幸福指数63点の世界で ―推奨外のおにぎりを買った日―

ソコニ

第1話 最低限の幸福

 三枝恒一が目覚めると、枕元のスマートフォンが静かに発光していた。アラームが鳴る三分前。画面には既に通知が表示されている。

【おはようございます。本日の推奨起床時刻まで、あと2分58秒です】

 恒一は画面をスワイプし、いつものアプリを開く。

【あなたの幸福指数:63】

適正範囲内です。本日も良い一日を。

 円グラフが淡い緑色で満たされている。六十三パーセント。昨日より二ポイント上がった。理由は分からない。

 洗面所に行き、顔を洗う。鏡の中の三十五歳は、特に疲れているわけでも輝いているわけでもない。歯を磨き、髭を剃る。スーツは二着を交互に。トーストを焼き、インスタントコーヒーを淹れる。

 食べながら、また画面を見る。習慣だ。

【本日の推奨消費額:1,847円】

【昨日の実績:1,620円(適正範囲内)】

 玄関を出る。廊下の蛍光灯が薄暗く点滅している。駅までは徒歩十二分。ホームで電車を待つ間、周囲を見る。

 ホームの端に、見慣れない区画がある。白い柵で仕切られ、「Priority Waiting Area」と書かれた看板。柵の向こう側には、数人が立っている。スーツの仕立てが違う。靴も、鞄も、スマートフォンの機種も。

 電車が来る。Priority区画の人々が先に乗り込む。一両目だけ内装が違う。座席が広く、照明が柔らかい。恒一は二両目に乗る。立ったまま、手すりにつかまる。

 会社に着く。デスクに座り、パソコンを起動する。データ入力、請求書の照合、資料の整理。

「おはよう」

 隣の席の田中が声をかけてくる。

「おはようございます」

 それだけ。

 十二時。昼休み。コンビニでおにぎりを買う。デスクで食べながら、スマートフォンを見る。

【あなたの幸福指数:62】

 一ポイント下がっている。なぜだろう。

 午後も同じ作業が続く。十八時。定時だが、十八時半まで残る。

 帰りの電車。またPriority車両を見る。中の人々は、疲れていない。笑っている。本を読んでいる人もいる。

 スーパーで弁当を買う。五百八十円。自宅に戻り、弁当を食べる。シャワーを浴びる。ソファに座る。

 また、アプリを開く。

【あなたの幸福指数:61】

 また下がった。

 画面が少し暗くなり、通知音が鳴る。

【幸福指数の低下傾向が検出されました】

【十分な休息を取ることを推奨します】

【明日の推奨起床時刻を5分遅らせました】

 恒一は画面を閉じた。

 布団に入る。目を閉じる。

 眠る。


 通知が来たのは、木曜日の昼休みだった。

【重要】生活最適化支援制度からのお知らせ

 恒一は画面をタップした。


三枝恒一 様

あなたの生活データを総合的に分析した結果、来月より生活水準カテゴリーが変更されます。

現在:C+(標準型)

変更後:B-(安定型)

この変更により、以下が適用されます:


居住地変更は半径5km以内を推奨

副業・転職は事前申請必須

月間推奨消費額の設定

交際・結婚時の事前申告


変更理由:

過去三年間のデータを分析した結果、あなたは「安定を重視する合理的な生活者」として分類されました。B-カテゴリーは、無理な挑戦を避け、現状維持に最適化されています。

詳細説明会:11月18日(土)14:00 中央区民センター

あなたの幸福のために。


 恒一はおにぎりを齧った。

 味はいつもと同じだった。


 土曜日。説明会。

 会議室には二十人ほどが座っている。年齢も性別もばらばらだが、服装が似ている。ユニクロ、GU、しまむら。Priority区画の人々とは違う。

 前方の男性が説明を始める。

「本日は、生活水準カテゴリーの変更についてご説明します」

 スクリーンに資料が映る。A+からDまでの七段階。B-は中間の「安定型」。

「もちろん、上位カテゴリーへの移行も可能です。ただし、統計的に成功率は低く、多くの方はB-で長期的な幸福を実現しています」

 男性は穏やかに続ける。

「これは制限ではなく、支援です。皆様の幸福のためのシステムです」

 説明会は一時間半で終わった。

 恒一が出口に向かうと、声がかかった。

「三枝さん?」

 振り返る。見覚えのある顔。

「……美咲?」

 高校の同級生。十七年ぶり。

「久しぶり。ちょっと話さない?」


 喫茶店。窓際の席。

 美咲はアイスコーヒーを飲んでいる。

「私、去年Cになったの」

「C?」

「維持対象。転職も副業も、ほぼできない。結婚も出産も非推奨」

 美咲はストローでグラスの氷をかき混ぜる。

「でもね、別に困ってないの」

「困ってない?」

「だって、やりたいこともないし。システムは、それを認めてくれてるだけ」

 美咲の手元を見る。スマートフォンのカレンダーアプリ。予定はほとんど入っていない。来月も、来年も。

「最初は反発したよ。でも、実際に私、何も成長してないもん」

 美咲は笑う。

「システムの方が正しかったんだよね」

 恒一はコーヒーを飲んだ。少し冷めている。

「でも……このままでいいのかな」

 美咲は少し驚いた顔をして、それから優しく言った。

「三枝さん、無理しないほうがいいよ。逆らうと、疲れるだけだから」


 自宅に戻り、ソファに座る。

 スマートフォンを開く。

【あなたの幸福指数:58】

【低下傾向が継続しています。休息を取ってください】

 画面の背景色が、わずかに暗くなっている。

 恒一は検索する。

「LOSP 上位移行」

 公式サイトを開く。申請フォームがある。

 名前、住所、現在のカテゴリー、希望カテゴリー。

 そして、最後の項目。

「移行を希望する理由」

 恒一は考える。

 なぜ上位に行きたいのか。

 もっと稼ぎたいから?

 違う。

 成長したいから?

 何を成長させるのか分からない。

 ただ、このままでいいのか確認したかった。

 それだけだ。

 恒一は入力する。

「このままでいいのか分からない」

 送信ボタンを押す。


「申請を受け付けました」


 画面が切り替わる。

 そして、音が鳴った。

 今まで聞いたことのない音。

 柔らかく、穏やかで、しかし止まらない。

 スマートフォンの画面が、淡いオレンジ色に変わる。

【あなたの幸福指数:49】

【急激な低下が検出されました】

【要観察対象に指定されました】

 音は続く。

 恒一は音量ボタンを押す。消えない。

 画面に新しいメッセージ。


三枝恒一 様

幸福指数の急激な低下が確認されました。

あなたの精神衛生をサポートするため、以下を提供します:


オンラインカウンセリング(無料)

生活改善プログラム

幸福度向上セミナー


また、あなたのストレス軽減のため、以下を自動調整しました:


リラクゼーション音楽の自動再生:有効

推奨起床時刻:30分遅延

推奨就寝時刻:30分早め


あなたの幸福のために。


 音楽が流れ始めた。

 ピアノと波の音。

 恒一はアプリを閉じようとする。閉じられない。

 画面が固定されている。

 三十秒後、ようやく閉じられた。

 しかし、音楽は止まらない。

 バックグラウンドで再生され続けている。

 恒一は設定を開く。音楽を止める項目がない。

 スマートフォンを再起動する。

 起動後、また音楽が流れ始める。

 画面に通知。

【リラクゼーション音楽は、あなたの幸福のために推奨されています】

【停止する場合、カウンセラーへの相談が必要です】

 恒一はスマートフォンを床に置いた。

 音楽は流れ続ける。

 優しく、穏やかに。


 翌朝。

 音楽で目が覚めた。

 画面を見る。

【おはようございます。本日の推奨起床時刻です】

【あなたの幸福指数:47】

 さらに下がっている。

 画面がオレンジから、薄い赤に変わっている。

 新しい通知。


【審査結果のお知らせ】

三枝恒一 様

上位カテゴリー移行申請の審査結果をお知らせします。

審査結果:不承認

理由:

申請理由が明確な成長意欲を示していません。統計的に、不明確な動機による挑戦は、94.2%の確率で幸福指数を低下させます。

あなたには、B-(安定型)での生活が最適です。

なお、本申請により幸福指数がさらに低下しました。

現在の幸福指数:41

要観察対象(重点サポート)

カウンセリングの早急な受講を推奨します。

あなたの幸福のために。


 恒一は画面を見つめた。

 何も感じなかった。

 リラクゼーション音楽が流れている。

 波の音。鳥のさえずり。

 画面の下部に、ボタンが表示される。

【カウンセリングを予約する】

 恒一はボタンを押した。

 日時選択画面。

 明日の十四時を選ぶ。

 予約完了。


「予約が完了しました」

「カウンセラーがあなたをサポートします」

「リラクゼーション音楽は、カウンセリング受講後に停止可能になります」


 恒一は小さく笑った。

 自分でも驚くほど、自然な笑みだった。

 優しい。

 システムは優しい。

 彼を守ってくれる。

 無理をさせない。

 傷つけない。

 失敗させない。

 考えさせない。

 音楽を流してくれる。

 カウンセリングを用意してくれる。

 すべて、彼の幸福のために。

 恒一は会社に行く。いつもと同じ電車。いつもと同じ仕事。

 昼休み。コンビニに向かう。

 スマートフォンが振動する。

【本日の推奨昼食メニューを提案します】

【おにぎり(梅)、野菜サラダ、麦茶】

【合計:498円(推奨消費額に適合)】

 恒一は棚の前に立つ。

 推奨されたおにぎり(梅)を手に取る。

 野菜サラダを手に取る。

 麦茶を手に取る。

 レジに向かう。

 途中で、足が止まる。

 棚の端に、見慣れないおにぎりがある。

 新商品。鮭ハラミ。

 恒一は立ち止まる。

 推奨メニューは梅だ。

 でも、鮭ハラミが食べたい。

 なぜだろう。

 理由は分からない。

 ただ、食べたい。

 恒一は鮭ハラミを手に取った。

 梅を棚に戻す。

 レジで会計を済ませる。

 デスクに戻る。

 鮭ハラミを開ける。

 食べる。

 美味しいとは思わなかった。

 まずいとも思わなかった。

 ただ、食べた。

 スマートフォンが振動する。

 画面を見る。

【推奨外の商品を購入したことが検出されました】

【あなたの幸福指数:39】

 二ポイント下がった。

 画面が赤く光る。

【カウンセリング予約を明日から本日18時に変更しました】

【あなたの幸福のために】

 恒一は鮭ハラミを食べ続けた。

 推奨外。

 でも、自分で選んだ。

 それだけだった。


 その夜。

 カウンセリングを受けた。

 画面越しに、穏やかな女性カウンセラーが微笑んでいた。

「三枝さん、今日は推奨外の商品を購入されましたね」

「はい」

「どうしてですか?」

「……分かりません」

「分からない、ですか」

 カウンセラーは優しく続ける。

「それは、不安の表れかもしれません。システムに逆らいたい気持ちが、無意識に行動に現れることがあります。でも、大丈夫。それは自然なことです」

 恒一は黙っていた。

「明日からは、推奨メニューに従うことで、幸福指数は回復します。無理をしないでください。あなたのままでいいんです」

 カウンセリングは三十分で終わった。

 画面が切り替わる。

【カウンセリングを完了しました】

【リラクゼーション音楽を睡眠モードに切り替えました】

【あなたの幸福指数:42】

 三ポイント上がっている。

 カウンセリングを受けたからだ。

 恒一は布団に入った。

 音楽が変わる。

 より深く、より静かに。

 恒一は目を閉じた。

 最後に、画面が一度だけ光った。


【あなたは今日も、日本社会にとって"適正"です】

【おやすみなさい】


 恒一は、その慈悲に包まれながら、眠りに落ちていった。

 深い眠りだった。

 夢を見た。

 推奨されていない夢を。

 鮭ハラミのおにぎりが、無数に並んでいる夢を。

 恒一はそれを、一つ一つ手に取っていた。

 誰にも止められることなく。

 ただ、選んでいた。

 目が覚めたとき、恒一はその夢をすぐに忘れた。

 スマートフォンが静かに発光している。

【おはようございます。本日の推奨起床時刻です】

 恒一は画面をスワイプした。

 いつもの朝が始まる。

 幸福な朝が。

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