第3話「静寂の中の鼓動」

小雪が舞う一月の古都は、静寂に包まれていた。

『月光堂』の工房には、リズミカルな音が響いている。ジャラッ、ジャラッ、と小豆を洗う水の音。トントン、と何かを刻む音。それらはまるで音楽のように心地よく、湊の耳をくすぐった。

あの日以来、蓮の態度は軟化した。取材の許可こそまだ正式には下りていないものの、湊が店に長居することを咎めなくなったのだ。今日は「外は寒いから」と、工房の隅にある丸椅子に座ることまで許されている。

湊は邪魔にならないよう気配を消し、蓮の作業を見つめていた。

今日の蓮は、求肥(ぎゅうひ)を練っている。大きなボウルの中で、白玉粉と砂糖、水が混ざり合い、熱によって粘り気を帯びていく。蓮の太い腕には筋肉が浮き上がり、力強く、それでいてリズミカルに木べらを動かしていた。

湯気越しに見る蓮の横顔は真剣そのものだ。普段の無愛想な表情とは違い、そこには職人としての矜持と、素材への深い敬意が滲んでいる。

『美しい』

湊の心に浮かんだのは、そんなシンプルな言葉だった。

男に対して使う言葉ではないかもしれない。だが、一つのことに没頭する人間の姿は、性別を超えて美しいと湊は思う。

「……そんなに見られると、やりにくいんですが」

不意に蓮が口を開いた。手は止めないまま、視線だけをこちらに向けてくる。

「あ、すみません! つい、見惚れてしまって」

「……見惚れる?」

「はい。高遠さんの手捌き、本当に綺麗で。無駄がないっていうか、舞踏を見てるみたいです」

湊の直球な感想に、蓮はまたしても耳を赤く染めた。この強面な職人が、実は照れ屋であることに湊は気づき始めていた。そのギャップが何とも言えず可愛らしい。

「……買いかぶりです。俺はただ、親父の真似事をしているだけで」

「お父様も、職人さんだったんですか?」

「ええ。先代です。頑固で、厳しくて……俺なんかよりずっと、いい腕をしていました」

過去形で語られた言葉に、湊は少しの寂しさを感じ取る。蓮の視線が、一瞬だけ遠くを見るように揺らいだ。

「僕には、高遠さんの腕も素晴らしいと思えますけどね」

「……まだ、半人前です」

蓮はそう言い捨てると、練りあがった求肥をバットに移した。

熱いうちに片栗粉をまぶし、素早く切り分けていく。その手際も見事なものだ。

「熱くないんですか?」

「慣れています。職人の手は、皮が厚くなりますから」

蓮は自分の手を見つめ、自嘲気味に笑った。

「無骨で、汚い手です」

「そんなことない!」

湊は思わず声を張り上げていた。

蓮が驚いて顔を上げる。湊は椅子から立ち上がり、蓮の近くまで歩み寄った。

「その手は、たくさんの美味しいお菓子を作ってきた手じゃないですか。人を笑顔にする手です。ちっとも汚くなんてありません」

熱のこもった湊の言葉に、蓮は呆気にとられたように口を開き、それから苦笑した。

「……あなたは、本当に口が上手い」

「ライターですからね。でも、お世辞じゃありませんよ」

二人の距離は、一メートルもない。

漂う甘い香りと、蓮から発せられる熱気が、湊を包み込む。

ふと、蓮の手が伸びてきた。

「え」

身構える間もなく、蓮の指先が湊の頬に触れる。

「……餡子が、ついています」

そう言って、蓮は湊の頬についた小さな餡の欠片を拭い取った。

ざらりとした指の感触。

だが、そこから伝わる温度は驚くほど優しく、湊の心臓を跳ねさせた。

「あ、ありがとう、ございます」

声が裏返る。

蓮は何事もなかったかのように作業に戻ったが、湊の心臓はいつまでも早鐘を打ち続けていた。

今の、何だ。

ただ汚れを取ってもらっただけだ。それなのに、どうしてこんなに動揺しているのだろう。

湊は赤くなった顔を隠すように俯いた。

その時、店の電話が鳴り響いた。

蓮が手を拭いて受話器を取る。

「はい、月光堂です。……ええ。……はい。……それは、どういうことですか」

蓮の声色が、次第に険しいものへと変わっていく。

湊は顔を上げ、蓮の様子を伺った。

背中越しに伝わる緊張感。ただならぬ気配だ。

「……わかりました。善処します」

蓮は短く答え、受話器を置いた。その背中は、怒りよりも深い落胆に沈んでいるように見えた。

「高遠さん? 何かあったんですか」

恐る恐る尋ねる湊に、蓮は振り返り、力なく首を振った。

「……大口の注文が、キャンセルになりました」

「えっ」

「来週の、老人会の新年会で配るはずだった紅白饅頭です。二百個。……すでに材料も仕入れ、餡も仕込み始めていたんですが」

「そんな……今からですか? 理由は?」

「予算の都合で、もっと安い量産品の菓子にすることになったそうです」

淡々と語る蓮だが、その拳は固く握りしめられている。

個人の店にとって、二百個のキャンセルは痛手だ。しかも、理由は価格競争。丹精込めて作る職人の技術が、安価な工場製品に負けたのだ。

蓮のプライドが傷つけられたことは想像に難くない。

「……仕方ありません。商売ですから」

蓮は自分に言い聞かせるように呟き、仕込み中の餡に視線を落とした。この大量の餡をどうするつもりなのだろう。廃棄するつもりだろうか。

湊の中で、何かが弾けた。

このまま蓮を落ち込ませたくない。あの素晴らしいお菓子が無駄になるなんて耐えられない。

「高遠さん、諦めるのはまだ早いです!」

「……え?」

「売りましょう。そのお饅頭、僕が売るのを手伝います!」

「何を言って……うちは店舗販売だけで、外売りは」

「街へ出るんです。ちょうど観光シーズンですし、やり方次第では捌けるはずです。僕に任せてください!」

根拠などない。だが、湊の目には確かな炎が宿っていた。

蓮は戸惑ったように湊を見つめ、やがて小さく息を吐き出した。それは呆れではなく、どこか安堵したような響きを持っていた。

「……我儘な人だ」

「よく言われます。さあ、そうと決まれば作戦会議です!」

湊は腕まくりをする仕草を見せ、蓮の隣に立った。

静寂に包まれていた工房に、新たな熱が生まれようとしていた。それは二人の関係を大きく変える、騒がしくも温かい予兆だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る