第6話「閉ざされた蔵と過去の傷跡」

 初市での一件以来、蓮の湊に対する態度は明らかに変わった。過保護になったのだ。

 店に行くと、すぐに椅子を用意し、膝掛けを持ってくる。「足の具合はどうですか」「寒くないですか」と、あの無口な男が甲斐甲斐しく世話を焼く。

 その変化は嬉しくもあったが、湊には一つ気にかかることがあった。

 店番をしている時、蓮がふと遠くを見る瞬間が増えたのだ。そして、店の奥にある古い土蔵を、忌々しげに見つめることがある。

「蓮さん、あの蔵には何があるんですか?」

 ある日、湊が思い切って尋ねてみた。

 蓮の手が止まる。

「……ガラクタですよ。古い道具とか、使わなくなった什器とか」

「へえ、見てみたいな。お宝が眠ってたりして」

「見ても面白くありません。……それに、鍵が開かないんです」

「鍵?」

「ええ。父が亡くなる前に鍵を隠してしまって。それっきりです」

 嘘ではないようだが、何かを隠している雰囲気がある。

 その日の夕方、常連の老婆が店に来て、湊にこっそりと教えてくれた。

「あそこの蔵にはね、先代が大切にしていた『木型』がしまってあるんだよ。蓮ちゃんが継ぐ時に、先代が『お前にはまだ早い』って封印しちまったんだ」

 木型。和菓子職人にとって、それは命とも言える道具だ。季節ごとの美しい形を生み出すための、彫刻のような型。

「蓮ちゃんはね、先代と喧嘩別れみたいになってた時期があってね。戻ってきた時にはもう先代は病床で……和解できないまま逝っちまったのさ」

 老婆の話を聞いて、湊は合点がいった。

 蓮が時折見せる寂しそうな表情。そして、「俺は半人前だ」という言葉。彼は、父親に認められなかったという呪縛に、今も囚われているのだ。

 その夜、湊は蓮を誘って近くの居酒屋へ行った。

 酒が入れば、少しは本音を話してくれるかもしれないと思ったからだ。

 熱燗を二本空けた頃、蓮の口が少し軽くなった。

「……俺は、逃げたんです」

 ぽつりと、蓮が語り出す。

「親父の厳しさに耐えられなくて、一度家を出ました。東京でパティシエの修行をしていました」

「パティシエ? 洋菓子ですか」

「はい。和菓子とは違う世界に行きたかった。でも、結局戻ってきた。親父が倒れたと聞いて」

 蓮は猪口を見つめる。

「戻ってきた俺に、親父は言いました。『お前の菓子には芯がない』と。それからすぐに亡くなって、蔵の鍵も見つからないまま……俺は、親父の木型を使う資格がないと、拒絶されているんです」

 蓮の声は震えていた。

 強靭な肉体に宿る、あまりにも脆い心。

 あの硬くひび割れのない鏡餅は、蓮の心の象徴なのかもしれない。頑なに自分を守り、誰の侵入も許さない、孤独な城。

 湊はテーブル越しに蓮の手を握った。

「そんなことないですよ」

 蓮が驚いて顔を上げる。

「先代が本当に拒絶していたなら、木型を処分していたはずです。蔵に残しているのは、いつか蓮さんがそれを受け継ぐ時を待っているからじゃないですか?」

「……買いかぶりです。俺は、親父を捨てた親不好者ですから」

「違います。蓮さんは戻ってきた。そして、店を守っている。あなたの作る餡は、あんなに優しいじゃないですか。芯がないなんて嘘だ。僕には分かります」

 湊の真っ直ぐな瞳に射抜かれ、蓮は言葉を失う。

 握られた手から伝わる熱が、蓮の冷え切った心を溶かしていくようだ。

「……湊さんは、強いですね」

「強くないですよ。僕だって逃げてきましたから」

 湊は自嘲気味に笑う。

「書けなくなって、東京から逃げてきたんです。でも、蓮さんに出会って、また書きたいって思えた。あなたは僕の光です」

 言ってしまってから、あまりに恥ずかしい台詞だと気づく。

 だが、蓮は笑わなかった。

 じっと湊を見つめ、握り返してくる。

「……俺にとっても、あなたは光です」

 その言葉は、どんな愛の告白よりも湊の胸に響いた。

 店を出ると、外は雪が降り始めていた。

 酔い覚ましに、二人は並んで歩く。肩が触れ合う距離。

「明日は、鏡開きですね」

 湊が空を見上げて言う。

「……ええ」

「店の鏡餅、割りますか?」

「……あれは、硬すぎて割れませんよ。数年前から飾っている、飾り物ですから」

「えっ、食べられないんですか?」

「中身はただのプラスチックです。表面だけ本物に見えるように加工してある」

「なーんだ! 騙された!」

 湊が笑うと、蓮もつられて笑った。

「でも、本物の鏡餅も用意してあります。加工場の神棚に」

「じゃあ、それを割りましょう。二人で」

「二人で?」

「はい。一人じゃ硬くて割れないなら、二人で力を合わせればいいんです。そうすれば、どんな硬い殻だって割れますよ」

 それは、蓮の心にある蔵の扉を開けることへのメタファーでもあった。

 蓮は立ち止まり、湊を見下ろした。雪が蓮のまつ毛に降りかかる。

「……そうですね。あなたとなら、割れる気がします」

 蓮の手が、そっと湊の頬に触れる。冷たいはずの指先が、今は温かい。

 唇が重なる予感がした。

 湊は目を閉じる。

 だが、その時。

「蓮ちゃん! 大変だよ!」

 近所のおじさんが血相を変えて走ってきた。

「どうしました?」

「店の裏の蔵が! 雪の重みで屋根が崩れそうだ!」

 二人は顔を見合わせ、雪道を駆け出した。

 閉ざされた蔵。そこには蓮の過去と未来が眠っている。それが今、危機に瀕していた。

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