名推理は縁側で ~苦い真実の翻訳家~
米弧
第1話「消えた饅頭の行方」
五月の午後、縁側に座る祖母の横顔は、庭の木々と同じくらい穏やかだ。
僕が祖父を亡くしてこの家に越してきたのは、ちょうど桜が散る頃だった。喪失感に沈む祖母を支えるつもりだったのだが、実際には僕の方が、この静かな日常に救われている。
「魚屋のご主人、またやったねぇ」
お茶をすすりながら、祖母がぼそりと呟いた。
「え?」
「さっき届けに来た時、サングラスなんてかけてただろう。あれ、奥さんに殴られたアザを隠してるんだよ」
僕は思わず湯呑みを取り落としそうになった。確かに主人は妙に大きなサングラスをしていたが、まさかそんな理由だったとは。
「……ばあちゃん」
僕は恐る恐る尋ねた。
「まさかとは思うけど、本人に『殴られたの?』とか聞いてないよね?」
「聞くわけないじゃないか」
祖母は心外だと言わんばかりに眉をひそめた。僕はホッと胸を撫で下ろす。
「よかった……。さすがにそこは気を使うよね」
「ああ。『サングラスじゃ隠しきれないくらい腫れてますよ』って教えてあげただけだよ」
「それが一番言っちゃダメなやつだよ!」
僕の悲鳴に、祖母はきょとんとしている。
「事実じゃないか。客に見られたら恥かくだろうと思ってね」
この人は、昔からそうだ。悪意はない。ただ、見えた事実をそのまま口にしてしまう。それが相手にとって致命傷になることに気づかない。
だからこそ、祖父は生前、祖母の言葉を「翻訳」していた。鋭すぎる真実を、人が受け止められるオブラートに包んで、そっと差し出していたのだ。そして今、その冷や汗の止まらない役目は、僕に引き継がれている。
「ごめんください」
玄関から声がした。僕が出迎えると、そこには近所に住む佐々木さんという女性が立っていた。三十代前半くらいだろうか。ひどく疲れた顔をしている。
「どうぞ、奥へ」
座敷へ案内すると、佐々木さんは出された麦茶を両手で包むように持ち、躊躇いがちに話し始めた。
同居している義母にプレゼントした饅頭が消えたのだという。和菓子屋の特製で、月に一度しか買えない貴重なもの。それが棚から消え、息子の健太くんが「僕が食べた」と告白したらしい。
「でも、おかしいんです」
佐々木さんは眉を寄せた。
「健太ったら、あんこが本当にダメな子で。なのに『僕が食べた』なんて……」
佐々木さんは不思議そうに首をかしげた。
「それに、あのお饅頭……義父が亡くなってからの三年間、ずっと食卓から消えていたものなんです」
「三年、ですか?」
「ええ。三年前にお義父さんが亡くなってから、ぷっつりと。生前はお義父さんの大好物で、よく二人でお茶の時間に召し上がっていたのに」
佐々木さんは悲しげに湯呑みを見つめた。
「だから私、お義母さんは遠慮してるんだって思ったんです。お店も遠いし、行列に並ぶのも大変だからって、我慢してるんじゃないかって」
だから、代わりに並んで買ってきたのだと佐々木さんは言った。お義母さんを喜ばせようとして。懐かしい味を、もう一度味わってもらおうとして。
「健太くんは、優しい子なのかい?」
祖母が静かに口を挟んだ。
「ええ、とても。お義母さんのことも大好きで……だからこそ、何があったのか」
「ふうん。なら、大丈夫だね」
祖母はずず、とお茶を啜ったが、その目は何かを見透かしているようだった。
「ただ……健太の様子も少し変で」
「変、といいますと?」
僕が尋ねると、佐々木さんは首をかしげた。
「おやつの時間前だったのに、手と膝が泥だらけだったんです。それに、妙に甘い花の匂いがして……」
「花の匂い?」
「ええ。柑橘系の、蜜柑の花のような……」
その瞬間、横で庭を眺めていた祖母が、ふっと小さく息を吐いた。
何かを言いたげに口を開きかけ——しかし、佐々木さんが「すみません、少しお手洗いを借りてもいいですか?」と立ち上がったため、祖母は言葉を飲み込んで「どうぞ」と奥を指差した。
佐々木さんの足音が廊下の奥へ消える。縁側に祖母と二人きりになった瞬間、祖母が僕の袖をそっと引いた。
「ねぇ」
低い声。これは、翻訳の合図だ。
「健太くんは、饅頭なんて食べてないよ」
祖母の声は淡々としていた。
「……埋めたのかもしれないね。庭の、夏蜜柑の根元あたりに」
僕は息を呑んだ。
「埋めた……って、どうしてわかるの?」
「決まってるじゃないか。健太くんの泥汚れ、服に移った夏蜜柑の香り。場所はそこしかあるまいよ」
「す、捨てたってこと?」
「そうだろうね。あの人にとって、その饅頭は『毒』と同じだったのかもしれない」
祖母は感情を交えず、淡々と言う。
「佐々木さんは『遠慮して買わなかった』と言っていたが、違うね。買えなかったんだよ」
「買えなかった?」
「ああ。亡くなった旦那さんとの思い出が詰まりすぎてるのさ。見るだけで、あの頃がフラッシュバックして動悸が止まらなくなる」
祖母は縁側の柱にもたれた。
「だからこの三年間、遠ざけていたんだよ。視界に入れないようにして、なんとか平静を保っていた。……そこに突然、親切な嫁がその『毒』を持ってきたら、どうなると思う?」
僕は息を呑んだ。善意のプレゼントが、封印していた悲しみの蓋をこじ開けてしまったのだ。
「パニックになるだろうね。だから、発作的に視界から消そうとしたんだよ。旦那さんが好きだったあの木の下に埋めてな」
「だとしても……埋めるなんて……」
「そのまま埋めたんじゃないと思うよ」
祖母は静かに言った。
「あの人は几帳面だ。いくらパニックでも、食べ物を土に直接放り込むような無礼はできない。……ひょっとしたら、鶴の柄の懐紙を使ったかもしれないね」
「懐紙……?」
「ああ。昔、自慢されたことがある。『主人が選んでくれた大切な道具だ』ってね。台所の、一番上の引き出しに入っているやつさ」
祖母は庭の夏蜜柑の方角を見つめた。
「あんた、佐々木さんが戻ってきたら聞いてごらん。『食器棚の引き出しが、少し開いていませんでしたか』って」
「開いているって、どうしてわかるの?」
「懐紙を取り出した時、あの人の手は震えていたはずだ。呼吸も乱れ、立っているのがやっとの状態さ。……そんな体で、引き出しをきっちり閉める余裕なんて、あるわけがない」
それは共感というより、冷静な分析だった。しかし、その言葉に僕の中で点と点が繋がった。
泥だらけの健太くん。夏蜜柑の匂い。そして、使われたはずの懐紙。
祖母は僕の顔を見て、ふっと目を細めた。
「本当のことを言えば、あの人は楽になるだろうけどね。……それで壊れるなら、それまでさ」
僕は言葉に詰まった。祖母にとっては、それもまた一つの「事実」でしかないのだ。僕は頷いたが、胸の奥で小さな違和感が残った。
祖母はいつも正しい。けれど、その正しさは、誰のためのものなのだろう。
「困ったもんだねぇ」
祖母は小さく溜息をついた。
「真実ってのはいつも、ちょいとばかり苦いんだよ」
佐々木さんが戻ってくる足音が聞こえた。そのまま伝えれば、誤解が生む悲劇になる。「義母はあなたの贈り物を庭に埋めた」——その事実だけでは、あまりに猟奇的だ。翻訳しなければ。この苦い真実を、飲み込める温度に変えて。
——もし、違っていたら。義母がただ、嫁の善意を疎ましく思っただけだったら。懐紙なんて使っていなくて、ただ泥の中に放り込んでいただけだったら。
正直に言えば、僕はこの話を早く終わらせたかった。これ以上、誰かの気持ちを想像し続けるのが、怖かったのだ。
けれど。僕は拳を握りしめた。祖父ならきっと、こうするはずだ。真実がどうあれ、そこに「光」を当てる場所を選ぶ。それが翻訳家の仕事だ。
「佐々木さん」
席に戻った佐々木さんに、僕はゆっくりと口を開いた。
「健太くんのついた嘘は、誰かを傷つけるためのものじゃありません」
佐々木さんの目が見開かれた。
「嘘……?じゃあやっぱり、健太は食べてないの?」
「ええ。彼は守ろうとしたんです。お義母さまにとっての、聖域のような場所を」
「場所?」
「そのお饅頭、亡くなったお義父さまがお好きだったんですよね?きっとお義母さまは、あなたからの贈り物を、一番大切な場所にしまおうとされたんです」
僕は言葉を選びながら続けた。
「お義父さまが愛した、夏蜜柑の木の下です。食べて消してしまうよりも、ご主人のそばに手向けたかったのかもしれません」
佐々木さんの顔が強張る。
「そ、そんな……やっぱり、私の贈り物が迷惑で、捨ててしまわれたんじゃ……」
「佐々木さん」
僕は彼女の言葉を遮り、祖母の推論を信じて問いかけた。
「今朝、台所の食器棚の引き出しが……少し開いていたりしませんでしたか?」
佐々木さんはハッとして顔を上げた。
「え……?どうして、それを」
「普段は几帳面なお義母さまが、閉め忘れていたんじゃありませんか?」
「は、はい!一番上の、小物が入っている引き出しが、半開きになっていて……珍しいなって思っていたんです」
当たった。祖母の言う通りだ。義母はパニックの中で、それでも懐紙を取り出したのだ。
……本当に?ただの閉め忘れだったかもしれない。懐紙の枚数なんて、誰も数えていない。でも、僕は選ぶ。そういう物語であってほしいと、願う。
「お義母さまは、それを使われたんです」
僕は確信を持って告げた。そうであると、信じるように。
「ただ埋めたんじゃありません。一番上等な懐紙を敷いて、その上にお供えしたんです。土に汚れないように、丁寧に、大切に。そこをご主人との食卓に見立てて」
佐々木さんの目が泳ぎ、やがて一点を見つめて止まった。
「……そう、なんですね」
佐々木さんはそう言った。その瞳は、縋るように僕を見つめていた。まるで「そうだと言ってくれ」と懇願するように。彼女もまた、気づいていたのかもしれない。僕の言葉が、あまりにも都合のいい物語だということに。それでも彼女は、その嘘を飲み込むことを選んだ。
その共犯関係のような沈黙を埋める言葉を、僕は持っていなかった。
「健太くんは、それを見てしまったんですね。おばあちゃんが、白い花の散る木の下で、泣きながらお供えをしているのを」
僕は、健太くんの小さな泥だらけの手のひらを想像しながら言葉を継いだ。
「お義母さまが立ち去った後、土が盛り上がっていたら、誰かに掘り返されてしまうかもしれない。……健太くんはそう思ったんじゃないでしょうか」
「え……?」
「だから彼は、大好きなおばあちゃんの秘密を守るために、地面に膝をついて、小さな手で一生懸命に土をならしたんです」
義母は、ただ黙って土をならしただけだったのかもしれない。それが優しさだったのか、恐れだったのか、僕には分からない。けれど健太くんの手のひらの泥だけは、確かな「守りたい」という意志の証だと、僕は翻訳した。
「……そうやって証拠を隠したあと、彼はあなたに言ったんです。『僕が食べた』って」
佐々木さんは両手で顔を覆い、肩を震わせて泣き崩れた。
「私……なんて勘違いを。あの子も、お義母さんも……みんな優しすぎて……」
「……あの二人は、鏡合わせだね」
それまで黙っていた祖母が、ぽつりと呟いた。
「似たもの同士だって言ったんだよ。お互いに気を使いすぎて、肝心なところが見えてない」
祖母の言葉はぶっきらぼうだった。けれど、そこには確かな温度があった。
「……そうですね」
僕は祖母の言葉を拾い上げ、佐々木さんに渡した。
「お二人とも、優しすぎて、ほんの少し歯車が噛み合わなかっただけですよ」
佐々木さんは深く頷いた。
「帰ったら、お義母さんと、ちゃんと話してみます。お義父さんのこと、もっと聞かせてって。……それから、健太を抱きしめてあげます」
「それがいい。きっと懐紙も、一枚減っているはずだよ」
祖母はようやくこちらを向き、しわくちゃな顔でニッと笑った。
佐々木さんが帰った後、縁側には再び静寂が戻った。庭の木々が、青々とした葉を風に揺らしている。隣の家の庭では今頃、白い夏蜜柑の花が甘く香っているのだろう。
「おじいさんに似てきたねぇ」
祖母はそう言って、いつものように立ち上がった。台所の方へ行きかけて、ふと思い出したように振り返る。
「……もっとも」
その声は、やけに低かった。
「本当のところは、分からないけどね」
「え?」
「人の心なんて、土の中と同じさ。掘り返せば、違うものが出てくることもある」
そう言って、祖母は今度こそ台所へ消えた。縁側に一人残された僕は、庭の夏蜜柑を見た。
白い花はもう散り始めていて、土の表面は何事もなかったように平らだ。
——僕が訳した物語は、真実だったのか。いや、原文を勝手に書き換える行為は、翻訳家にとって最大の禁忌(タブー)ではなかったか。それはもはや翻訳などではなく、ただの「改竄(かいざん)」だったのではないか。
それを確かめる術は、もうない。
それでも。
もしあの場所に眠っているのが、ただの饅頭ではなく、誰かの「耐えきれなかった想い」だとしたら。僕の翻訳にも、意味はあったのだと——そう信じたいと思った。
名推理は、今日も縁側で生まれる。
そして僕は、いつか誤訳するかもしれない未来を抱えたまま、祖母の隣に座り続けるのだ。
次の更新予定
2026年1月15日 21:00
名推理は縁側で ~苦い真実の翻訳家~ 米弧 @yakushiji
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