欠月譚(けつげつたん)
加藤玲音(かとうれおん)
欠月譚(けつげつたん)
夜。空には欠けた月が浮かんでいた。満ちるには、まだ七日ほど足りない。
老いた詩人は、一人、石段に腰を下ろしていた。膝の上には書きかけの詩がある。羊皮紙に走る文字は途中で途切れている。彼はもう三日、この最後の一行を探していた。三日――いや、六十年かもしれない。詩人は若いころ、満ちようとしていた。誰よりも多くの言葉を紡ぎ、誰よりも美しい詩を書こうとした。出版された詩集は書肆の片隅に並んだ。誰の手にも取られず、やがて忘れられた。結婚もしなかった。子も持たなかった。言葉だけを愛してきた。血ではなく、言葉によって――いつか自分の魂を継ぐ者が現れる。その希望だけが、彼を支えてきた。でも今、最後の一行が書けない。
「満月は美しい。けれど――」
その先が続かない。詩人は月を見上げた。欠けた月は、静かに光っている。完璧ではない。不完全だ。それなのに――なぜこんなにも、心を揺さぶるのだろう。 風が吹いた。
「満ちることが、本当に美しいのだろうか」
自分の声か。それとも風が運んできた誰かの問いか。 詩人は立ち上がった。書きかけの詩を懐にしまい、杖を手に取る。
「答えを探しに行こう」
そう呟いて、歩き始めた。欠けた月に導かれるように。満月の国へ。完璧な者たちの国へ。 その夜、彼は二つの声を聞いた。一つは明晰な声。一つは揺らぐ声。詩人は、その二つの声に導かれるように、旅を続けた。
森を抜けると、苔むした巡礼路が続いていた。月明かりは細い刃のように石畳を照らす。道標の欠けた文字が、かろうじて「満ちる者の門」と読めた。詩人は立ち止まった。門はない。夜気だけが震えている。その震えに紛れるように、二つの声が重なった。
「行け」 「戻れ」
どちらも確かで、どちらも嘘ではない。 詩人は前へ歩いた。すると闇がわずかに裂け、月光の門が立ち上がる。満ちても欠けてもいない、不安定な光を孕んだ門だった。くぐり抜けると空気が変わった。湿り気が消えた。風が止んだ。遠くに灯りが散らばり、整えられすぎた街並みを照らしている。
そこはもう満月の国だった。 家々の影は均整のとれた線を描き、人々の顔には綻びがない。静物画のような沈黙だけが支配していた。 白い衣をまとった女が近づいてきた。湖面のように動かない瞳で詩人を見る。
「旅の方。あなたは欠けておられませんか」
詩人は小さく笑った。
「ほう、そう見えるかね」
女は淡々と言う。
「はい。あなたの心はいつも揺らいでおられます。ここでは欠けた心は許されません。不安を招くからです」
その言葉が、詩人の胸のどこかに触れた。 不安――書きかけの詩の最後の一行に踏み込めずにいた理由が、そこに潜んでいた。
「ひとつ尋ねてもいいか」 「どうぞ」 「あなたたちの心は、一度も揺らいで欠けたことがないのか」
女は迷いなく答えた。
「ありません。私たちは生まれたときから満ちています。揺らぎは必要ありません」
その瞬間、詩人の内側で何かがざわりと揺れた。揺らぎを孕む声と、それを拒む声が、胸の底で交差する。 詩人は夜空を仰いだ。満月は切るように冷たい光を放ち、完璧な円で空を支配していた。そのあまりの均整に、風も、胸の揺らぎも、どこかへ追いやられてしまったようだった。
胸の揺らぎがない――と詩人は気づく。揺らぎのない場所には言葉が生まれず、言葉の死んだ場所で詩が育つはずもない。懐の羊皮紙が、まるで続きを催促するように、微かに震えた。詩人は懐から羊皮紙を取り出した。月明かりに透かすと、途切れた文字が浮かび上がる。
「満月は美しい。けれど――」
その先を、彼はここで書こうとしていたのだ。満月の国で、完璧な円を見上げながら。しかし、手が動かなかった。
「それは詩ですか」
女が静かに尋ねた。詩人は頷く。
「書きかけの、な」
女は羊皮紙を覗き込んだ。何の感情も浮かべない。
「なぜ書き終えないのですか」
詩人は答えに窮した。なぜだろう。言葉はあった。技巧も、経験も、時間もあった。ただ一つ、欠けていたのは――確信だった。この最後の一行が、本当に自分の声なのかという。
「ここには詩人はいないのか」
詩人は問うた。女は首を振る。
「いません。詩は不完全なものを生み出すからです。私たちには不要です」
詩人は小さく息をついた。
「では、声を上げる者は」 「いません」 「心の揺らぎは」 「必要ありません。私たちは既に満たされているので」
詩人は羊皮紙を懐にしまった。ここでは書けない、と悟った。完璧な場所では、欠けた言葉は生まれない。満ちた者たちには、満ちようとする痛みが理解できない。 そのとき、風が吹いた。満月の国では止んでいたはずの風が、どこからか忍び込んできた。女は僅かに顔をしかめる。
「風は禁じられています。乱れを運ぶので」
しかし風は止まらず、詩人の髪を、衣を、そして羊皮紙の端を揺らした。その揺らぎの中に、声が混じった。
「なぜ、ここにいる」
それは問いの声だった。理性的でも、明晰でもない。揺らぎながら、心の深みに響く声。詩人は答えた。
「答えを探しに来た」
声は重ねる。
「答えは、ここにあると思うか」
詩人は黙った。そして、ゆっくりと首を横に振る。
「ないのかもしれない。少なくとも――私が求めている答えは」
風が強まった。女は後退りし、詩人に警告した。
「旅の方、ここに長居はできません。あなたの揺らぎが、私たちの均衡を乱します」
詩人は頷いた。
「わかった。もう行く」
彼は振り返った。来た道を戻ろうとした。 しかし門は、もうそこになかった。 代わりに、闇の中に細い道が一本、月明かりに照らされて延びていた。その先に、小さな灯りが見えた。 声がまた聞こえた。今度は二つ。 一つは明晰な声。
「その道は、満月の国の深部へ続いている。そこには、この国で唯一欠けた者がいる」
もう一つは揺らぐ声。
「その者に会えば、君の問いは深まるだろう。答えではなく、もっと深い問いへと」
詩人は迷わなかった。灯りに向かって歩き始めた。 欠けた者――それが誰であれ、そこに詩が生まれる余地があるなら、会う価値がある。 道は狭く、両脇には何もなかった。ただ闇と、遠くの灯りだけ。詩人は杖をついて進んだ。やがて灯りは大きくなり、小さな庵が姿を現した。
その同じ朝、満月の国の若者たちが暮らす寄宿舎で、少年は目覚めた。 身体がまた、熱を帯びていた。 白い壁が朝の光を均等に反射している。隣の寝台では、同じ年頃の少年が静かに身支度をしていた。その動作には一切の乱れがなく、まるで決められた型をなぞるように、衣を整え、髪を撫でつけ、白い履物に足を通す。 少年は自分の身体を見下ろした。 夜の間に、また何かが起きていた。身体の奥から湧き上がる、名前のつかない熱。それは恥ずかしく、隠さなければならないものだと、誰に教わるでもなく知っていた。
「おはよう」
隣の少年が声をかけてきた。その声には抑揚がない。
「おはよう」
少年は同じように答えたが、自分の声だけが、ほんの少しだけ震えている気がした。 広場に出ると、満月の国の朝が広がっていた。噴水は静かに水を吐き出し、人々は決まった場所に立ち、決まった時刻に動き出す。誰も急がず、誰も遅れず、すべてが完璧な調和の中にあった。 教師が若者たちを集め、今日の教えを授ける。
「満ちた者は、揺らがない」
教師の声は穏やかで、疑いを知らない。
「揺らぎは、欠けの証。私たちは生まれたときから満ちている。ゆえに、揺らぐ必要はない」
若者たちは頷いた。少年も頷いた。 でも、その頷きの奥で、何かが微かに揺れていた。 教師が白い紙を配る。
「今日は、満月への讃歌を書きなさい。満ちた光の美しさを、言葉にするのです」
少年は紙を受け取った。真っ白で、傷ひとつない。 周りの若者たちは、すぐに筆を取り、淀みなく文字を綴り始めた。
「満月は完璧です」 「満月は永遠です」 「満月は私たちを照らします」 「満月のおかげで心が安寧になり、平和が訪れます」 「満月は私たちの迷いを消してくれます」
そして、一人の少年が声に出して読み上げた。
「満月は完璧な円です。無限の円周率を追いかけて完璧を目指す――その姿こそ、美しい」
教師が頷いた。
「素晴らしい。数学的な美を見出している」
周りの若者たちも同調するように筆を走らせる。どれも同じような言葉が、同じような調子で並んでいく。 少年は筆を持ったまま、動けなかった。 ――何を書けばいいのだろう。 満月は、美しいのだろうか。 隣の少年が書いた「無限の円周率」という言葉が、少年の胸に引っかかっていた。円周率が無限に続く―― 少年は、かつて教師から学んだことを思い出していた。 円周率。『3.141592653589793238462643……』延々と続く数字の列。終わりがない。割り切れない。どこまで計算しても、完璧な値には到達しない。 ――それは、つまり。 少年の胸の奥で、何かがざわりと揺れた。 円は、決して完成しないということではないか。完璧な円を描くには、無限の精度が必要だ。でも、無限に続く円周率を、すべて計算し尽くすことなど、誰にもできない。 どこにも、完璧な円など存在しない。 その事実が、少年の中でゆっくりと形を取り始めた。 ならば――なぜ、満月だけが完璧だと言えるのか。 少年は窓の外を見た。空には、まだ満月が昇っていない。でも夜になれば、あの完璧な円が、空を支配する。傷ひとつない、完璧な円。 でも――本当にそうだろうか。 もし円周率が無限に続くのなら、満月もまた、本当は完璧ではないのかもしれない。 その問いが、少年の胸の中で静かに広がっていく。 欠けた月の方が――少年は思った。 欠けた月の方が、もっと近いものを孕んでいる気がする。名を持たぬ揺らぎ。何かが生まれようとする、空白の気配。完成していないからこそ、そこには余白がある。 余白があるから、何かが入り込める。 揺らぎがあるから、何かが動き出せる。 満月は完璧だ。だから、もう何も変わらない。何も生まれない。ただそこにあるだけ。 でも欠けた月は――まだ、何かになろうとしている。 少年の胸の奥が、熱くなった。それは、夜の身体の熱とは違う。もっと深い場所から湧き上がる、名前のつかない衝動だった。 これを、書きたい。 でも―― 少年は白い紙を見下ろした。 その問いを、口にしてはいけない。問いは、この国では欠けの証だから。「満月は完璧ではない」などと書けば、自分は追放される。 でも――問わずにはいられない。 少年の手が震えた。筆の先が、紙の上でわずかに揺れる。 書こうとした。書けなかった。 周りの若者たちが次々と紙を提出していく中で、少年だけが、まだ文字のひとつも刻めずにいた。白い紙は、何も語らず、ただそこにあった。 少年の胸の中では、問いだけが渦巻いていた。 ――円は、本当は不完全なのではないか。 ――満月もまた、どこかで欠けているのではないか。 ――完璧であることは、本当に美しいことなのか。 その問いを、言葉にすることができない。 教師が近づいてきた。
「……書けないのか」
少年は、かすかに首を振った。
「……書けません」
教師は少年の顔を静かに見つめた。咎めでも、憐れみでもなく、観察するような、淡い光のない眼で。 そして、ひとことだけ言った。
「――君は、欠けている」
その言葉は宣告だった。静かな裁きのように、少年の胸の底へ落ちた。 欠けている。 その言葉を聞いた瞬間、少年の中で何かが音を立てて崩れた。そうだ。僕は欠けている。僕は、満ちていない。 でも――それは、本当に悪いことなのだろうか。 教師は何も言わず、立ち去った。少年は白い紙を抱きしめた。その白さが、今は重く、冷たかった。 夕刻、少年は庵に戻った。 寄宿舎を離れ、満月の国の外れにある、誰も訪れない小さな場所。ここは、彼が一人になれる唯一の空間だった。そこだけが、彼の揺らぎを許してくれる場所だった。 机の上に、また白い紙を置く。今度は誰に見せるでもない。ただ自分のために。 少年は筆を取った。そして――書き始めた。
「円周率は、無限に続く」
一行だけ、書いた。その下に、もう一行。
「だから、円は決して完成しない」
さらに、もう一行。
「完璧な円など、どこにも存在しない」
少年は筆を止めた。次の一行が、どうしても書けなかった。 ――ならば、満月もまた? その問いを、紙の上に置くことができなかった。 少年は筆を置き、窓の外を見た。満月が昇り始めている。完璧な円。傷ひとつない光。 でも――少年の目には、その満月がもう「完璧」には見えなかった。 あの光の中にも、どこかに欠けがあるのではないか。ただ、誰も気づいていないだけなのではないか。あるいは――気づかないふりをしているだけなのではないか。 少年はその光を見上げながら、小さく呟いた。
「僕は……満ちていない」
その声は、誰にも届かなかった。でも――その声は、少年自身の耳には届いた。そして、その声の中に――少年は初めて、自分自身の「揺らぎ」を聞いた。 そして、その夜――扉を叩く音がした。 少年は顔を上げた。この庵に、誰かが訪ねてくることなど、これまで一度もなかった。 少年は立ち上がり、扉に近づいた。一瞬、躊躇した。 でも――扉を叩く音には、何か穏やかな響きがあった。恐れではなく、安心を感じさせる音。
「どうぞ」
少年は小さく答えた。扉が開き、一人の老いた男が中に入ってきた。杖をつき、旅の埃をまとった姿。その瞳は、満月の国の人々のように静止してはいなかった。 揺らいでいた。
庵の中は、満月の国の他の場所とは違う空気で満たされていた。整いすぎていない、ほんの少しだけ乱れた空気。 窓の隙間から風が入り込み、机の上の紙を微かに揺らしている。壁には染みがあり、床には土の跡が残っている。 ここだけが、完璧ではなかった。 詩人が中に入ると、奥の机に向かって座っている少年の姿が見えた。十四歳ほどだろうか。白い衣をまとい、背筋を伸ばして座っているが、その姿勢のどこかに、無理に保たれている緊張があった。 まるで、自分を縛りつけているかのような――あるいは、何かから守ろうとしているかのような。 机の上には、白い紙が一枚置かれている。何も書かれていない。ただ、そこにあるだけ。 少年は顔を上げた。その瞳は、満月の国の人々のように静止してはいなかった。微かに揺れている。何かを恐れ、何かを隠しているような揺らぎ。そして――何かを求めているような、名前のつかない渇望。 二人の視線が交わった。揺らぐ者と、揺らぐ者。 その瞬間、庵の空気が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。
「旅の方ですか」
少年の声は、まだ高く透明だったが、その奥に僅かな翳りがあった。声変わりの前の、壊れやすい声。 でも、その声の底には――誰かに聞いてほしいという、小さな祈りが宿っていた。
「そうだ」
詩人は答えた。
「あなたが、この国で唯一の欠けた者だと聞いた」
少年の表情が、一瞬こわばった。 欠けた者。 その言葉を、誰かの口から聞くのは初めてだった。教師は「君は、欠けている」と宣告した。でもそれは、観察の言葉だった。確認の言葉だった。 でも、この老人が口にした「欠けた者」は――何か、違う響きを持っていた。 咎めではない。憐れみでもない。ただ――事実として、そこにあるものを認める声。
「……そう、呼ばれています」
少年は、ようやくそう答えた。
「そう呼ばれているのだろう?」
詩人が重ねて問うた。少年は俯いた。机の上の白い紙が、視界の端に入る。何も書かれていない、完璧な白。しかし、その白は少年にとって――重荷のように見えた。
「私は……満ちようとしています」
少年の声は小さかった。
「でも、できないんです。身体が、心が、勝手に揺らいでしまう」
詩人は静かに少年の傍らに腰を下ろした。杖の音が、床に小さく響く。 しばらく、沈黙が続いた。 でも、それは重い沈黙ではなかった。むしろ――何かを待っているような、静かな沈黙。 風が窓から入り込み、白い紙の端をそっと持ち上げた。紙が微かに揺れ、また元の場所に戻る。
「どんなふうに?」
詩人が静かに問うた。少年は答えに窮した。どう説明すればいいのか、わからなかった。自分の中で起きていることを、言葉にしたことがなかった。 長い沈黙の後、少年は震える声で言った。
「夜、身体が熱くなるんです」
その言葉を口にした瞬間、少年の頬がわずかに赤くなった。
「満月の国の人は、そういうことに興味を持ちません。でも私は……何か、わからないものに引っ張られるように、身体が勝手に反応してしまう。それが恥ずかしくて、怖くて」
詩人は頷いた。
「それは欠けではない」
少年は顔を上げた。
「でも、みんなはそう言います。満ちた者は、そんな乱れを持たないと」 「乱れではなく、生きている証だ」
詩人は懐から羊皮紙を取り出した。月明かりに透かすと、途切れた文字が浮かび上がる。
「私もずっと、欠けたままだった。この詩の最後の一行が、どうしても書けなかった。満ちることができなかった。だから、ここに来た」
少年は羊皮紙を見つめた。そこには途切れた一行がある。
「満月は美しい。けれど――」
詩人は静かに言った。
「その先が、どうしても書けなかったんだ」
少年は顔を上げた。
「私も……書こうとしました」
少年は机の上の白い紙を見た。
「でも、何も書けない。満ちた言葉しか許されないこの国で、私の揺らいだ言葉は、どこにも居場所がないから」
詩人は少年の目を見た。
「君は、何を書きたかった?」
少年は長い沈黙の後、小さく答えた。
「わかりません。ただ……この身体の中で起きていること、この心の中で揺れていることを、誰かに聞いてほしかった。それだけです」
詩人は微笑んだ。
「それが、詩の始まりだ」 「でも」
少年は首を振った。
「私は――」
言葉が詰まった。どう言えばいいのか。
「私は汚れています」
少年は、ようやく絞り出すようにそう言った。
「身体が勝手に欲望を持ち、夜ひとりで……」
彼は言葉を切った。言えなかった。 詩人は静かに言った。
「身体が揺らぐことも、心が乱れることも、すべて生きている者の証だ」
少年は顔を上げた。
「満月の国の人々は、生まれたときから満ちている。だから、彼らは揺らぐことを知らない」
詩人は続けた。
「でも君は――君は満ちようとして揺らいでいる。その揺らぎこそが、君を人間にしているんだ」
少年の目から、一筋の涙が流れた。 満月の国では、誰も泣かない。涙は欠けの証だから。 でも今、少年の頬を涙が伝っている。その涙は、恥ずかしいものではなかった。初めて、自分の揺らぎを受け止めてもらった証だった。
「私は……このままでいいんですか」
少年の声は震えていた。
「いいも悪いもない」
詩人は答えた。
「君はただ、生きているだけだ」
少年は白い紙を見つめた。その白さが、少し前までとは違って見えた。重荷ではなく――可能性として。 そして、初めて問いを口にした。
「あなたは、どうして詩の最後の一行が書けなかったんですか」
詩人は答えた。
「確信が持てなかったからだ。満月が本当に美しいのか、それとも――欠けた月の方が、何か大切なものを持っているのではないかと」
少年は小さく息を吸った。
「……欠けた月の方が、美しいと思いますか」
詩人は頷いた。
「今はそう思う。君に会って、確信した」 「どうしてですか」 「君が揺らいでいるからだ」
詩人は静かに言った。
「満ちた者は、決して揺らがない。でも君は揺らいでいる。その揺らぎの中に、言葉が生まれる余地がある」
少年は震える手で、白い紙を持ち上げた。
「私に……言葉が生まれるんですか」 「生まれる」
詩人は断言した。
「君が揺らぎを恥じず、その揺らぎを言葉にしようとするなら」
少年は紙を胸に抱いた。そして、静かに言った。
「教えてください。あなたの詩の、最後の一行を」
詩人は立ち上がり、庵の小さな窓から外を見た。満月が、相変わらず冷たく輝いている。 でも――その光は、もう少年を苦しめる光ではなかった。 詩人は、ゆっくりと口を開いた。
「満月は美しい。けれど――欠けゆく光にこそ、人は自分の影を見る」
その言葉が庵の中に落ちた瞬間――空気がわずかに震えた。それは、満月の国では決して起こらないはずの震えだった。 少年は息を呑み、目を見開いた。何かが胸の奥で音を立てて剥がれ落ちるような表情だった。 詩は、まだ羊皮紙の上には書かれていない。ただ、詩人の声によって宙に置かれたまま、庵の片隅で揺れていた。
「……そんなことが、あるのですね」
少年は呟いた。言葉は低く、しかし驚きに震えていた。
「満月の国では、誰もそんなふうに思わない。思ってはいけないのです」
詩人は首を振った。
「思ってはならないものほど、心は求める。欠けた者は、それを知っている」
少年は白い紙を手に取った。紙はまだ空白だったが、指先に触れた瞬間――ほんのわずかな影が差したように見えた。満ちきっているはずの白に、微かなゆらぎが生まれた。
「私にも……書けるでしょうか」
少年の問いは、小さく、壊れやすいものだった。 詩人は答えず、ただ穏やかに微笑んだ。その微笑みに、少年は何かを悟ったのか、まぶたを静かに伏せた。
「旅の方……あなたは、この先どこへ行くのですか」
詩人は羊皮紙を懐に戻した。まだ何も書かれていない。だが、その空白は先ほどまでの「書けない空白」ではなかった。 書くべきものを待つ、静かな余白だった。
「欠けた月のところへ戻る。あの光に、続きを聞くために」
少年はうなずいた。そして、白い紙を胸に抱きしめた。 詩人は立ち上がり、扉に向かった。振り返り、最後にひとこと言った。
「君が書けば、芽は残る」
詩人の声は、静かだったが、確かだった。
「たとえ君がこの国から消えたとしても、言葉は、世界のどこかに滲み出る。満月の国のどこか深い場所で、胸の揺らぎのように根づく」
少年は震える指で白紙を握りしめた。
「怖いのです」
少年の声は小さかった。
「書けば、私はこの国から消えてしまうかもしれない」
詩人は静かに言った。
「欠けた言葉は、どこにあっても消えない」
詩人の目は、優しかった。
「たとえ書いた者が消えたとしても、言葉は生き続ける」
少年は息を吸い、震えを抑えるように吐いた。その表情には、恐れと、わずかな決意が入り混じっていた。 詩人は扉を開けた。外では、満月の光が相変わらず冷たく輝いている。 でも――その光は、もう絶対的なものではなかった。 詩人は振り返らずに、庵を出た。 庵の戸を閉めると、満月の国の夜が戻ってきた。 さきほどまで風の出入りを許されていた小さな空間は、扉一枚を隔てただけで、もう別の世界のように思えた。 外気は乾いていて、冷たい。街の方角には、相変わらず、傷ひとつない光が広がっている。整えられた家々の輪郭は揺らがず、広場の塔もまた、夜の中央に針のように立っていた。 すべてが、完璧な秩序の中にあった。 詩人は一度だけ振り返ったが、庵の小さな灯は見えなかった。闇に紛れたのか、あるいは、自分の目が老いてきたのか。いずれにせよ、確認しようとは思わなかった。 あの少年は、もう自分の道を歩き始めている。 詩人は、光の方ではなく、闇の方へ歩き出した。 足元の土がわずかに柔らかくなった気がした。石畳が途切れ、苔と土と、見えない草の匂いが混じる。満月の国の境界は、門でも柵でもなく――光の届くかすかな範囲によって形づくられているのだ。 詩人は初めてそのことに気づいた。 背後から、整った白い光がそっと彼の影を押し出し、その影が前方の闇に溶けていく。 詩人は満月を振り返ることなく、ゆっくりと歩を進めた。満ちた光に背を向けると、闇は不思議と、少しだけ優しくなるのだった。
そのころ、庵の中では――少年がじっと閉ざされた戸を見つめていた。 さっきまでそこに立っていた老いた詩人の気配は、もうない。 残っているのは、机の上の白い紙と、まだ消えきらない灯の名残りだけだった。 少年は紙を手に取り、指先でそっと撫でた。つい先ほどまで、これはただの「書けない白」だった。満月の国の誰もが、この白さこそ完全だと言い張る、傷のない余白。 しかし今――その白は微かに重みを帯びているように感じられた。欠けた言葉のための場所として、ようやく自分の方へ重心を傾けはじめているような。 少年は立ち上がった。灯を消し、戸を開ける。 冷たい空気が流れ込み、風がひとすじ、庵の中を通り抜けた。白い紙がふわりと踊り、彼の胸元に落ち着く。 少年はその紙を抱いたまま――街の中心へ向かって歩き出した。 広場には、人々がいつものように集まっていた。完璧な円を描く噴水の縁に、満ちた者たちが思い思いに腰掛け、言葉少なに時をやり過ごしている。 空には、墨で描いたような満月が、何事もなかったかのように浮かんでいた。傷ひとつない、完璧な円。 少年はその光を見上げた。 以前なら、その光に怯えていた。自分が「欠けている」ことを、あの光が暴き出すような気がしていた。 でも今――少年は、その光を恐れていなかった。 むしろ、その光の中に、微かな曇りを見た気がした。円周率が無限に続くように――満月もまた、本当は完璧ではないのかもしれない。 少年が小さく息を吸い込み、声を出すまで、誰ひとりとして彼に気づく者はなかった。
「私は……満ちていません」
その言葉は――広場の中央に置かれた透明な器に落ちた黒い滴のように、静かに響き、そして沈んだ。 すぐ近くにいた女が、かすかに眉をひそめた。男が一瞬だけこちらを見る。 だが誰も、口を開かなかった。 否定もしない代わりに、肯定もしない。見て見ぬふりの沈黙が、広場全体を覆っていた。 少年は続けようとはしなかった。その沈黙こそが、この国の答えなのだと知っていたからだ。満月の国では、欠けた者は――否定されるのでもなく、受け入れられるのでもなく、ただ、見えないものとして扱われる。 少年は紙を胸に抱いたまま、広場を横切った。 誰も彼を呼び止めない。背中に投げかけられる視線はあったが、それは「去っていくもの」を惜しむ視線ではなく――「自分たちと違うもの」を確認するための視線だった。 満ちた者たちは欠けたものを恐れている。傷つけることを恐れているのではない。触れることで自分自身の光に曇りを見つけてしまうことを、何より恐れているのだ。 少年は歩き続けた。一歩、また一歩。 広場の外れまで来たとき、少年は振り返った。満月の光の下で、国はいつも通りに見えた。笑い声も、ささやき声も、決して大きくはならない範囲で、これまでと同じ音量で流れている。 何も変わっていない。何も変わることはない。 少年は小さく息を吸った。そして――
「さようなら」
誰に向けたとも知れぬそのひと言を残し、少年は光の縁を越えていった。
足元の石はやがて土に変わった。土はやがて、誰の足も踏まなくなった斜面へと続いていく。 満月の光が背中から少しずつ離れていくにつれて、少年の影は長くなり、その輪郭は曖昧になった。曖昧になればなるほど、不思議と、彼自身の呼吸は楽になっていった。 揺らぎを許される空気。欠けることを咎められない闇。 身体が、ようやく馴染みはじめていた。 そのとき――少年の胸の奥で、何かが音を立てて剥がれ落ちた。 満月の国で纏っていた、透明な皮。それは目には見えない。触れることもできない。でも、確かにそこにある。 「満ちなければならない」という、見えない皮。 「揺らいではならない」という、見えない縛り。 「欠けてはならない」という、見えない重さ。 それらが――今、少年の身体から剥がれ落ちていく。 少年は立ち止まった。呼吸が、変わった。 これまでよりも、深く。これまでよりも、自由に。胸の奥から、空気が入り込んでくる。それは、生まれて初めて吸う空気のように、新鮮だった。 少年は自分の手を見た。まだ子供の手だ。細く、頼りない。 でも――その手が、少しだけ違って見えた。もう、誰かの手を待つ手ではない。自分で何かを掴もうとする手だ。 少年は白い紙を胸から離し、月明かりに透かしてみた。まだ何も書かれていない。 でも――この白さは、もう重荷ではなかった。 詩人が言った言葉を、少年は思い出していた。 「欠けゆく光にこそ、人は自分の影を見る」 少年は空を見上げた。満月は、もう遠くにあった。その光は冷たく、完璧で、揺らがない。 でも――少年の目の前には、別の月があった。欠けた月。まだ見えない。でも、確かにそこにある。 少年は歩き始めた。その歩みは、さっきまでとは違っていた。もう、子供の歩き方ではなかった。 迷いながら、でも前へ。揺らぎながら、でも進む。 それは、大人になろうとする者の歩み方だった。
山あいに差しかかったところで、少年は一つの影に気づいた。 岩と岩のあいだの細い道の先に、小さな人影が見える。杖をつきながらゆっくり歩く、その姿は――彼がつい先ほど見送ったばかりの詩人のものに違いなかった。 少年は小走りに追いつき、息を整えながら声をかけた。
「旅の方」
詩人は振り返った。闇に慣れつつある目が、少年の輪郭を探り当てる。 そして――詩人は、わずかに目を見開いた。 少年の目が、変わっていた。さっきまでの、恐れと戸惑いの目ではない。決意と、かすかな光を宿した目。
「来たのか」
それだけを言うと、詩人は少しだけ口元を緩めた。咎めるでもなく、驚くでもなく――そこにいるのが当然であるかのような表情だった。 いや――そこにいる「べき」だと、知っていたかのような表情だった。
「追放されたのではありません」
少年は言った。その声は、さっきまでよりも低く、落ち着いていた。声変わりが始まっているのか――あるいは、心が変わったことで、声も変わったのか。
「私が、自分で出てきました」 「そうだろうと思っていたよ」
詩人はうなずいた。そして――詩人は、少年の肩に手を置いた。
「君は、脱皮したのだな」
少年は、その言葉の意味を理解した。脱皮。古い皮を破って、新しい自分になること。
「……はい」
少年は答えた。
「まだ、完全ではありません。でも――もう、戻れません」
詩人は微笑んだ。
「戻る必要はない。前へ進めばいい」
そして――二人は並んで歩き始めた。 満月の光が遠ざかり、闇が深くなっていく。でも、その闇は怖くなかった。二人とも、揺らぐ者だったから。 そして――少年は、もう子供ではなかったから。
二人は並んで歩きはじめた。 左右には、まだ形を持たない闇が広がっている。頭上には、満月の国で見たものより一回り小さな月がかかっていた。そこにはもう、完璧な円の緊張はなかった。 すでにどこか欠け始めているのか、それとも、最初から満ち足りることを諦めているのか。どちらにせよ――その光は、いま二人の足元だけをそっと照らしていた。 少年は、その光を見上げた。満月の国で見た満月とは、まったく違う。この月は――揺らいでいる。 完璧ではない。欠けている。 でも――だからこそ、優しい。
「書いたのですか」
少年が問うた。
「まだだ」
詩人は答えた。
「だが、言葉はもうある。あとは、どこに置くかだけだ」
二人は、やがて小さな窪地に出た。 風がよく通る場所で、草とも苔ともつかぬものが地面を覆っている。遠くには、かつて満月の国を囲んでいた光の帯が、かすかな輪郭を失いながら横たわっているのが見えた。 もう、あの光は遠い。 詩人は腰をおろし、懐から羊皮紙を取り出した。少年もまた、自らの白い紙を胸から離し、両手でそっと広げた。 二枚の紙は、月光の下でほとんど見分けがつかないほど似ていた。 でも――一方には言葉があり、一方にはまだない。
「聞いておきたいのです」
少年が言った。
「あなたが、あの庵で口にした最後の一行を」
詩人はしばらく空を見上げていた。欠けかけた月が、静かにその身を細らせている。有限の光。消えゆく光。 でも――だからこそ美しい光。 その光の下で、詩人はゆっくりと口を開いた。
「満月は美しい。けれど――欠けゆく光にこそ、人は自分の影を見る」
その一行を声にした瞬間――風がひと筋、彼らの間を抜けた。 少年の白い紙がかすかに震え、羊皮紙の端がふわりと浮いた。言葉は空中にほどけていくのではなく、むしろ――この場のどこかにそっと沈んでいくように思えた。 地面に。草に。風に。 そして――少年の胸に。
「書きましょう」
少年が言った。 詩人はうなずいた。そして――羊皮紙に筆先を落とした。ゆっくりと。滲まないように。しかし迷いなく。一文字ずつ、確かめるように書き進めていく。 少年はその様子をじっと見つめていた。その目は相変わらずどこか揺らいでいたが、今はそこに――かすかな光が宿っていた。 詩人が書き終えると、羊皮紙にははっきりと、先ほどの一行が刻まれていた。 「満月は美しい。けれど――欠けゆく光にこそ、人は自分の影を見る」 詩人は筆を置いた。そして、少年を見た。
「君は」
詩人が言った。
「その続きに、何を書く」
少年は自分の紙を見下ろした。何も書かれていない白い面が、今度は彼に問いかけている。満ちることを求めるのではなく――欠けたままの自分が、どのような言葉を差し出せるのか。 長い沈黙が流れた。 風は止まってはいなかったが、その音も、二人の耳には届かなくなっていた。 少年の胸の中で――何かが動いていた。名前のつかない何か。言葉になる前の何か。 揺らぎ。 やがて少年は、そっと筆を取り上げた。手は震えていた。でも、それは恐れだけの震えではなかった。始まりの震えでもあった。 少年は自らの紙の上段に、詩人の一行を書き写した。まるで胸の揺らぎを写すように、一文字ずつ、大切に。 「満月は美しい。けれど――欠けゆく光にこそ、人は自分の影を見る」 書き終えると、ほんの一呼吸おいて、下の行を空けた。 その余白に、少年は自分自身の言葉を探る。胸の奥から――まだ名を持たない何かが、ゆっくりと立ち上がってくる。それは、祈りでも、歌でも、叫びでもない。 ただ――溢れ出そうとする声。 少年の手が動いた。一文字。また一文字。 「そして、その影の中で、私たちは初めて声を持つ」 書き終えた瞬間――少年は小さく息を吐いた。 胸の奥にあった固いものが、少しだけほどけるような感覚があった。何かが、解放された。 詩人はその言葉を見つめた。ゆっくりとまぶたを閉じた。 そして――
「そうだ」
彼は言った。
「影の中でしか、声は生まれない」
二人の紙は、ほとんど同じ詩を宿していた。老いた詩人の羊皮紙には、彼自身の手で書かれた最後の一行があり――少年の紙には、その一行に寄り添うように、新たな一行が添えられている。 二つの紙。二つの声。 でも、一つの詩。 二つの紙は、風に揺れながら、やがて重なった。詩人が手を伸ばし、そっと二枚を合わせ、両者の言葉をひとつの面に押し当てる。 その瞬間――風の音が、不思議と音楽のように聞こえた。 影の音楽(Musica dell'Ombra)。
「これは……何でしょう」
少年が囁いた。
「欠月の溢声(いっせい)だよ」
詩人は答えた。 少年は首を傾げた。
「溢声……?」
詩人は少年の胸に手を置いた。
「今、ここで何かが動いているだろう」
少年は頷いた。確かに――胸の奥から何かが立ち上がり、喉を通って、今にも声になろうとしていた。抑えきれない。止められない。 夜、一人で感じていた身体の熱のように。白い紙を前にして苦しんだ、言葉にならない揺らぎのように。 それらすべてが――今、声になろうとしている。
「それが溢れ出すとき――それが溢声だ」
詩人は静かに言った。
夜が深まった。星々の輪郭がくっきりとしてきた。月はさらに細くなり、その光は二人の顔だけを照らしているようだった。 長い道のりが、ここでひとつの終わりを迎えつつあることを――詩人は薄々感じていた。身体のどこかが痛むわけではない。ただ――内側から灯がゆっくりと静まっていくような、穏やかな疲れがあった。
「旅の方」
少年が言った。
「あなたは、これからどこへ行くのですか」 「ここまでだろう」
詩人は笑った。その笑みは、悲しくなかった。満ち足りていた。
「問いは、君に託した。これから先は、君の溢声が見ていく世界だ」
詩人は地面に身を横たえた。草とも苔ともつかぬ柔らかなものが、背中を受け止める。 空が広がった。細くなった月と、数えきれないほどの小さな光が、彼の視界に滲んだ。 美しい。 欠けた月は、本当に美しい。 少年はその傍らに膝をつき、二枚の紙を胸に抱きしめた。
「怖くはないのですか」
少年が問うた。
「何がだい」 「満ちる前に……消えていくことが」
詩人は、かすかに首を横に振った。
「満ちきる前に消える光ほど、長く世界に残る」
詩人の声は、もう遠くなっていた。
「君と出会って、ようやくそう思えるようになったよ」
言葉はそこで途切れた。だが、その途切れ方は不意の中断ではなかった。書き終えた詩の最後の行のように、静かに訪れる余白だった。 詩人の呼吸は次第に浅くなった。その胸の上下動も、やがてまったくわからなくなった。 少年はしばらく、その顔を見つめていた。 そこには苦痛の跡は一つもなく――ただ、長い旅を終えた歩行者の、静かな安堵だけが宿っていた。 詩人は、満ちることなく消えた。 でも――その欠けた光は、少年の中で永遠になった。 夜のどこかで、鳥が一声だけ鳴いた。それはこの世界にまだ、言葉にならない生の気配が残されていることを知らせる――小さな印のように思えた。 少年は目を閉じた。涙は出なかった。悲しみよりも先に――この場に残された責任のようなものが、胸の奥を占めていたからだ。 少年は二枚の紙を見た。詩人の言葉と、自分の言葉が、そこにある。 これを、誰かに届けなければならない。 いや――これを、声にしなければならない。 少年は立ち上がった。深く息を吸った。 そして―― 胸の奥から、何かが溢れ始めた。 やがて東の空が、うっすらと白みはじめた。 欠けた月の輪郭が薄れ、星々がひとつずつ退いていく。夜と朝の境目。終わりと始まりの境目。 少年は、その境目に立っていた。 傍らには、詩人が静かに横たわっている。もう、呼吸はない。 でも――その顔は、穏やかだった。 少年はゆっくりと立ち上がった。胸に抱いていた紙を開く。 そこには、老いた詩人と自分の二人分の言葉が、同じ詩の中に並んでいる。 「満月は美しい。けれど――欠けゆく光にこそ、人は自分の影を見る。そして、その影の中で、私たちは初めて声を持つ」 少年はその二行を、声に出して読んでみた。最初は小さく。でも、読むうちに――声の高さが少しずつ変わっていく。 言葉が音になり、音が旋律の端をつかみかける。 少年はふと口を閉じた。言葉だけでは足りないのだと感じたからだ。 世界のどこかに、まだ名を持たない音が眠っている。祈りでも、歌でも、叫びでもない――ただ、溢れ出そうとする声。 それを呼び起こす役目が、自分に回ってきたのだと――少年はかすかに悟っていた。 少年は深く息を吸った。朝の冷たい空気が、肺に満ちる。 そして――胸の奥から、何かが動き始めた。 夜、一人で感じていた身体の熱。白い紙を前にして苦しんだ、言葉にならない揺らぎ。満月の国で抑えてきた、すべての問い。詩人との出会いで解放された、すべての痛み。 それらすべてが―― 今、喉を通って、外へ流れ出そうとしている。 風が、少年の喉を通り抜ける。 次の瞬間――胸の奥から何かが溢れ始めた。抑えきれない揺らぎが、息となり、声となって、外へ流れ出していく。 それが溢声だった。 言葉と、言葉にならないもののあいだを往復するような、頼りない旋律だった。途切れがちで、震えていて、完璧ではない。 だが―― その頼りなさこそが、この世界に初めて生まれた「欠けた者の声」の証だった。 満月の国の人々は、決してこんな声を上げない。彼らの声は整っていて、揺らがず、完璧だ。 でも――この声には、生きている者の息が宿っている。 溢声は風に乗った。山あいを抜けていった。満月の国の方角へ。光のほころびを知らない人々の街へ。完璧な円を讃える者たちの広場へ。 風が、彼らの頬を撫でる。その風の中に――かすかな声が混じっていた。 聞こえるか、聞こえないか――わからないほど、微かな声。 でも、確かにそこにある声。 欠けた者の、溢声。 少年は声を上げ続けた。詩人の姿はもうどこにもない。草の上に、その身体が静かに横たわっているだけ。 でも――詩人の言葉は、少年の喉の奥で息をしている。少年自身の影と混ざり合って、新しい音を生み出している。 二人の声が、一つになって、世界へ流れ出していく。 細くなった月は、とうとう朝の光に溶けて見えなくなった。空は白く染まり、夜は完全に退いた。 でも―― 少年の溢声のどこかには、欠けた月の輪郭が、確かに残っていた。 見えなくても、そこにある。消えても、残っている。 有限だからこそ、永遠になる。 風が吹いた。声が揺れた。その揺らぎの中に――世界のどこかから、別の声が微かに応える気がした。 老いた詩人の声かもしれない。 まだ出会っていない誰かの声かもしれない。 いずれにせよ、その声はもう――満ちた光の方角からではなく、影の深みに近い場所から響いていた。 少年は目を閉じた。でも、声を止めなかった。 溢声は途切れなかった。 朝が来ても。月が消えても。詩人が逝っても。 声は、流れ続けた。 終わりのない終わりの中で――欠月の溢声が、静かに世界を満たしはじめていた。 影の音楽(Musica dell'Ombra)が――今、生まれた。
【完】
欠月譚(けつげつたん) 加藤玲音(かとうれおん) @onsomu33
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