第7話「崩れる蔵と受け継がれる魂」

『月光堂』の裏庭に回ると、事態は思ったよりも深刻だった。

 湿った重たい雪が、古びた土蔵の屋根に降り積もり、その重みに耐えきれなくなった梁がミシミシと悲鳴を上げている。瓦が数枚、ガラガラと音を立てて滑り落ちた。

「親父の木型が……!」

 蓮が青ざめた顔で蔵に駆け寄ろうとする。

「待って! 危ないです!」

 湊が慌てて蓮の腕を掴んで止める。今にも崩れそうな建物に近づくのは自殺行為だ。

「でも、あの中には店の歴史が! あれを失ったら、俺は……!」

 蓮の目は必死だった。いつも冷静な彼が、我を忘れて取り乱している。それほどまでに、あの蔵の中身は彼にとって重要なのだ。

「落ち着いてください! 中に入るのは無理です。まずは雪下ろしをして、負荷を減らすしかありません!」

 湊の叫び声に、蓮がハッと我に返る。

「……そうですね。梯子を」

 蓮は倉庫から長い梯子と雪下ろしの道具を持ってきた。

「僕も手伝います」

「駄目です。湊さんは下で見ていてください。危険すぎます」

「そんなこと言ってる場合ですか! 二人でやったほうが早いです!」

 湊は頑として譲らない。その気迫に押され、蓮は短く頷いた。

 二人は慎重に梯子をかけ、屋根に登る。足元は滑りやすく、恐怖で足が竦みそうになる。だが、蓮の大切なものを守りたい一心で、湊はスコップを振るった。

 雪を落とすたびに、屋根が少し軽くなるのが分かる。

 極寒の中、汗だくになって作業を続けること一時間。ようやく屋根の雪の大半を落とし終えた頃、バキッという嫌な音が響いた。

「蓮さん!」

 蔵の扉の上にある庇(ひさし)が、雪の重みと経年劣化で崩落したのだ。

 その衝撃で、錆びついていた南京錠の金具が、奇跡的に弾け飛んだ。

「……鍵が、開いた?」

 蓮が呆然と呟く。

 屋根の上から降りた二人は、土埃の舞う蔵の入り口に立った。

 扉は半開きになり、暗い闇が口を開けている。

「入りましょう」

 湊が背中を押す。

 蓮は震える手で、重い扉を押し開けた。

 懐中電灯の光が中を照らす。埃っぽい空気の中に、懐かしい木の香りが漂っていた。

 棚には無数の菓子木型が並んでいる。桜、菊、紅葉、千鳥。どれも使い込まれ、飴色に輝く美しい道具たちだ。

 そして、部屋の中央にある作業台の上に、一冊の古びたノートと、小さな箱が置かれていた。

 蓮が吸い寄せられるように近づき、ノートを手に取る。

 それは、先代が書き残した『菓子覚書』だった。配合や手順が事細かに記されている。

 ページをめくると、最後の方に、震える文字でこう書かれていた。

『蓮へ。お前の作る餡は、俺よりも旨い。自信を持て。この木型は、お前が自分の道を見つけた時に託すつもりだ。月光堂を頼んだ』

「……親父」

 蓮の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「拒絶されてなんか、いなかったんですよ。お父さんは、ずっと蓮さんを認めていたんです」

 湊が優しく声をかける。

 蓮はその場に崩れ落ち、ノートを抱きしめて男泣きした。

 長い間、彼を縛り付けていた呪いが解けた瞬間だった。

 湊はそっと蓮の肩に手を置き、彼が泣き止むのを待った。

 しばらくして、蓮が顔を上げる。目は赤く腫れているが、その表情は憑き物が落ちたように晴れやかだった。

「……ありがとうございます。湊さんがいなかったら、俺は一生ここを開けることはできなかった」

「僕は何もしてませんよ。雪が味方してくれたんです」

「いいえ。あなたが俺を変えてくれたんです」

 蓮は立ち上がり、作業台の上の小さな箱を開けた。

 そこに入っていたのは、見事な『梅』の木型だった。春を告げる花。雪の中で最初に咲く花。

「これで、明日の鏡開きの菓子を作りましょう」

 蓮が言った。

「梅ですか?」

「はい。鏡餅を割って作るぜんざい(ぜんざい)に、この型で作った紅白の梅を添えます。……再出発の証として」

「素敵です! 絶対に美味しいですよ」

 二人は蔵を出た。空はすでに白み始めている。

 崩れかけた庇の間から、朝の光が差し込んでいた。

 その光は、二人の未来を祝福しているように見えた。

「さあ、忙しくなりますよ。今日は鏡開きです」

「はい、手伝います!」

 こうして、長い夜が明けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る