いいねが止まらない SNS依存が招いた、ふたりと一匹の育児記録
ソコニ
第1話 優しい同居人
スマホの画面越しに見る世界は、いつだって現実より少しだけ鮮やかで、優しい。
画面の中、ベージュの毛並みのチャイが、誰もいない廊下の空間に向かって前足を伸ばしている。まるで見えない誰かと、楽しそうにじゃれ合っているみたいに。尻尾をピンと立てて、小刻みに震わせながら、何かを追いかけるように跳ねる。
「ほら、チャイ。ユウ君、そこにいるの?」
私の問いかけに、チャイが短く「ニャッ」と鳴く。完璧なタイミングだった。
私は震える手で録画ボタンを止めた。指先が微かに痛む。廊下の突き当たりに立って、左手でテグスを引き続けていたせいだ。透明な糸が人差し指と中指の間に食い込んで、薄く赤い線を刻んでいる。
でも、この痛みは悪いものじゃない。これは「努力の証」だ。みんなを幸せにするための、小さな代償。
慣れた手つきで編集アプリを開く。画角の端、私の左手が細いテグスを引いている部分は、数タップで綺麗に切り取られる。フィルターは「ナチュラル」を選択。明るさを15パーセント上げて、彩度を少しだけ落とす。そうすると、部屋全体が柔らかい光に包まれているように見える。
キャプションは悩んだ末、シンプルに。
『今日もユウ君が遊びに来てくれました。チャイも嬉しそう♡』
投稿ボタンを押した瞬間、心臓が早鐘を打つ。来る。来る。
三秒後、スマホが震えた。
脳の奥に、直接甘い蜜を注がれるような感覚。全身の血が、一気に頭に昇る。指先が痺れて、呼吸が浅くなる。
通知を開く。
『わぁ、今日もユウさん遊びに来てるんですね!』
また震える。
『チャイちゃんの鳴き声が甘えてて、本当に優しい幽霊さんなんだなって伝わります』
また。
『ミナトさん、一人じゃないですよ。愛されてますね』
また、また、また。
スマホを握る手が震える。涙が滲む。この温かさ。この優しさ。この「認めてもらえている」感覚。
チャイの痩せた骨の感触を、通知の振動が麻痺させていく。
そう。私は、一人じゃない。ユウは死んでなんかいない。このスマホの画面が、みんなの言葉が、私の「正解」を証明してくれている。
ふと視線を上げると、画面の外の「現実」の廊下に、チャイが座っていた。
チャイは、もうじゃれついてはいなかった。
痩せて浮き出た背骨を丸め、微動だにせず、ただじっと私を見つめている。その瞳は、スマホの画面に映っていた「楽しそうな猫」とは別の生き物のように、何かを訴えかけていた。肋骨の一本一本が、呼吸のたびに浮き沈みするのが見える。
「……どうしたの、チャイ。お腹空いた?」
近づこうとすると、チャイの喉から、聞いたこともないような低い地響きのような音が漏れた。
ウ、ゥゥゥ……。
それは、スマホに録音された「甘えた声」とは似ても似つかない、剥き出しの敵意。耳を伏せ、瞳孔を針のように細めて、まるで野生に戻ったかのような表情。
「ユウ君が怖がるでしょ。そんな声出しちゃダメだよ」
私は微笑んで言い聞かせた。チャイの視線は、私の足元でも、背後の空間でもない。真っ直ぐに、私の「目」に突き刺さっていた。
まるで、「そこに誰かいる振りをしているのは、お前だろう」と告発するように。
不快感が喉元まで込み上げてくる。でも、スマホが震えた。新しい通知。その振動が、不快感を押し流してくれる。
『ミナトさんの動画、いつも癒やされます。ユウさんとの馴れ初めも、また聞かせてください!』
ユウとの馴れ初め。
……あれ、どんなだったっけ。
優しくて、穏やかで、私を絶対に一人にしないって言ってくれた。階段の下で、血を流して横たわっていた時のユウだって、最後は私を見て笑って――
違う。
階段の下? ユウは事故で――いや、考えたくない。ユウは私を愛していた。それだけは確か。
「……ねぇ、そうだったよね、ユウ君」
暗い廊下に向かって問いかける。返事はない。ただ、チャイの鋭い爪がフローリングをカリ、カリ、と削る音だけが、夜の静寂に響いていた。
翌朝、私は仕事のメールを開くのが億劫で、代わりにSNSのタイムラインを眺めていた。昨夜投稿した動画は、既に3,000回以上再生されている。「いいね」は200を超えた。
200。
この数字を見るたびに、全身が痺れるような快感が走る。200人が、私を認めてくれた。私の「幸せ」を祝福してくれた。
コメント欄を開く。
『毎日投稿楽しみにしてます!』
『チャイちゃん、痩せた? 大丈夫ですか?』
『ミナトさんの笑顔が見られて嬉しいです。辛い時期を乗り越えてるんですね』
三番目のコメントを読んだ瞬間、また震えが来る。
でも、二番目のコメントに、少しだけ引っかかった。
「痩せた?」
スクロールを続けると、また別のコメント。
『この猫、瞳孔が開いてて苦しそう。虐待してませんか?』
心臓が止まりそうになる。
虐待? 私が?
そんなわけない。私はチャイを愛してる。ちゃんと面倒を見ている。ユウも見守ってくれている。この人は、きっと私とユウの幸せが妬ましいんだ。可哀想な人。
私はそのコメントをタップして、「ブロック」を選択した。
画面から、そのアカウントが消える。存在しなかったことになる。
スッキリした。
残ったのは、温かいコメントだけ。これが「本当」のコメント欄。
でも、手が止まらない。他にも、似たようなコメントがないか、探してしまう。
『主さん、最近投稿多すぎない? 依存してない?』
ブロック。
『猫の目が死んでる。病院連れてってあげて』
ブロック。
一つ、また一つと、「優しくない」コメントを消していく。テグスを引くときのように、指が痛くなるまで、画面をタップし続ける。
最後に残ったのは、「いいね」と「可愛い」と「癒やされる」だけ。
これでいい。これが正しい。
キッチンに向かうと、ステンレスの餌皿が床に置かれていた。中には、カリカリのドライフードが――入っていない。空っぽだ。
いつから空なんだろう。
昨日、あげたっけ? 一昨日は?
思い出せない。でも、きっとあげたはずだ。チャイがこんなに元気なんだから。
私は袋からフードをザラザラと注いだ。チャイはすぐには来なかった。廊下の隅から、警戒するように私を見つめているだけ。
「ほら、ごはんだよ。食べないの?」
チャイはゆっくりと近づいてきたが、私が手を伸ばすと、また距離を取る。まるで、私を信用していないかのように。
結局、私がキッチンを離れてから、チャイは餌皿に顔を埋めた。がっついて食べる様子に、胸がチクリと痛んだ。
でも、すぐにスマホが鳴った。新しい「いいね」の通知。その音が、小さな痛みを上書きしてくれた。甘い蜜が、また脳に注がれる。
午後、私は在宅ワークのデザイン作業に取り掛かった。クライアントから送られてきた修正依頼のメールを開くと、やたらと細かい指摘が並んでいる。
「この色味、もう少し明るく」「フォント、別のに変えて」「全体的にもっとポップに」
言ってることが毎回違う。前回は「落ち着いた雰囲気で」って言ってたのに。
イライラが募る。集中できない。
私はメールを閉じて、SNSを開いた。昨日の動画に、また新しいコメントが増えている。240いいね。250いいね。260いいね。
数字が増えるたびに、脳が震える。もっと。もっと欲しい。
『ミナトさん、ユウさんはどんな人だったんですか?』
どんな人だったか。
ユウは――優しかった。いつも私を見てくれた。私だけを。
そう、私だけを見ていてくれた。他の誰とも話さないでって、お願いしたら、ユウは笑って「ミナトだけでいいよ」って言ってくれた。
あの日、ユウが仕事の飲み会に行こうとしたとき、私は泣いて引き止めた。「私を置いていくの? 私のこと、もう好きじゃないの?」
ユウは困った顔をして――いや、笑っていた。ユウはいつも笑っていた。
階段を降りようとするユウの腕を掴んだとき、ユウは振り返って――
いや。
考えちゃダメだ。
私はコメントに返信した。
『ユウは、世界で一番優しい人でした。今でも、私とチャイを見守ってくれています♡』
エンターキーを押す。すぐに、温かいコメントが返ってくる。
『素敵ですね』
『泣けます』
『ユウさん、きっと幸せですね』
そう。ユウは幸せだ。私も幸せだ。
だから、あの日のことは考えなくていい。
スマホが震え続ける。通知が止まらない。指先が痺れて、視界が滲む。
気づいたら、私は床に座り込んでいた。スマホを握りしめたまま、画面を見つめている。
チャイが、遠くから私を見ていた。その目には、諦めのようなものが浮かんでいた。
夕方、チャイの様子がおかしいことに気づいた。
廊下の隅で、じっと動かない。呼んでも反応しない。近づくと、また威嚇の声を上げる。
心配になって、スマホで検索した。「猫 痩せる 原因」。
検索結果には、「ストレス」「病気」「栄養失調」といった言葉が並ぶ。でも、チャイは病気じゃない。ストレスなんてあるはずがない。ユウがいるんだから。
そうだ、動画を撮ろう。チャイが元気に遊んでいるところを撮れば、みんなが安心してくれる。そして、「いいね」が増える。
私はテグスを手に取り、廊下の先に立った。チャイはまだ隅で丸まっている。
「ほら、チャイ。ユウ君が呼んでるよ」
テグスを揺らす。透明な糸が、また指に食い込む。さっきの傷が開いて、じんわりと血が滲む。でも、痛みは心地いい。これは「愛の証」だ。
チャイは動かない。
「チャイ、お願い。ちゃんと遊んで」
もっと強く引く。糸が指の肉に食い込んで、皮膚が擦り切れる。血が滴る。
チャイがゆっくりと顔を上げた。その目には、疲労と諦めが滲んでいた。
でも、カメラを向けると、チャイはゆっくりと立ち上がり、テグスに向かって前足を伸ばした。まるで、演技をしているかのように。まるで、「これ以上この人を刺激したら、もっと酷いことになる」と理解しているかのように。
私は録画ボタンを押した。血の滴る手で、スマホを握りしめる。
「そうそう、いい子だね。ユウ君も喜んでるよ」
撮影が終わると、チャイはすぐに廊下の隅に戻った。もう、私を見ようともしない。ただ、壁の方を向いて、小さく震えている。
でも、動画は完璧だった。編集して、フィルターをかけて、投稿する。
指の血は、ティッシュで拭えば見えなくなる。
コメントが流れ始める。
『今日も可愛い!』
『癒やされる〜』
『ミナトさん、幸せそうで良かったです』
そう。私は幸せだ。
スマホが震える。また震える。止まらない。
私は床に座り込んで、画面を見つめ続ける。通知の数が増えるたびに、甘い蜜が脳に注がれる。指の傷が疼くたびに、快感が走る。
これが、私の「正しさ」の証明。
夜、私は久しぶりにユウの写真を見返していた。スマホのアルバムに保存された、二人の思い出。
海辺でのデート。遊園地。カフェ。
でも、よく見ると、ユウはあまり笑っていない。どの写真も、どこか疲れたような、諦めたような表情。
いや、そんなことはない。ユウはいつも笑っていた。私といるときは、幸せそうだった。
写真を拡大する。ユウの目が、カメラではなく、私の方を見ている。その視線には――何か、言いたそうな、でも言えないような。
スマホを閉じた。考えたくない。
代わりに、SNSを開く。新しい通知。300いいね。
脳が痺れる。もっと。もっと。
『ミナトさん、ユウさんの好きだった曲とか、教えてください!』
ユウの好きだった曲。
……なんだったっけ。
ジャズ? いや、ロック? それとも、クラシック?
そういえば、ユウと一緒に音楽を聴いた記憶が、あまりない。いつも私が選んだ曲を、ユウは黙って聴いていた。
でも、ユウが好きだった曲くらい、知ってるはずだ。
私はSpotifyを開いて、適当にプレイリストを選んだ。ジャズの、静かな曲。これでいい。ユウはこういう曲が好きだったはずだ。
音楽を流しながら、廊下に向かう。
「ユウ君、この曲好きだったよね」
誰もいない空間に話しかける。返事はない。
でも、私はそこにユウがいると信じている。信じたい。信じなければならない。
だって、ユウがいなければ、私は――
深夜2時。
私はまだ起きていた。眠れない。最近、ずっと眠れない。
スマホの画面を見つめる。今日投稿した動画は、5,000回再生を超えた。コメントも300以上。
でも、足りない。もっと欲しい。もっと「いいね」が欲しい。もっと「優しいコメント」が欲しい。
私は新しい動画の構想を練る。明日は、チャイがもっと可愛く見える角度で撮ろう。フィルターももっと明るくしよう。
鏡を見に行く。洗面所の蛍光灯の下、映った自分の顔は――確かに、やつれていた。目の下にクマ。頬はこけて、唇は血の気がない。指には、テグスの傷が生々しく残っている。
でも、スマホのカメラで自撮りすると、フィルターが全てを修正してくれる。肌は明るく、目はキラキラと輝いて見える。傷は消える。
私はその写真を保存した。これが、「本当の私」だ。
鏡の中の顔は、もう見ない。見たくない。
首筋に、何か違和感がある。まるで、見えない糸が食い込んでいるような。でも、触っても何もない。
きっと、疲れてるだけだ。
その夜、私は廊下でユウの好きだった曲――ということにした曲を流しながら、一人で踊っていた。
スマホのスピーカーから流れる、静かなジャズ。私は目を閉じて、ユウと踊っているところを想像する。
ユウの手が私の腰に回る。私はユウの肩に手を置く。ゆっくりと回る。
「ユウ君、また一緒に踊れて嬉しい」
誰もいない空間に語りかける。
「ずっと、ずっと、一緒だよね」
回る。回る。回る。
指の傷が疼く。首筋の違和感が強くなる。でも、踊り続ける。
目を開けると、廊下の隅で、チャイがこちらを見ていた。
その目は、もう「猫」の目ではなかった。何かを諦めた、冷たい、絶望的な視線。人間を見るような、いや、人間以下の何かを見るような目。
私は踊るのをやめて、チャイに近づいた。
「チャイも、ユウ君と踊りたい?」
チャイを抱き上げようとすると――
ガブッ。
鋭い牙が、私の手に食い込んだ。傷だらけの、血の滲んだ手に。
「痛っ!」
思わず手を引くと、チャイは飛び降りて、廊下の奥へと逃げた。振り返って、もう一度、私を睨む。
その視線は、ミナトの「足元」ではなく、ミナトの「顔」を睨んでいる。
まるで、「お前は狂っている」「お前がユウを殺した」「お前が私を殺している」と、はっきりと告げるように。
私の手から、血が滴り落ちた。
でも、私は笑った。
「ユウ君が怒ってるのかな。チャイ、ごめんね。もっと優しくするよ」
スマホを取り出す。血で画面が汚れる。でも、気にしない。
廊下の先には、誰もいない。ただ、壁に飾られたユウの遺影だけが、暗闇の中でぼんやりと光を反射していた。
その写真の中のユウは、笑っていなかった。
いや、笑っていたはずだ。私が選んだ写真なんだから。
私は遺影を撮影した。フィルターをかける。明るさを上げる。彩度を調整する。
画面の中のユウは、今、確かに笑っていた。
「ほら、やっぱり笑ってる」
私はその写真を保存して、SNSに投稿した。
『ユウ君、今日も一緒に過ごせて幸せです。ずっと、ずっと、そばにいてね♡』
投稿ボタンを押す。
すぐに、通知が鳴り始めた。
震える。震える。止まらない。
脳に蜜が注がれる。全身が痺れる。指の傷が疼く。首筋の糸が締まる。
『素敵』
『泣けます』
『ミナトさん、本当に愛されてますね』
そう。私は愛されている。
ユウは、ここにいる。
だから、私は一人じゃない。
廊下の隅で、チャイが小さく鳴いた。
それは、悲鳴のようでもあり、諦めのようでもあり、最後の警告のようでもあった。
でも、私にはもう、聞こえなかった。
スマホの通知音だけが、夜の部屋に響き続けていた。
画面を見つめる私の瞳は、もう何も映していなかった。ただ、増え続ける数字だけを追いかけている。
350いいね。360いいね。370いいね。
もっと。もっと。もっと。
指から血が滴る。首筋の見えない糸が、さらに食い込む。
でも、私は幸せだ。
スマホがそう言ってくれるから。
【第1話 終】
次の更新予定
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