翼の言葉

小狸

掌編

 安易に「救われた」なんて言葉を吐いてはいけないのは、承知の上である。


 それでも。


 あの時の私は、あの小説たちがなければ、生きてはいけなかっただろう。


 私が、さる小説家の先生に重度に傾倒しているということは、聡明なる諸賢ならば予想されていることだろう。私も自覚している。その先生の名前は、もうお分かりだと思うので明かさないでおこう。


 その先生の著作を初めて手にしたのは、小学校3年生の時である。随分ずいぶん背伸びをした読書だったことは、自覚している。当時の私には、正直何が書いてあるかほとんど分からなかったけれど、両親が、幼い頃に読んでくれた絵本を思い出して、それを契機きっかけとして、私は読書に耽溺たんできした。沈み込むように、のめり込むように、私はその先生の小説を読みまくった。


 一番好きだったのは、その先生の作風だった。


 具体的にどんな作風だったのかと言うと――それはバレてしまうので言わないけれど、特徴的な物語を作る先生だった。


 小学生の頃は、現実を露悪的に描写する物語が流行っていた。現実はこんなにも醜くて、酷くて、辛いんだ。だけど皆それを我慢して生きているんだ、――というような、救いようのない話ばかりであった。


 私は、その傾向が苦手であった。


 その先生の作風は、そうではなかった。


 いや、流行に背いていたとは言わない。奇をてらっていたとは言わない。流行はやりの小説のように、現実は厳しいことを私に突き付けてくることもないわけでもなかった。


 ただ、、と言っておこう。


 私はその先生の小説で、現実は厳しいだけではないことを知った。


 小学校5年生の、学校でのいじめも家庭環境も一番滅茶苦茶だった時期に、小説家になろうと決めた。


 それもまた、その先生の影響だった。


 あんな風になりたい――あんな作品を、世に出してみたい。


 いや、それは、今この時分から見て、美化されているだけである。


 当時は、「私みたいないじめられて家庭環境もクズクズの人間は、小説家になるしかないのだ」と、思って、思い込んで、思い詰めて、思い嘆いて、毎日学校から帰って、自分の部屋の引きこもって、泣きながら自由帳に稚拙で散逸した文章を書き殴っていた。


 今考えると、なかなかどうして、小説家への風評被害である。


 小説家だって立派な職業である。人とのコミュニケーションなくしては成立しない。


 それでも、昔の私からすれば、小説家になること、小説家として生きてゆくことというのは、家も学校もてんでどうしようもない私にとって、生きるための翼となっていたのである。


 とは、じょう


 そう簡単に小説家になることができれば、人間は苦労しない。なりたいものになりたいと思う気持ち、それは尊いものだけれど、だからといって何にでもなれるわけではない。


 それに、「あんな風になりたい」という憧憬が、クリエイター、特に小説家を目指すにあたって、良い影響を与えるだけとは限らないというのは、世の作家志望の方々も理解してくださることだろう。


 新人賞の選考評でも、散々指摘された点でもある。


『相当、○○先生の影響を受けていると思われる』


 今に至るまで、選考委員の先生や編集部の方々からの講評で、一体何度そう言われたか、数えきれた。


 やがて自分は天才ではないのだと知った。


 やがて自分は秀才でもないのだと知った。


 一発逆転の道などないのだと知った。

 

 その現実は、噛み砕いて認識するにはあまりに私には重かった。


 それでも小説家になりたいと思った。


 私の人生は、お世辞にも幸せだと思える瞬間は多いとは言えなかった。


 でも、だからといって。


 このままで、終わってたまるか。


 そんな思いを原動力に、小学5年生から今に至るまで、私は小説を書いている。


 今、私は20代である。


 あれから色々なことがあった。


 色々なことを学んだし、色々なものを失ったけれど、小説家になりたいという夢だけは、手放していない。


 まだ何の賞も受賞したことはない、実績はないし、何もない。作家志望であると胸を張って大勢の前で公言できるほどの度胸もない。


 それでも。


 今日も、明日も、明後日も。


 そしてその先も。


 私は小説を書き続けることだろう。




(「翼の言葉」――了)

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