、その原稿の最初のページをめくった。


一行目にはこう書かれていた。


『いま、冷めたコーヒーの入ったマグカップをデスクに置き、この原稿の最初のページをめくった男がいる。』


ほう、と私は唸る。自己言及的な導入。メタフィクションのクリシェではあるが、悪くない。問題はここからどう展開するかだ。私は二行目、三行目へと視線を走らせる。


テキストは、私の部屋の様子を、私の現在の思考を、恐ろしいほどの精度で記述していく。まるで、私の脳の言語野がそのままプリンターに接続されているかのように。


そして、ページの半分ほどを過ぎたあたりで、記述に変調が現れた。


『男は読み進める。しかし、彼が読んでいるのはインクの染みではない。彼が読んでいるのは、世界を再定義するためのコードそのものである。次の段落に差し掛かった瞬間、彼の座標は書き換えられる。』


私の意識は、その文章の意味を理解するよりも早く、視覚情報としての文字の崩壊を捉えた。原稿用紙の上の活字が、黒い蟻の群れのように這い出し、私の指先を、腕を、そして視界を覆い尽くしていく。


物理法則がゲシュタルト崩壊を起こす音が聞こえた。


「あ」


私の口から漏れたのは、意味をなさない音素が一つ。

次の瞬間、私はオフィスの椅子ではなく、泥と血の混じった匂いのする、見知らぬ荒野に立っていた。


事態を把握するためのロジックを構築する暇はなかった。

目前には、体長十メートルはあろうかという、爬虫類的な何かがいた。いや、「何か」としか形容しようがない。なぜなら、その生物は、鱗のテクスチャが粗く、関節の構造が生物学的に破綻しており、まるで三流作家が描写を放棄した結果生まれたかのような、存在感の希薄な怪物だったからだ。


「グオオオオオ」


怪物は、ステレオタイプな咆哮をあげた。その声は空気を振動させるというよりは、「咆哮という記号」として空間に貼り付けられたような薄っぺらさがあった。


そして、その怪物の足元、踏み潰される寸前の位置に、一人の青年がいた。

輝く鎧。整った顔立ち。誰がどう見ても「勇者」という役割を背負わされた存在。


しかし、彼は圧倒的に劣勢だった。剣は折れ、盾はひしゃげている。


彼――勇者は、突然現れた私(スーツ姿に眼鏡、手にはまだ読みかけの原稿を握りしめている)に気づき、パッと顔を輝かせた。


そして、彼は私に向かって大きく手を振り、叫んだ。


「おーい! 君! これを見てくれ!」


私は眼鏡の位置を直し、その勇者――後にシンと名乗ることになる男――を見下ろした。


「なんだ?」


彼は自身の武器を高く掲げ、真剣な眼差しで言った。


「この剣、ソードなんです」


私は眼鏡の位置を直した。

ソードは剣だ。直訳しただけだ。だが、彼の口調はあまりにも自信に満ちており、まるで世界の真理を突いたかのような響きがあった。


「……それがどうした」


「折れている! 剣が折れているということは、元の形ではないということだ!」


「事象の追認ご苦労。つまり君はピンチなわけか」


「そうだ! 今の私は危機的状況にある。なぜなら、ピンチだからだ!」


彼は力強く断言し、さらに続けた。


「助けてくれ! 見ての通り、私は今、敵に襲われている!」


なるほど。敵に襲われているということは、攻撃を受けているということか。

彼が発した言葉の、驚くべき情報量の無さに、私はこの世界に来て初めて、心からの興味を抱いた。


頭が痛くなってきた。

この世界の情報エントロピーはどうなっているんだ。彼は何一つ新しい情報を発していない。A=A。恒真式の化身か。


その時、ドラゴンが大きく息を吸い込んだ。ブレスが来る。

勇者――シンは、私の方を見て叫んだ。


「君、ただ者じゃないな? その佇まい……魔法使いだね! 魔法が使えるなら、魔法を使ってくれ!」


私は溜息をついた。

魔法使いではないが、この世界の記述が、私の知る言語体系で書かれていることは把握していた。ならば、書き換えることは可能だ。


「いいだろう。少し黙っていろ。定義を変更する」


私は空中に指を走らせ、ブレスの概念を無効化するためのロジックを展開し始めた。


「記述開始。対象オブジェクト『炎のブレス』における熱力学的パラメーターの再定義。エントロピー増大の法則を局所的に逆転させ、当該空間座標における分子運動を『熱』ではなく『テクスト』として置換する。すなわち、燃焼とは酸化反応ではなく、言葉の綾であり、比喩表現としての炎上が物理的熱量を伴うことは、この物語構造においてクリシェとしての脆弱性を露呈するものであり、したがって以下の修正パッチを適用することによって、現象界における熱エネルギーの総和はゼロに収束し、あるいは虚数空間へと退避されるべき事象であって、その際、因果律の不整合を回避するために、シュレディンガー方程式の解は観測者である私の主観によってのみ決定される……」


……


……


……


「……さらに付け加えるならば、この炎が『熱い』と感じるクオリア自体が、脳内物質による電気信号の誤認であり、形而上学的なアプローチにおいて『熱』は存在せず、ただ『熱いという概念』が浮遊しているに過ぎない。よって、私はこのブレスを、プラトン的イデア論に基づく影として処理し、実体としての質量およびエネルギーを剥奪すると同時に、ゲーデルの不完全性定理を応用した論理的結界を構築することで、この場における物理法則の優先順位を書き換え、第一義的に『私の言葉』を、第二義的に『世界』を配置する記述を行うものであり……」


「……長い!」


シンのツッコミが、荒野に響き渡った。


「長いよ! 詠唱が長いということは、時間がかかっているということだ!」


「……短絡的な読者め……この工程こそが美しいというのに」


私は不承不承、記述を強制終了した。

論理はまだ半構築だったが、効果は出た。ドラゴンの吐いた炎は、途中で「炎という文字」に変換され、バラバラと地面に落ちて砕けた。


ドラゴンが驚愕し、動きを止める。

その隙を見逃す私ではない。


「そうかシン。君の剣で、あいつの『存在の矛盾』を突けるか?」


私はドラゴンの胸部、テクスチャの継ぎ目が甘くなっている一点を指差した。

シンはキョトンとして答えた。


「矛盾? よくわからないが、斬れば切れるのが剣だ!」


「……そのトートロジーだけが、この世界の唯一の真実かもしれん。行け!」


「よし! 行くぞ! 行くということは、前進するということだ!」


シンは折れた剣を構え、疾風のように駆け出した。

そして、論理的な弱点などお構いなしに、ただの「勢い」で剣を叩きつけた。


「必殺! ファイナル・スラッシュ! これが最後の一撃だ! なぜなら、これで終わりにするからだァァァッ!!」


ズドンッ!!


物理法則も論理的矛盾も関係ない。

「これで終わりにするから最後だ」という、結果から原因を捏造する強引な論法が、ドラゴンのHPを一瞬でゼロにした。


ドラゴンは光となって消滅した。

後に残ったのは、静寂と、肩で息をするシンと、頭を抱える私だけだった。


シンが爽やかな笑顔で振り返る。


「ありがとう。君のおかげで勝てたよ。勝利したということは、負けなかったということだ」


「……そうだな。君のその言葉の重みの無さには、逆に救われるよ」


私は原稿用紙を懐にしまった。

とりあえず、危機は去ったようだ。


「君、名前は?」


「エンジョーだ」


「そうか、エンジョーか。変わった名前だな。どこに住んでるの?」


「……日本だ。ここよりずっと、複雑で面倒くさい世界だよ」


私が遠い目をしていると、シンは親指を立て、真っ直ぐな瞳でとんでもないことを言った。


「そうか。遠いんだな。ちなみに、僕、地元がホームタウンなんです」


「…………」


私は天を仰いだ。

地元がホームタウン。

My local area is my hometown.


この男の言葉は、どこまでも情報を増やさない。

だが、この異世界で生きていくには、このくらいの「中身のなさ」が丁度いいのかもしれない。私は諦めにも似た笑みを浮かべ、彼に歩み寄った。


「案内してくれ、シン。ホームタウンということは、君が住んでいる場所なんだろう?」

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2026年1月12日 21:20

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